鍼灸甲乙経3 淺野 周 訳
営衛三焦・第十一(『霊枢・営衛生会』)
黄帝問曰、人焉受気。陰陽焉会。何気為営。何気為衛。営安従生。衛安従会。老壯不同気、陰陽異位、願聞其会。
岐伯対曰、人受気於穀。穀入於胃、気伝於肺、五蔵六府、皆以受気。其清者為営、濁者為衛、営行脈中、衛行脈外。営周不休、五十而復大会、陰陽相貫、如環無端。衛気行於陰二十五度、行於陽亦二十五度、分為昼夜。故至陽而起、至陰而止。故日中而陽隴(一作襲。下同)為重陽、夜半而陰隴為重陰。故太陰主内、太陽主外、各行二十五度、分為昼夜。夜半為陽隴、夜半後而陰衰、平旦陰尽而陽受気、日中為陽隴、日西而陽衰、日入陽尽而陰受気、夜半而大会、万民皆臥、名曰合陰、平旦陰尽而陽受気。如是無已、与天地同紀。
曰、老人不夜瞑、少壯不夜寤者、何気使然。
曰、壯者之気血盛、其肌肉滑、気道利、営衛之行、不失其常、故昼精而夜瞑。老者之気血減、其肌肉枯、気道渋、五蔵之気相薄、営気衰少而衛気内伐、故昼不精而夜不得瞑。
黄帝「どこから人は気を受けるのですか?陰陽の会は、どこですか?どの気が営ですか?どの気が衛ですか?営は、どこで作られるのですか?衛は営と、どのように接しているのですか?老人と壮年で衛気の状況が異なり、陰陽の気が循行する部位も異なります。それらの接続状況を知りたいのです」
岐伯「人は食べ物から気を摂取する。穀物は胃に入り、肺へ送られて、五臓六腑は、一つ残らず気を受ける。その清なるものは営気であり、濁なるものが衛気である。営気は脈中を流れ、衛気は脈外を流れる。営気は休みなく流れ続け、五十周すると大会する。陰経と陽経を貫いて、リングのように終わりがない。衛気は陰経を25周流れ、陽経を25周流れる。昼夜に分かれて半分ずつ流れ、衛気が陽経に達すると人は目覚め、陰経に達すると眠る。だから『日中は、衛気が陽経を流れるだけでなく、自然環境も陽気が盛んなので重陽である。夜中は衛気が陰臓を流れ、自然環境も陰気が盛んなので重陰である』という。それで太陰は体内を管理し、太陽は体表を管理して、それぞれを25周、昼夜に分かれて運行する。夜中は陰が集まっているが、夜中を過ぎると陰が衰え始め、明け方になると陰が終わって陽経が衛気を引き継ぐ。日中は陽が集まり、日が西に傾くと陽が衰え始め、日の入りで陽が終わって陰臓が衛気を引き継ぐ。夜中に営衛が大会する時は、万民が熟睡しており、それを合陰と呼ぶ。夜が明けると陰が尽きて陽経に衛気が流れる。こうした状態が続く。これは天地が運行するのと同じ法則である」
黄帝「老人が夜眠れなかったり、若者が熟睡して目覚めないのは、やはり気がさせているのですか?」
岐伯「若者は気血が旺盛で、筋肉も滑らかで、気の通り道も流れやすいので、営衛の流れは正常であり、昼間は精が出て、夜は眠くなる。老人は気血が衰えて、筋肉も枯れ、気の通り道も渋滞しやすく、五臓の気も乱れており、営気が衰えて、衛気も不足しているので、営衛の流れが悪く、昼間に陰臓を流れていたり、夜間に陽経を通っていたりし、昼は無精で、夜も眠れない。
曰、願聞営衛之所行、何道従始。
曰、営出於中焦、衛出於上焦。上焦出於胃上口、並咽以上、貫膈而布胸中、走腋、循手太陰之分而行、還注手陽明、上至舌、下注足陽明。常与営倶行於陰陽、各二十五度為一周、故日夜五十周而復始、大会於手太陰。
黄帝「営衛が最初に流れ始めるのは、どこからですか?」
岐伯「営気は中焦から出て、衛気は上焦から発する。上焦は胃の噴門から始まり、食道に沿って上がり、横隔膜を貫いて胸中に広がり、腋へ走って、手太陰経脈に沿って行く。さらに手陽明へと注がれて、舌に上がり、足陽明へ注いで下る。つねに営気は陰経と陽経を行き、25回ほど循環して1周する。だから昼夜で50周して最初に戻り、手の太陰経脈にて大会する」
曰、人有熱、飲食下胃、其気未定、汗則出、或出於面、或出於背、或出於身半、其不循衛気之道而出、何也。
曰、此外傷於風、内開理、毛蒸理泄、衛気走之、固不得循其道。此気慓悍滑疾、見開而出、故不得従其道、名日漏泄。中焦亦並於胃口、出上焦之後。此所以受気、泌糟粕、蒸津液、化其精微、上注於肺脈、乃化而為血、以奉生身、莫貴於此、故独得行於経隧、命曰営気。
黄帝「人は発熱していると、食物を摂取して胃へ入ったとき、まだ消化されて気となっていないのに汗をかき、顔や背中、半身から発汗しますが、それは衛気の通路から排泄されるのではありません。なぜですか?」
岐伯「それは風邪だからだ。風邪は汗腺を開かせて、汗を対外へ排出させる。衛気は、その風邪に開かされた汗腺へと走るが、それは通常の道を通るわけではない。なぜなら衛気は勢いがあって、すばやく、開いているところと見れば出てしまう。このように正常な経路を通らないものを『漏泄』と呼ぶ。中焦も胃口に並んでおり、上焦の後ろへ出る。そこで水穀の気を受けて糟粕を出し、津液を蒸気にし、そのエッセンスを抽出して、上の肺脈に運ぶ。水穀のエッセンスは変化して血となり、身体を栄養する。これより貴重な物はない。だからそれだけは管の中を流れる。それを営気という」
曰、血之与気、異名同類、何也。
曰、営衛者、精気也。血者、神気也。故血之与気、異名同類也。故奪血者無汗、奪汗者無血。故人有両死、而無両生也。下焦者、別於回腸、注於膀胱而滲入焉。故水穀者、常并居於胃中、成糟粕而倶下於大腸、而為下焦、滲而倶下、滲泄別汁、循下焦而滲入膀胱也。
黄帝「では血と気は同じ物なのですね?それなのに名前が違うのは何故ですか?」
岐伯「営衛は、水穀の精微から作られた気である。血は、水穀の精微が心臓の作用によって赤く変化したものである。だから血と気は、名前は異なるものの同じ種類である。それで失血したものは発汗させられず、ひどく発汗しているものは出血させられない。だから血も汗もなければ、陰も陽もないので死亡する。陰だけでも陽だけでも生きられない。下焦は、胃で消化した水穀を回腸で分け、汚れた水分を膀胱へ滲み出させる。だから水穀は胃に入り、腐熟されて小腸で必要なものと不要なものに分け、不要なものは糟粕となって一緒に大腸に送られる。それが下焦である。そこで水分は膀胱へ滲み出し、濁なる糟粕は大腸へ送られる」
*并は集まるの意味。
曰、人飲酒、酒亦入胃、米未熟而小便独先下者、何也。
曰、酒者、熟穀之液也、其気悍以滑(一作清)、故後穀而入、先穀而液出也。故曰上焦如霧、中焦如、下焦如、此之謂也。
黄帝「では人が酒を飲むと酒も胃に入りますが、まだ胃の米が消化されていないのに小便だけが先に出るのは何故ですか?」
岐伯「酒とは、穀が発酵してできた液体である。それはすでに腐熟しているのだから、酒気は素早くて荒々しい(『霊枢』は「清い」としている)。だから穀より後で胃に入っても、その食物が腐熟する前に液が排出されてしまう。だから上焦は水分が蒸気となって霧のようであり、中焦は食べ物が発酵して漬物樽のようであり、下焦は不要な水分を捨てるため下水道のようだというが、それを三焦と呼んでいるのだ」
陰陽清濁精気津液血脈・第十二(『霊枢・陰陽清濁』と『霊枢・决気』)
黄帝問曰、願聞人気之清濁者、何也。
岐伯対曰、受穀者濁、受気者清。清者注陰、濁者注陽。濁而清者、上出於咽、清而濁者、下行於胃。清者上行、濁者下行。清濁相干、名曰乱気。
曰、夫陰清而陽濁、濁中有清、清中有濁、別之奈何。
曰、気之大別、清者上注於肺、濁者下流於胃。胃之清気、上出於口。肺之濁気、下注于経、内積于海。
曰、諸陽皆濁、何陽独甚。
曰、手太陽独受陽之濁、手太陽独受陰之清。其清者、上走空竅。其濁者、下行諸経。故諸陰皆清、足太陰独受其濁。
曰、治之奈何。
曰、清者、其気滑。濁者、其気渋。此気之常也。故刺陰者、深而留之。刺陽者、浅而疾取之。清濁相干者、以数調之也。
黄帝「人の清気と濁気とは、いったいなんですか?」
岐伯「口から食べる穀物のように、地面の気を吸収したものから得るのが濁気です。そして鼻から吸い込む空気のように、天の気を吸い込んだものが清気です。清気は陰臓の肺へ注がれ、濁気は陽腑の胃へ注がれます。水穀の濁気から化生した清気は上昇して咽喉へ出、呼吸した清気のうち濁気は胃へ下行する。清気は上昇し、濁気は下行する。もし清濁が混じって、清気が上昇できず濁気が下行しなくなったら、それを乱気と呼ぶ」
黄帝「陰臓は清気で、陽腑は濁気を受納しますね。しかし濁気のなかの清気、清気のなかの濁気は、どのように別れるのですか?」
岐伯「気の違いとは、清なる気は肺へ注がれ、濁なる気は胃に流れる。胃に入った濁気のうち清なる気は口に上がって出、肺の清気のうち濁なる気は経脈に注がれて胸中の気海に蓄積される」
黄帝「諸陽はすべて濁を受けるのは判りましたが、どの経脈が最も濁気を受けるのですか?」
岐伯「手の太陽小腸経が陽腑で最も濁気を受け、手の太陰肺経が陰臓で最も清気を受ける。その清気は上がって目や耳など五官へ行き、その濁気は経脈へ下行する。だから諸陰臓は清気を受けるのだが、足の太陰経脈だけは濁気を受ける」
黄帝「陰臓と陽腑で、どのように清濁を治療するのですか?」
岐伯「清なる気は滑りやすく、濁なる気は渋る。これが気の常識である。だから陰を刺すときは、深く刺入して鍼を留める。陽を刺すときは、浅く刺入して素早く抜鍼する。清濁が混じり合っているときは、その清濁に応じて刺鍼する」
曰、人有精、気、津、液、血、脈、何謂也。
曰、両神相搏、合而成形、常先身生是謂精。上焦開発、宣五穀味、熏膚充身沢毛、若霧露之漑、是謂気。理発泄、汗出理(一作)、是謂津。穀入気満、沢注於骨、骨属屈伸出洩、補益脳髓、皮膚潤沢、是謂液。中焦受汁、変化而赤、是謂血。擁遏営気、令無所避、是謂脈也。
曰、六気者、有余不足、気之多少、脳髓之虚実、血脈之清濁、何以知之。
曰、精脱者、耳聾。気脱者、目不明。津脱者、理開、汗大泄。液脱者、骨属屈伸不利、色夭、脳髓消、、耳数鳴。血脱者、色白、夭然不沢。脈脱者、其脈空虚。此其候也。
曰、六気貴賤、何如。
曰、六気者、各有部主也、其貴賤善悪、可為常主、然五穀与胃、為大海也。
黄帝「人の精、気、津、液、血、脈は、すべて一つの気から生まれます。どうして名称が違うのですか?」
岐伯「男女が結合し、精子と卵子が結合して身体になるが、その身体ができる前の生命体を精と呼ぶ。上焦が飲食した五穀の味を全身へ発散させ、膚を温めて身体に充ち、毛を艶やかにし、あたかも霧や露のように全身を潤すものが気である。汗腺が開き、汗腺から汗が出る(『霊枢』はタラタラとしている)が、それが津である。穀が入って、水穀の気が満ち、骨に注いで濡らし、関節を屈伸させ、脳髄に出て栄養し、皮膚をベトベトさせるのが液である。中焦が吸収した水穀の精微が、体内の整理作用で赤く変化したものが血である。営気を遮って、よそへ逃
られなくしている壁が脈である」
黄帝「精、気、津、液、血、脈など、六気の過不足、気の量、脳髄の虚実、血脈の清濁などは、何によって知るのですか?」
岐伯「精が脱ければ難聴となり、気が脱ければ眼が見えにくく、津が脱ければ汗腺が開いて多量の汗をかき、液が脱ければ関節が動きにくく、皮膚の艶がなくなって、脳髄は満たされず、脛が怠くて力がなくなり、耳鳴りがする。血が脱ければ顔面蒼白になり、皮膚の艶がなくなる。脈が脱ければ、脈が空虚になる。以上は六気が脱けたときの徴候である。
黄帝「六気の重要性は、どうなのですか?」
岐伯「六気は、精は腎、気は肺、血は心というように、それぞれ管理する臓器が違う。だから身体の生理における重要性や正常異常の状況は、それを管理している臓器の状態によって決まる。六気が正常ならば貴くて善いが、異常ならば賎しくて悪い。六気は臓器が管理しているといっても、それは五穀から作られているのであり、胃が五穀の海なので、六気は胃によって作られていると言える」
*骨属屈伸不利は、原文では骨痺屈伸不利。『霊枢』により改めた。
津液五別・第十三(『霊枢・五津液別』)
黄帝問曰、水穀入于口、輸于腸胃、其液別為五。天寒衣薄、則為溺与気。天暑衣厚、則為汗。悲哀気并、則為泣。中熱胃緩、則為唾。邪気内逆、則気為之閉塞而不行、不行則為水脹。不知其何由生。
岐伯対曰、水穀、皆入於口、其味有五、分注其海、津液各走其道。故上焦(一作三焦)出気、以温肌肉、充皮膚者、為津。其留而不行者、為液。天暑衣厚、則理開、故汗出。寒留於分肉之間、聚沫則為痛。天寒則理閉、気渋不行、水下流於膀胱、則為溺与気。五蔵六府、心為之主、耳為之聴、目為之視、肺為之相、肝為之将、脾為之衛、腎為之主外。故五蔵六府之津液、尽上滲於目。心悲気并、則心系急、急則肺葉挙、挙則液上溢。夫心系急、肺不能常挙、乍上乍下、故咳而泣出矣。
黄帝「五穀は口から入り、胃腸へ送られて五種類の津液が生産されます。例えば、寒い季節に薄着をしていれば、その津液は尿と気になります。また暑い季節に厚着をしていれば、その津液は汗になります。悲しければ津液は気とともに上昇し、涙になります。中焦に熱があって胃が緩んでいれば、その津液は唾液になります。邪気が体内にあって気の流れを阻めば、気は閉塞して水分を運べなくなり、水分が溜って浮腫や腹水となります。それらがどうやって作られるのかを教えてください」
岐伯「水穀は口から入るが、それには酸、苦、甘、辛、塩辛いという五つの味がある。五味から作られた精微は、それぞれの臓器と四海へ送られ、各々の津液には専用の通り道がある。だから上焦(『霊枢』は三焦としている)から精気が出て皮下脂肪を温め、皮膚を潤すものを津と呼び、それが留まって移動しないものを液と呼ぶ。暑い気候で厚着をしていれば汗腺が開いて陽気が排出され、それと一緒に水分が汗として出る。そして寒邪が肉の間に留まれば、水分が沫となって凝集し、陽気の流れが阻まれて痛みとなる。寒い気候であれば汗腺が閉じ、陽気は渋って皮膚に行き渡らず、汗として排出されない水分は下の膀胱に流れ、そこで尿となって気と一緒に排出される。五臓六腑は、心が大主であり、耳が聴いて、目が見る。肺は呼吸の規律を守る宰相であり、肝は画策する将軍、脾は衛気を作り出して身体を守る衛兵であり、腎は耳や目の瞳子を使って体外の情報を伝える諜報部員である。そして五臓六腑の津液は、すべて目に上がり、悲しければ気が一斉に心中に集まり、心臓を吊り下げている紐が縮む。紐が縮めば心臓は上へ競り挙がって肺を圧迫し、心肺が挙がるので、液も眼から押し出される。紐である心系が縮むといっても、縮みっぱなしではなく伸びたり縮んだりし、そのたびに肺が押し上げられたり下がったりピストンのように動くので、そのたびにヒックヒックとしゃくりあげて涙が溢れ出る」
*泣出矣の原文は涎出矣。『霊枢』により改めた。
中熱則胃中消穀、消穀則虫上下作矣。腸胃充郭、故胃緩、緩則気逆、故唾出矣。
五穀之津液、和合而為膏者、内滲入於骨空、補益脳髓、而下流於陰。陰陽不和、則使液溢而下流於陰。髓液皆減而下、下過度則虚、虚則腰脊痛而。陰陽気道不通、四海閉塞、三焦不瀉、津液不化、水穀并於腸胃之中、別於回腸、留於下焦、不得滲於膀胱、則下焦脹、水溢則為水脹。此津液五別之順逆也。
岐伯「中焦に熱があれば、胃の中の穀物も腐熟が加速されて、すぐに腸へ送られ、胃が空っぽになるので、胃の中にいる虫が食べ物を求めて這いずり回る。胃が空っぽになれば胃壁にストレッチがかからず、胃壁が緩む。胃部が緩めば気は胃を離れて上昇し、津液も気に運ばれて口へ出るから唾となる」
岐伯「五穀の津液が脂肪分と混じり、体内の骨腔に滲み出して脳髄を満たす。それが下に流れて尿道から出るものが精液である。精液が過剰に流れだすと脳髄の液が減少して虚となり、頭はぼんやりして骨が養われず、腰や足が痛怠くなる。陰陽の気の通り道が塞がれば、四海が閉塞し、三焦が通じなくなって津液が運ばれない。そうなると水穀が胃腸に集まり、回腸へ運ばれて水分が別けられても、その水分は下焦に溜るだけで膀胱へ滲み出すことがなく、下焦が膨らんで水が溢れるため浮腫や腹水となる。以上が五種類の津液の生理と病理である」
奇邪血絡・第十四(『霊枢・血絡論』)
黄帝問曰、願聞、其奇邪而不在経者、何也。
岐伯対曰、血絡是也。
曰、刺血絡而仆者、何也。血出、而射者、何也。血出、黒而濁者、何也。血出、清而半為汁者、何也。発鍼而腫者、何也。血出、若多若少、而面色、蒼蒼然者、何也。発鍼、而面色不変、而煩悶者、何也。血出多、而不動揺者、何也。願聞其故。
曰、脈気盛而血虚者、刺之則脱気、脱気則仆。血気倶盛而陰気多者、其血滑、刺之則射。陽気積蓄、久留不瀉者、其血黒以濁、故不能射。新飲而液滲於絡、而未和合於血、故血出而汁別焉。其不新飲者、身中有水、久則為腫。陰気積於陽、其気因於絡、故刺之、血未出而気先行、故腫。陰陽之気、其新相得而未和合、因而瀉之、則陰陽倶脱、表裏相離、故脱色、而蒼蒼然也。刺之血出多、色不変而煩悶者、刺絡而虚経、虚経之属於陰者、陰気脱、故煩悶。陰陽相得而合為痺者、此為内溢於経、而外注於絡、如是陰陽皆有余、雖多出血、弗能虚也。
黄帝「六淫の邪が経脈にないのに、どうして発病するのですか?」
岐伯「それは六淫の邪が、体表の毛細血管にあるからだ」
黄帝「刺絡をすると失神する患者がありますが、なぜですか?抜鍼するとき血が噴射する患者がいるのは、なぜですか?抜鍼したとき、どす黒くてネバネバした血の患者がいるのは、なぜですか?抜鍼したとき、血がきれいで水のような患者がいるのは、なぜですか?抜鍼すると、そこが腫れるのは、なぜですか?抜鍼して出た血が、多かったり少なかったりするのに、顔面蒼白となる患者がいるのは、なぜですか?抜鍼しても顔色が変わらないのに、気分が悪くなる患者がいるのは、なぜですか?抜鍼して出血量が多いのに、なんともない患者がいるのは、なぜですか?その原因を教えてください」
岐伯「脈中の気に勢いがあるのに血が少ないと、刺絡をすれば血と一緒に気も脱けてしまう。気が脱ければ気絶する。血気ともに勢いがあり、陰気が多くて滞りがなければ、血も勢いよく流れているので、抜鍼したとき血が噴射する。陽気が絡脈に溜って移動しなければ、その熱によって血は煮詰められ、黒くなってネバネバし、抜鍼しても血が噴射しない。水を飲んで液が絡脈に滲み込み、まだ血と混じりあってなければ、出血した血は水っぽくて水分と別れる。水を飲んだばかりでもないのに血液中に水があれば、もともとから体内に水気があったのであり、その水が出ないために時間が経てば腫れる。また陰気が陽分の体表に溜り、その気が絡脈にあった場合、刺鍼しても血よりも気のほうが先に出てしまい、血が取り残されて直ちに腫れる。陰陽の気が交じりあったばかりで、まだ調和していなければ、瀉すことによって陰陽ともに脱け、陰陽が離れ離れになるので顔面蒼白になる。抜鍼して出血量が多く、顔色が変わらないのに気分が悪くなるのは、絡脈を瀉したことによって経脈の血が虚す。それによって陰経の経脈が虚せば、陰臓の臓気が脱けて気分が悪くなる。陰陽の邪気が一緒になって体内の気の流れを阻めば痛みとなる。その邪気が経脈に溢れ、体表の絡脈に満ちていると、それは陰陽の邪気が有り余っているのであり、その浮絡に刺絡して多量に出血させても、経脈が虚することはない。
*もちろん血がネバネバしたりサラサラしているのは、血中脂肪の問題なので、こうした説明は正しくない。また消毒の概念がなく、当時は寄生虫の病が多かったため、虫が病気を起こしていると考える向きが多かった。そのため刺鍼した部分が化膿して膨れた場合は体内の水分が吹き出したためと考えた。刺鍼した直後に腫れる場合は、内出血なので正解。血出黒而濁者何也の原文には何也がない。『霊枢』から補填。脈気盛の原作は脈気甚。『霊枢』により改めた。刺之血出多色不変の原文は刺之不変。『霊枢』により補填。
曰、相之奈何。
曰、血脈盛、堅横以赤、上下無常処、小者如鍼、大者如箸。刺而瀉之万全、故無失数、失数而返、各如其度。
曰、鍼入肉著、何也。
曰、熱気因於鍼、則熱、熱則肉著於鍼、故堅焉。
黄帝「どうやって血絡を見分けるのですか?」
岐伯「邪気が盛んな血脈ならば、堅く浮き出て色が赤い。身体の上下にどこへでも現れる。小さな絡は針のような太さで、大きな絡は箸ほどの太さになる。それに刺鍼して血を出せば万全である。この原則を破る事なかれ。原則を破ると、かえって問題が起きる。それぞれの程度に合わせて刺絡する」
黄帝「鍼を刺入すると、肉が鍼にくっつくのは、どうしてですか?」
岐伯「それは鍼を刺入して、鍼が熱気に遭遇すると、鍼体が熱くなって、熱によって肉が熔けて鍼に付着する。それで鍼が抜けなくなる」
*落語の世界に、若旦那が鍼を覚えて抜けなくなり、迎え鍼を打つ話がある。そして「煙草の火が鍼に当たり、その熱で肉が熔けて鍼に付着して抜けなくなった」と解説されているが、これは『霊枢』や『甲乙経』の解説である。もちろん熱で肉が熔けるため鍼に付着するのではなく、病巣部に鍼が当たると、そこの筋肉が鍼体を締めつけるために抜けにくくなる。これは時間が経てば自然に抜けるが、そこへ何本か太い鍼を刺入しても、筋肉に刺さっている鍼体の表面積が増え、筋肉の緊張が早く緩むことになって抜鍼できる時間が早くなる。箸が原文では竹かんむりに助平の助。
五色・第十五(『霊枢・五色』、『素問・脈要精微論』、『素問・五臓生成』)
雷公問曰、聞風者、百病之始也。厥逆者、寒湿之所起也。別之奈何。
黄帝答曰、当候眉間(太素作闕中)。薄沢為風、衝濁為痺、在地為厥、此其常也、各以其色、言其病也。
曰、人有不病卒死、何以知之。
曰、大気入於蔵府者、不病而卒死矣。
曰、凡病少愈而卒死者、何以知之。
曰、赤色出於両顴、大如拇指者、病雖少愈、必卒死。黒色出於顔(太素作庭)、大如拇指、不病、亦必卒死矣。
雷公「万病は風邪から始まり、冷え症は寒湿の邪によって起きると聞くがの、それらはどのように区別するのかの?」
黄帝「眉間(『太素』は闕中:印堂としている)で察知します。風は陽邪であり、皮毛から体表に入るので、眉間の色が薄くて清ければ風邪です。寒湿は陰邪であり、骨肉の間に入って深部にあるので、色が濃くて濁っていれば痛みです。冷え症は手足に起こります。発病部位が末端にあるので、色の変化も眉間の下部に現れます。これが一般的な診察です。それぞれの色によって、病気を診断できます」
雷公「日頃の病気がないのに突然死する人は、どうやったら判るのかの?」
黄帝「そうした人は元来から虚しているので、大邪の気を受ければ、身体の抵抗もなく邪気は臓腑へと侵入し、元気であっても急に臓気が衰弱して死亡します」
雷公「病気が、少し良くなったのにかかわらず、急に死んでしまうのは、なぜかの?」
黄帝「両頬が親指ぐらいの大きさで赤ければ、病状が少し良くなっても突然死します。額の髪際(神庭あたり)が親指ぐらいの大きさで黒ければ、腎気が絶えているので、病気でなくとも急死します」
*厥逆者の原文は厥逆。『霊枢』から補填。
曰、其死有期乎。
曰、察其色、以言其時。顔者、首面也。眉間以上者、咽喉也(太素、眉間以上作闕上)。眉間以中(太素亦作闕中)者、肺也。下極者、心也。直下者、肝也。肝左者、胆也。下者、脾也。方上者、胃也。中央者、大腸也。侠傍者、腎也。当腎者、臍也。面王(古本、作壬字)以上者、小腸也。面王以下者、膀胱字子処也。顴者、肩也。顴後者、臂也。臂以下者、手也。目内眦上者、膺乳也。侠縄而上者、背也。循牙車以上者、股也。中央者、膝也。膝以下者、也。当以下者、足也。巨分者、股裏也。巨屈者、膝也。此五蔵六府支局(一作節)之部也。五蔵五色之見者、皆出其部也。其部骨陷者、必不免於病也。其部色乗襲者、雖病甚、不死也。
雷公「病人が死亡する日時を予言することは、できるかの?」
黄帝「顔面部で臓腑と対応する部分の色変化を観察すれば、死亡する日時を予測できます。その部位は以下のようです。顔は髪際の神庭部位で、顔面部に相当します。眉間から上(『太素』では、眉間から上を闕上としている)は、咽喉に相当します。眉間の中央は肺に相当します。眉間の下部は心臓に相当します。鼻柱は肝臓に相当します。鼻柱の左側は胆嚢に相当します。鼻先は脾臓に相当します。鼻翼は胃に相当します。迎香の周辺で、顔面部の中央が大腸に相当します。その外側が腎臓に相当します。腎臓と臍は相対している。鼻先(面王のこと。王を古本では壬と書いている)から上で、鼻の両側が小腸に相当します。鼻先[面王]の下で、人中の周辺は膀胱と子宮に相当します。両頬は肩に相当します。頬の後ろ[傍ら]が腕に相当します。腕の下が手に相当します。目頭の上が、前胸部と乳に相当します。頬の外上方[縄は耳輪]が背に相当します。頬車から上が股に相当します。頬車は膝に相当します。膝の下が脛に相当します。脛の下が足に相当します。上下の歯の合わせ目が大腿内側に相当します。頬骨弓が膝蓋骨に相当します。以上が五臓六腑と顔面部(『霊枢』は節としている)の対応関係です。五臓の五色は、その投影部分に現れます。対応部分に病色が出現し、病色が骨にまで達しているようであれば必ず発病します。現れた病色が、もし相生の臓器の色ならば、病状が激しくとも死ぬことはありません」
*顴後の原文は後顴。『霊枢』により改める。
曰、五官具五色、何也。
曰、青黒為痛、黄赤為熱、白為寒、是為五官。
曰、以色言病之間甚、奈何。
曰、其色粗以明者、為間。沈堊(一作夭、下同)者、為甚。其色上行者、病亦甚。其色下行、如雲徹散者、病方已。五色各有蔵部、有外部、有内部。其色、従外部走内部者、其病、従外走内。其色、従内部走外部者、其病、従内走外。病生於内者、先治其陰、後治其陽、反者益甚。病生於外者、先治其陽、後治其陰(太素云、病生於陽者、先治其外、後治其内。与此文、異義同)、反者益甚。用陽和陰、用陰和陽。審明部分、万挙万当。能別左右、是謂大通。男女異位、故曰陰陽。審察沢堊、謂之良工。
雷公「五色が示す症状とは、なにかの?」
黄帝「青と黒は痛み、黄色と赤は熱、白は冷えを示しています。これを五官の色です」
雷公「五色によって病気の程度が判るのかえ?」
黄帝「色が薄くて艶やかであれば軽症です。濃くてくすんでいれば重症です。色が上部へ広がるようならば病気もひどく、下行するようならば、雲が消えるように病気が治ってゆきます。五色には、それを表す臓腑があります。そして鼻の外は六腑であり、鼻は五臓です。病色が、顔の外側から鼻へ向かって広がるときは、病邪が表から裏に入っていることを表しています。また鼻から外側に向かって広がっていれば、その病は裏から表へ出ていることを表しています。病が内臓から発生していれば、陰臓を治療してから陽腑を治療します。順序を逆にすると病状が悪化するだけです。病が内腑から発生していれば、陽腑を治療してから陰臓を治療します(『太素』は、陽分が発病したら、体表を治療してから内臓を治療すると言っているが、その文と同じ意味である)。陰臓から治療すれば、病状が悪化するだけです。陽が強ければ陰は必ず弱るので、陽を瀉して陰と調和させます。また陰が強ければ陽は必ず弱るので、陰を瀉して陽と調和させます。顔面各部の色を調べ、すべてに当たれば間違いはありません。左右を識別することは、陰陽の通路を識別することです。陰気は右側を行き、陽気は左側を行きます。男性は陽だから左側が逆であり、女性は陰だから右側が逆になります。だから陰陽と言うのです。つまり顔の色艶を観察しただけで、診察できるから名医なのです」
*是謂大通が『霊枢』では是謂大道。
沈濁為内、浮清為外。黄赤為風、青黒為痛、白為寒、黄而膏沢者為膿、赤甚者為血、痛甚者為攣、寒甚者為皮不仁。各見其部、察其浮沈以知浅深、審其沢堊以観成敗、察其散浮以知近遠、視色上下以知病処、積神於心以知往今。故相気不微、不知是非。属意勿去、乃知新故。色明不粗、沈堊為甚。不明不沢、其病不甚。其色散、駒駒然未有聚、其病散而気痛、聚未成也。腎乗心、心先病、腎為応、色其(一作皆)如是。
黄帝「くすんで暗い顔色ならば、内臓の病気です。艶やかで明るい顔色ならば、体表や陽腑の病です。黄色と赤は風、青と黒は痛み、白は冷え、黄色くて脂でテカテカしていれば膿であり、濃い赤であれば血であり、痛みがひどければ痙攣していて、冷えがひどければ皮膚の感覚がなくなります。五臓や各部と対応する部位を見て、色の濃さから発病の深さを知り、艶やくすみを観察して病状の程度を測り、病色の消散や集まり具合によって罹病期間を判断し、病色が顔面の上にあるか下にあるかによって発病部位を推測し、精神を心に集中して病歴を察知します。だから細かく診察しなければ、良いのか悪いのか判りません。意識を集中させて逸らさなければ、新たに原因が見えてきます。顔色が明るくても薄くなく、濃くて黒ずんでいれば重い病気で、顔色が明るくなくて艶がなくても、濃く黒ずんでいなければ軽い病気です。色が散って集まらなければ、まだ病は結聚となっておらず、その病は散るから気の滞りで起きた痛みであり、まだ積聚はできていません。腎邪の黒が心臓に当たる眉間下部を犯せば、心が発病してから腎の頬に病色が現れます。腎や心だけでなく、他の臓器も同じです」
男子色在面王、為少腹痛、下為卵痛、其圜直為茎痛、高為本、下為首、狐疝陰病之属也。女子色在面王、為膀胱字子処病。散為痛、薄為聚、方圜左右、各如其色形、其随而下至為淫、有潤如膏状、為暴食不潔。左為右(一作左)、右為左(一作右)。其色有邪、聚空満而不端、面色所指者也。色者、青黒赤白黄、皆端満有別郷。別郷赤者、其色亦赤、大如楡莢、在面王、為不月。其色上鋭首空上向、下鋭下向、在左右如法。以五色命蔵、青為肝、赤為心、白為肺、黄為脾、黒為腎。肝合筋、青当筋。心合脈、赤当脈。脾合肉、黄当肉。肺合皮、白当皮。腎合骨、黒当骨。
黄帝「男性で病色が鼻先に現れた場合は下腹部痛を表し、その下は睾丸痛を表します。丸くて真っ直な人中溝は陰茎痛ですが、人中溝の上部は陰茎の根元を、人中溝の下部は陰茎のカリ部分の痛みを表しており、それらは鼠径ヘルニアや陰嚢水腫〒など、陰部の疾患です。女性で病色が鼻先に現れた場合は、膀胱と子宮の疾患を表します。その色が散っていれば気痛であり、集まっていれば積聚です。その色が四角かったり円かったり、左側にあったり右側にあったりしますが、それは積聚[子宮筋腫]の形状や部位と一致しています。病色が下の唇にあれば、帯下が白濁する病です。その色が脂で濡れたようであれば、暴飲暴食や不衛生なものを食べたことによって起きた病気を表しています。色が左なら病は右(『霊枢』は左としている)、色が右なら病は左(『霊枢』は右としている)にあります。それが病色であり、色が集まっていたり散っていて、端正でなければ、顔面部の色が病巣部を指しています。色には、青、黒、赤、白、黄があり、それぞれ顔面の臓器と対応する部分に艶やかに現れていますが、時には他の場所にも出現します。赤を例に取れば、赤は心臓の色ですから眉間の下部が正当な位置です。その赤がニレの実[一円玉ほどの大きさ]ぐらいの大きさで鼻先に現れていれば月経がありません。その赤の上部が尖っていれば病気は身体の上部へ向かって進行し、下部が尖っていれば下部に向かって進行します。顔面の左右でも違いはありません。五色と五臓の関係は、青が肝、赤が心、白が肺、黄が脾、黒が腎となります。そして肝は筋と対応するので、青が筋です。心は脈と対応するので、赤が脈です。脾は皮下脂肪と対応するので、黄が皮下脂肪です。肺は皮膚と対応するので、白が皮膚です。腎は骨と対応するので、黒が骨です」
*はの間違いで唇のこと。
*以下は『素問』
夫精明五色者、気之華也。赤欲如帛裹朱、不欲如赭色也。白欲如白璧之沢(一作鵞羽)、不欲如堊(一作塩)也。青欲如蒼璧之沢、不欲如藍也。黄欲如羅裹雄黄、不欲如黄土也。黒欲如重漆色、不欲如炭(素問作値蒼)也。五色精微象見、其寿不久也。
岐伯「明るい五色は、五臓の気の現れである。赤ならば白絹で朱[硫化第二水銀]を包んだように光沢があるのがよく、赭石[仏像などに塗られる赤い鉱石顔料]のように艶がないのは悪い。白ならば白玉(『霊枢』はガチョウの羽という)のように光沢があるのがよく、白土(『霊枢』は塩という)のように艶がないのは悪い。青ならば璧玉のように光沢があるのがよく、藍のように艶がないのは悪い。黄色ならば白絹で雄黄[硫化ヒ素]を包んだように光沢があるのがよく、黄土のように艶がないのは悪い。黒ならば漆のように光沢があるのがよく、炭[『素問』は地蒼としている]のように艶がないのは悪い。五臓の精微の五色が、そのまま現れているようならば、寿命はもう長くはない」
*赤欲如帛裹朱の原文は赤欲如白裹朱。『太素』により改めた。
青如草茲、黒如煤、黄如枳実、赤如血、白如枯骨、此五色、見而死也。青如翠羽、黒如烏羽、赤如鷄冠、黄如蟹腹、白如豕膏、此五色、見而生也。生於心、如以縞裹朱。生於肺、如以縞裹紅。生於肝、如以縞裹紺。生於脾、如以縞裹括実。生於腎、如以縞裹紫。此五蔵所生之外栄也。
岐伯「枯草のように青い、煤煙のように黒い、カラタチの実のように黄色い、腐った血のように赤い、髑髏のように白いなどの五色は、死の色である。カワセミのように青い、カラスのように黒い、鶏冠のように赤い、カニ腹のように黄色い、豚の脂身のように白いなどの五色は、生の色である。心の生気は、朱を白絹で包んだような赤。肺の生気は、紅を白絹で包んだようなピンク色。肝の生気は、紺を白絹で包んだような青。脾の生気は、黄カラス瓜を白絹で包んだような黄色。腎の生気は、紫を白絹で包んだような紫色。このように絹の光沢があり、布を一枚隔てたような淡い色が、五臓の生気が外に現れている色彩である」
凡相五色、面黄目青、面黄目赤、面黄目白、面黄目黒者、皆不死也。面青目赤(一作青)、面赤目白、面青目黒、面黒目白、面赤目青者、皆死也。
岐伯「五色の診察では、顔が黄色くて目が青い、顔が黄色くて目が赤い、顔が黄色くて目が白い、顔が黄色くて目が黒ければ死ぬことはない。顔が青くて目が赤い(『素問』は青い)、顔が赤くて目が白い、顔が青くて目が黒い、顔が黒くて目が白い、顔が赤くて目が青ければ死ぬ」
陰陽二十五人形性血気不同・第十六(『霊枢・通天』『霊枢・陰陽二十五人』『霊枢・五音五味』『霊枢・行鍼』)
黄帝問曰、人有陰陽、何謂陰人。何謂陽人。
少師対曰、天地之間、不離於五、人亦応之、非徒一陰一陽而已。
葢有太陰之人、少陰之人、太陽之人、少陽之人、陰陽和平之人。凡此五人者、其態不同、其筋骨血気亦不同也。
太陰之人、貪而不仁、下済湛湛、好内而悪出、心抑而不発、不務於時、動而後人、此太陰之人也。少陰之人、少貪而賊心、見人有亡、常若有得、好傷好害、見人有栄、乃反慍怒、心嫉而無恩、此少陰之人也。太陽之人、居処于于、好言大事、無能而虚説、志発於四野、挙措不顧是非、為事如常、自用、事雖敗而無改(一作悔)、此太陽之人也。少陽之人、ィ諦好自貴、有小小官則高自宣、好為外交、而不内附、此少陽之人也。陰陽和平之人、居処安静、無為懼懼、無為欣欣、婉然従物、或与不争、与時変化、尊而謙讓、卑而不諂、是謂至治。
黄帝「人には陰陽の体質があると聞きます。陰体質とは何ですか?また陽体質とは何ですか?」
少師「天地は五行から成り立っているの。人も五行から離れられないわ。だから単に陰体質とか陽体質というわけじゃないの。一般的には、太陰の人、少陰の人、太陽の人、少陽の人、陰陽が調和した人があるのよ。この五種類の人達は、身体の状態も筋骨気血の状態も全く違うわ」
少師「太陰の人は貪欲で恥知らず。見た目は謙虚で真面目そうなんだけど、ほんとうは陰険で、欲しがるけど出すのは嫌い。感情を出さず、目先も利かず、人が成功すれば自分も追従する性格。それが太陰の人の性格だわ。少陰の人は細かいことにケチで手癖が悪いの。人が不幸に遭うと喜んで、人を傷付けたり悪さすることが好き。だけど人が成功したら腹を立てて嫉妬し、人に対して冷淡なの。それが少陰の人の性格だわ。太陽の人は、すべてのことに満足し、おまけに自慢しいで、大きなことばかり言ってるけど、見栄っぱりなだけよ。理想ばかり高くて、やることはいい加減。後先を考えずに行動し、なにをやるにも自信過剰。失敗しても改めない(『霊枢』は後悔しない)。それが太陽の人の性格だわ。少陽の人は慎重のようでいてプライドが高く、小役人でありながら傲慢で誇張し、外向的な社交家で、黙々と仕事をするのは嫌いなの。それが少陽の人の性格だわ。陰陽が調和した人は安穏として生活し、恐がることもなくて、喜び過ぎるということもないの。周囲のことをすなおに受け入れ、人と争わず、時代の変化に適応し、高い地位にあっても謙虚で、地位が低くてもこびることはなく、処理能力にすぐれているの。それが陰陽が調和した人の性格だわ」
古之、善用鍼灸者、視人五態乃治之、盛者瀉之、虚者補之。
太陰之人、多陰而無陽、其陰血濁、其衛気渋、陰陽不和、緩筋而厚皮、不之疾瀉、不能移之。少陰之人、多陰而少陽、小胃而大腸、六府不調、其陽明脈小而太陽脈大。必審而調之、其血易脱、其気易敗。太陽之人、多陽而無陰。必謹調之、無脱其陰而瀉其陽。陽重脱者、易狂。陰陽皆脱者、暴死不知人。少陽之人、多陽而少陰、経小而絡大。血在中而気在外。実陰而虚陽。独瀉其絡脈則強。気脱而疾、中気重不足、病不起矣。陰陽和平之人、其陰陽之気和、血脈調。宜謹審其陰陽、視其邪正、安其容儀、審其有余、察其不足、盛者瀉之、虚者補之、不盛不虚、以経取之。此所以調陰陽、別五態之人也。
少師「昔から鍼灸(『霊枢』は鍼艾)のうまい人は、患者を五種類の陰陽に分けて治療したものよ。そして邪が盛んならば瀉し、正気が虚していれば補ったの」
少師「太陰の人は陰気が多くて陽気のない体質で、血が濁っていて、衛気は滞りやすく、陰陽が調和していないのよ。筋肉はブヨブヨしてて皮膚が厚いから、すぐに陰分へ深刺して瀉さないと病気はよくならないわ。少陰の人は陰気が多くて陽気の少ない体質で、胃小さくて腸が大きく、消化機能が悪いの。だから陽明経脈の拍動が小さくて、太陽経脈の拍動は大きいわ。こうした患者さんは、陽気が少なくて血を制御できず、陰血が脱けやすくて気が傷付きやすいから、陰陽を慎重に診察して治療しなければならないわ。太陽の人は陽気が多くて陰気のない体質だから、慎重に治療しなければだめよ。陰気を瀉さないようにして陽気だけを瀉すの。だけど瀉し過ぎて、陽気が脱け過ぎると人は狂っちゃうし、陰陽ともに脱けると急に仮死状態となって失神しちゃうわ。少陽の人は陽気が多くて陰気の少ない体質なの。陽気が多いから絡脈が大きくて、陰気が少ないから経脈が小さいの。血が深部にあって陽気が表面にある典型的なタイプね。陰気が少なくて陽気が多いから、陰の経を実にして陽の絡を虚にしなければならないわ。だから絡脈だけを瀉せば強くなるの。けれど絡脈を瀉し過ぎて陽気が脱けちゃうと病気になるし、そのため中焦の気がひどく不足すれば病で寝たきりになるわ。陰陽が調和した人は、陰陽の気が調和していて、血もスムーズに流れているの。慎重に陰陽を調べて、邪気と正気の勢力を把握し、その容貌や動き[容儀]を観察するのよ。そして邪気の実を調べ、正気の不足を察して、盛んな邪気は瀉し、虚した正気は補い、盛んでも虚でもなければ経脈の経穴で治療するの。これが陰陽に基づいて五種類の形態に分けた患者治療法よ」
太陰之人、其状然黒色、念然下意、臨臨然長大、然未僂。少陰之人、其状清然竊然、固以陰賊、立而躁險、行而似伏。太陽之人、其状軒軒儲儲、反身折膕。少陽之人、其状立則好仰、行則好揺其両臂、両臂肘皆出於背。陰陽和平之人、其状逶逶然、随随然、然、袞袞然、豆豆然、衆人皆曰君子(一本、多愉愉然、然)。
少師「太陰の人は色が黒く、謙虚そうだわ。身体は大きいけど、卑下して人のごきげんをとり、身体を縮めて手を擦り合わせているけど、本当はクル病じゃあないの。少陰の人は清廉潔白な感じがするけど陰でコソコソするの。陰険に人を陥れることばかり考えている悪い人よ。立ち上がるとフラついて、歩くときは前のめりになるの。太陽の人は得意満面で傲り高ぶっているわ。そして身体がそっくり反っているの。少陽の人は頭をシャキッと伸ばし、歩くときは両手を揺らすわ。つまり両腕両肘とも背中より後ろへ振るの。陰陽が調和した人は穏やかで落ち着いているの。周りの状況に合わせることがうまくて、態度もきちんとしてて、にこやかに人と接し、やさしそうな目をしてるのよ(『霊枢』では愉愉然、然としている)。やることには、そつがないわ。だからみんなに君子と呼ばれるのよ」
黄帝問曰、余聞陰陽之人、於少師。
少師日、天地之間、不離於五、故五五二十五人之形、血気之所生、別而以候、従外知内、如何。
岐伯対曰、先立五形、金木水火土、別其五色、異其五声、而二十五人具也。
木形之人、比於上角蒼色、小頭長面、大肩平背直身、小手足、好有材、好労心、少力多憂、労於事。耐春夏、不耐秋冬、感而成病。主足厥陰、佗佗然。大角(一曰、左角)之人、比於左足少陽、少陽之上、遺遺然。右角(一曰、少角)之人、比於右足少陽、少陽之下、随随然。角(一曰、右角)之人、比於右足少陽、少陽之下、鳩鳩然(一曰、推推然)。判角之人、比於左足少陽、少陽之下、括括然。
黄帝「以前は、おかまの少師先生に陰陽の人のことをお尋ねしました」
少師「天地の間にある森羅万象は、五行を離れては存在できないの。だから陰陽五種の人は、五行を掛け合わせて5×5=25種類の人達に分かれるのよ。その人達は気血の違いによって特徴が分かれているの。その違いが外側からどうやって判るかご存じ?岐伯さん?」
岐伯「まず金、木、水、火、土という五種の五行形態があり、それを五色や五声の違いによって25人に分ける」
岐伯「まず木形で上角の人は皮膚が青く、頭が小さくて面長で、肩や背中が大きくて身体が真っ直、手足が小さくて才能があり、頭を使うが体力はなく、物事に気を遣い過ぎる。春夏の季節はよいが秋冬に弱く、秋冬には外邪を感受して発病する。こうした人は足厥陰経脈が主となり、ゆったりとしている。木形で大角(『一』は左角としている)の人は左足の少陽に属しているので、少陽経脈の上部に対応し、おとなしく従う性格である。木形で右角(『一』は少角としている)の人は右足の少陽に属しているので、少陽経脈の下部に対応し、人に調子を合わせる性格である。木形で角(『一』は右角としている)の人は右足の少陽に属しているので、少陽経脈の下と対応し、安穏とした(『霊枢』は推推然としている)性格である。木形で判角の人は左足の少陽に属しているので、少陽経脈の下部に対応し、実直な性格である」
*角は五音のなかで木に属している。この木性格の角にも五種類の性格があるということ。『甲乙経』で少師の台詞だが、『霊枢』では伯高の台詞になっている。それに対して岐伯は「それは先師の秘密だから、さすがの伯高もはっきり答えられない」と答えたので黄帝が玉座を降りて尋ねたとある。少師は人の性格に詳しいので、水商売の人と見た。ホステスさんかなと思ったが、この時代に男が女に道理を尋ねるということなど有り得ない。だから水商売の男性と見破り、ゲイバーのママという設定にした。この段は「佗佗然、遺遺然、随随然、鳩鳩然、括括然」となっていて、さっぱり意味が掴めなかったので、愛用している人民衛生出版社の河北医学院校正『霊枢経校釈』、および三秦出版社『鍼灸甲乙経全訳』の現代語訳を参考にしたが、この段は特に四川科学技術出版社の『白話全訳・黄帝甲乙経』を丸写しした。正直言って少陽の上とか下とか場所を示しているのだから、そのあとに続く「佗佗然、遺遺然、随随然、鳩鳩然、括括然」を人の性格とするのは?どうかと思う。その身体の部分が「佗佗然、遺遺然、随随然、鳩鳩然、括括然」だと思うのだが……。とりあえず日本語で意味が通じるように訳さねばならないので、意味が判らない以上は昔からの解釈にしたがった。角は、少陽之下、鳩鳩然だが、『霊枢』では少陽乃上としている。
火形之人、比於上徴、赤色広、鋭面小頭、好肩背髀腹、小手足。行安地、疾心、行揺。肩背肉満、有気、軽財必信。多慮、見事明了、好顧。急心、不寿暴死。耐春夏、不耐秋冬、感而生病。主手少陰、竅竅然(一曰、核核然)。太徴之人、比於左手太陽、太陽之上、肌肌然。少徴之人、比於右手太陽、太陽之下、然。右徴之人、比於右手太陽、太陽之上、鮫鮫然(一曰、熊熊然)。判徴之人、比於左手太陽、太陽之下、支支然、煕煕然。
岐伯「まず火形で上徴の人は皮膚が赤く、背中が広くて、顔は痩せて頭が小さく、肩や背、大腿や腹は均整がとれているが、手足は小さい。歩調は安定しているが、せっかちだから揺れながら歩く。肩や背が豊満で、心意気があって銭に執着せず、信用を重んじる。考え深くて、物事をはっきりさせ、反省ばかりしている。焦る性格なので、しばしば短命で突然死する。春夏の季節はよいが秋冬に弱く、秋冬は外邪を感受して発病する。こうした人は手少陰経脈が主となり、実効性を求めて行動する(『霊枢』は核核然としている)。火形で太徴(『霊枢』は質徴としている)の人は左手の太陽に属しているので、太陽経脈の上部に対応し、浮ついた性格である。火形で少徴の人は右手の太陽に属しているので、太陽経脈の下部に対応し、疑い深い性格である。火形で右徴の人は右手の太陽に属しているので、太陽経脈の上と対応し、活発な(『一』は熊熊然としている)性格である。火形で判徴の人は左手の太陽に属しているので、太陽経脈の下部に対応し、楽観的で享楽的な性格である」
*「反省ばかりしている」は、原文は「好顔」だが意味が通じない。明の写本と『千金』十三巻の第一に基づいて「好顧」とした。「肌肌然」を『霊枢経校釈』と『鍼灸甲乙経全訳』は「公明正大で道理を明らかにする」とあり、『白話全訳・黄帝甲乙経』は「軽薄」としている。恐らく肌が体表にあるから浮つくだろう。このあたりも全く判らないので成書にしたがう。
土形之人、比於上宮、黄色、大頭円面、美肩背、大腹、好股脛、小手足。多肉、上下相称、行安地、挙足浮。安心、好利人、不喜権勢、善附人。耐秋冬、不耐春夏、春夏感而生病、主足太陰、敦敦然。太宮之人、比於左足陽明、陽明之上婉婉然。加宮之人、比於左足陽明、陽明之下、然(一曰、坎坎然)。少宮之人、比於右足陽明、陽明之上、枢枢然。左宮之人、比於右足陽明、陽明之下、兀兀然(一曰、衆之人、一曰、陽明之上)。
岐伯「まず土形で上宮の人は皮膚が黄色く、頭が大きくて丸顔、肩や背の均整がとれていて腹が大きく、股や脛が丈夫そうで、手足が小さい。脂肪が多くて上下の釣り合いがとれ、落ち着いて歩き、足取りも軽い。安穏とした性格で、人の利益を図り、権力を好まず、付き合い上手。秋冬の季節はよいが春夏に弱く、春夏は外邪を感受して発病する。こうした人は足太陰経脈が主となり、誠実で人情深い。土形で太宮の人は左足の陽明に属しているので、陽明経脈の上部に対応し、温和で従順な性格である。土形で加宮の人は左足の陽明に属しているので、陽明経脈の下部に対応し、いつもニコニコしている(『霊枢』は坎坎然としている)。土形で少宮の人は右足の陽明に属しているので、陽明経脈の上と対応し、人当りのよい性格である。土形で左宮の人は右足の陽明に属しているので、陽明経脈の下部に対応し、一心不乱に働く性格である」
金形之人、比於上商白色、小頭方面。小肩背、小腹、小手足。如骨発踵外、骨軽身(一曰、発動軽身)。清廉、急心、静悍、善為吏。耐秋冬、不耐春夏、春夏感而生病。主手太陰、敦敦然。太商之人、比於左手陽明、陽明之上、廉廉然。右商之人、比於左手陽明、陽明之下、脱脱然。左商之人、比於右手陽明、陽明之上、監監然。少商之人、比於右手陽明、陽明之下、厳厳然。
岐伯「まず金形で上商の人は皮膚が白く、頭が小さくて顔が四角い。肩や背のが小さく、腹も小さく、手足も小さい。足跟外側の筋肉が骨のように堅く、骨が軽くて敏捷である。身体は清くて、焦りやすく、静かだが凶暴で、官吏に適している。秋冬の季節はよいが春夏に弱く、春夏は外邪を感受して発病する。こうした人は手太陰経脈が主となり、冷酷で恩義を感じない。金形で太商の人は左手の陽明に属しているので、陽明経脈の上部に対応し、清廉潔白な性格である。金形で右商の人は左手の陽明に属しているので、陽明経脈の下部に対応し、いつも美しくて、おしゃれである。金形で左商の人は右手の陽明に属しているので、陽明経脈の上と対応し、事の是非を良く考えて、はっきりさせねばならない性格である。金形で少商の人は右手の陽明に属しているので、陽明経脈の下部に対応し、厳かで端正な性格である」
*廉廉然を『霊枢』では敦敦然としており、土形と重複している。『白話全訳・黄帝甲乙経』は敦敦然を採用して現代訳しているが、『鍼灸甲乙経全訳』は原文を敦敦然としていながら「冷酷で恩義を感じない」と訳している。敦は人情に厚い意味で、廉は清廉潔白の意味だが、金の清粛は汚れを嫌って厳しく清める意味だから、土の万物を育てる意味と一致するわけがない。それで『鍼灸甲乙経全訳』の清廉潔白を採用して訳文とした。
水形之人、比於上羽黒色、大頭面不平(一曰、曲面)、広頤、小肩、大腹、小手足(小作大)。発行揺身、下尻長背。延延然、不敬畏。善欺紿人、殆戮死。耐秋冬、不耐春夏、春夏感而生病。主足少陰、汚汚然。大羽之人、比於右足太陽、太陽之上、頬頬然。少羽之人、比於左足太陽、太陽之下、紆紆然。衆之為人、比於右足太陽、太陽之下、潔潔然。桎之為人、比於左足太陽、太陽之上、安安然。
岐伯「まず水形で上羽の人は皮膚が黒く、頭が大きくて顔立ちがはっきりしており、オトガイが広くて、肩が小さく、腹が大きく、手足が小さい(『霊枢』は良く動かすという)。身体を揺らしながら歩き、尻が下にあって胴が長い。身体が長く、人を敬ったり恐れ
ることがない。人を欺くことが好きで、過労によって死ぬ。秋冬の季節はよいが春夏に弱く、春夏は外邪を感受して発病する。こうした人は足少陰経脈が主となり、下品な性格である。水形で大羽の人は右足の太陽に属しているので、太陽経脈の上部に対応し、いつも得意満面である。水形で少羽の人は左足の太陽に属しているので、太陽経脈の下部に対応し、いつもまわりくどい。水形で衆羽の人は右足の太陽に属しているので、太陽経脈の下と対応し、いつも静かである。水形で桎羽の人は左足の太陽に属しているので、太陽経脈の上部に対応し、その人は常に安定している」
曰、得其形、不得其色、何如。
曰、形勝色、色勝形者、至其勝時年加、害則病行、失則憂矣。形色相得、富貴大楽。
曰、其形色相勝之時年加、可知乎。
曰、凡人之大忌、常加九歳。七歳、十六歳、二十五歳、三十四歳、四十三歳、五十二歳、六十一歳、皆人之忌。不可、不自安也、感則病。失則憂矣。
黄帝「体型は当てはまるのに肌の色が違っていれば、どうなるのですか?」
岐伯「体型が肌の色と相剋関係にある場合、肌の色が体型と相剋関係にある場合、厄年になると邪を感受して発病し、いい加減な治療をすると命の危険さえある。だけど体型と肌の色が一致していれば大過なく過ごせる」
黄帝「体型と肌の色が相剋関係にある場合、厄年が判るのですか?」
岐伯「人の厄年は、7歳から始まり、それからは9年ごとに来る。つまり7歳、16歳、25歳、34歳、43歳、52歳、61歳が厄年である。このとき病気に注意しなければ、邪を感受して発病しやすい。そして手遅れになれば死ぬ可能性すらある」
*原文では九歳と七歳が入れ替わっている。
曰、脈之上下、血気之候、以知形気、奈何。
曰、足陽明之上、血気盛、則鬚美長。血多気少、則鬚短。気多血少、則鬚少。血気倶少、則無鬚、両吻多画(鬚字、一本倶作髯字)。足陽明之下、血気盛、則下毛美長、至胸。血多気少、則下毛美、至臍、行則善高挙足、足大指少肉、足善寒。血少気多、則肉善。血気皆少、則無毛、有則稀而枯瘁、善痿厥、足痺。
黄帝「経脈の上部と下部を流れる気血量が、体表から判りますか?」
岐伯「足陽明経脈の上部では、気血が盛んならば口と顎のヒゲが多くて長い。血が多くて気が少なければヒゲが短い。気が多くて血が少なければヒゲも少ない。気血とも少なければヒゲがなくて口元にシワが多い(須を『霊枢』は髯としている)。足陽明経脈の下部では、気血が盛んならば陰毛が多くて長くて胸毛と繋がっている。血が多くて気が少なければ陰毛が短くて臍までで足を高く上げて歩き、第1趾の肉が少なく、足が冷えやすい。気が多くて血が少なければ凍傷になりやすい。気血とも少なければ体毛がなく、あっても薄くてまばらであり、足の無力や冷え、痛みなどが起きやすい」
足少陽之上、血気盛、則通鬚美長。血多気少、則通鬚美短。血少気多、則少鬚。血気皆少、則無鬚、感於寒湿、則善痺、骨痛、爪枯。足少陽之下、血気盛、則脛毛美長、外踝肥。血多気少、則脛毛美短、外踝皮堅而厚。血少気多、則毛少、外踝皮薄而軟。血気皆少、則無毛、外踝痩而無肉。
岐伯「足少陽経脈の上部では、気血が盛んならばモミアゲと口ヒゲが繋がり、多くて長い。血が多くて気が少なければモミアゲと口ヒゲが繋がっているが短い。気が多くて血が少なければヒゲも少ない。気血とも少なければヒゲがなく、寒湿の邪を感受して痺れや骨痛、爪が干乾びたような感じになりやすい。足少陽経脈の下部では、気血が盛んならば脛毛が多くて長く、外踝の肉付きがよい。血が多くて気が少なければ脛毛が短く、外踝の皮膚が堅くて厚い。気が多くて血が少なければ脛毛が少なく、外踝の皮膚が薄くて柔らかい。気血とも少なければ脛毛がなく、外踝が痩せて肉がない」
足太陽之上、血気盛、則美眉、眉有毫毛。血多気少、則悪眉、面多小理。血少気盛、則面多肉。血気和、則美色。足太陽之下、血気盛、則跟肉満、踵堅。気少血多、則痩、跟空。血気皆少、則善転筋、踵下痛。
岐伯「足太陽経脈の上部では、気血が盛んならば眉が美しく、眉間に毛が生えている。血が多くて気が少なければ眉下が薄く、顔にシワが多い。気が多くて血が少なければ顔面部に肉が多い。気血が調和していれば顔色がよい。足太陽経脈の下部では、気血が盛んならば、足跟の筋肉が豊満で充実している。血が多くて気が少なければ、足跟は痩せて貧弱である。気血とも少なければ足がつりやすく、足跟に痛みが出やすい」
手陽明之上、気血盛、則上髭美。血少気多、則髭悪。血気皆少、則善転筋、無髭。手陽明之下、血気盛、則腋下毛美、手魚肉以温。気血皆少、則手痩以寒。手少陽之上、血気盛、則眉美以長、耳色美。血気皆少、則耳焦、悪色。手少陽之下、血気盛、則手拳多肉以温。血気皆少、則痩以寒。気少血多、則痩以多脈。手太陽之上、血気盛、則多髯、面多肉以平。血気皆少、則面痩黒色。手太陽之下、血気盛、則掌肉充満。血気皆少、則掌痩以寒。
岐伯「手陽明経脈の上部では、気血が盛んならば口ヒゲが多くて長い。気が多くて血が少なければ口ヒゲも少ない。気血とも少なければ口ヒゲがない。手陽明経脈の下部では、気血が盛んならば腋毛が多くて長く、母指球が盛り上がって温かい。気血とも少なければ母指球に肉がなくて冷たい。手少陽経脈の上部では、気血が盛んならば眉毛が多くて長く、耳の艶がよい。気血とも少なければ耳が焦げたように艶がなく、黒っぽくて色が悪い。手少陽経脈の下部では、気血が盛んならば手背の肉が豊満で温かい。気血とも少なければ手背が痩せていて冷たい。気が少なくて血が多ければ、手掌は痩せているが血管が多く浮き出ている。手太陽経脈の上部では、気血が盛んならばモミアゲが多く、顔の肉付きがよくて平坦である。気血とも少なければ顔が痩せこけて黒い。手太陽経脈の下部では、気血が盛んならば、手掌の肉が豊満である。気血とも少なければ手掌が痩せていて冷たい」
*手陽明之上で、血気皆少則善転筋無髭は、善転筋の部分は後世で誤って紛れ込んだものとされている。手太陽経脈の上部で、気血が少ないとき『甲乙経』は「顔が黒い」だが、『霊枢』では「顔色が悪い」となっている。
黄赤者多熱気、青白者少熱気、黒色者多血少気。美眉者太陽多血、通髯極鬚者少陽多血、美鬚者陽明多血、此其時然也。夫人之常数、太陽常多血少気、少陽常多気少血、陽明常多血多気、厥陰常多気少血、少陰常多血少気、太陰常多血少気、此天之常数也。
黄帝「黄色や赤は熱気が多いことを表し、青や白は熱気が少ないことを表し、黒は血が多くて気の少ないことを表すのですね。眉が太ければ太陽経脈に血が多く、ヒゲがモミアゲと繋がっていれば少陽経脈に血が多く、ヒゲが濃ければ陽明経脈に血が多いというのが気血の量を外部から伺い知る方法なのですね。一般の人では、太陽経脈が多血少気、少陽経脈が多気少血、陽明経脈が多血多気、厥陰経脈が多気少血、少陰経脈が多血少気、太陰経脈が多血少気というのが相場です」
*この部分は「五音五味」。『甲乙経』では記載がなく、一見すると岐伯の言葉だが、『霊枢』を見ると黄帝の言葉のようだ。現在は、厥陰経脈が多血少気、少陰経脈が多気少血となっているので、この篇は間違いと考えられている。
曰、二十五人者、刺之有約乎。
曰、美眉者、足太陽之脈血気多。悪眉者、血気少。其肥而沢者、血気有余。肥而不沢者、気有余血不足。痩而無沢者、血気倶不足。審察其形気、有余不足、而調之。可以知、順逆矣。
曰、刺其陰陽、奈何。
曰、按其寸口、人迎、以調陰陽。切循其経絡之凝泣、結而不通者、此於身背為痛痺。甚則不行。故凝泣。凝泣者、致気以温之、血和乃止。其結絡者、脈結血不行、决之乃行。故曰、気有余於上者、導而下之。気不足於上者、推而往之。其稽留不至者、因而迎之。必明於経隧、乃能持之。寒与熱争者、導而行之。其宛陳血不結者、即而取之。必先明知二十五人、別血気之所在、左右上下、則刺約畢矣。
黄帝「この25種類の人達する刺鍼治療は、違いがあるのでしょうか?」
岐伯「眉が太ければ足太陽経脈の気血が多く、眉が薄ければ気血が少ない。肉付きがよくて皮膚に艶があれば気血があり余っており、肉付きがよくても皮膚の艶がなければ気があり余って血が不足しており、痩せて皮膚もカサカサしていれば気血ともに不足している。このように身体を観察することで気の過不足を知り、気血の状態を調える。それによって順証の治療可能な病気か、逆証の不治の病かが判る」
黄帝「陰証と陽証に対する刺鍼治療は、どのようにすればよいのでしょう?」
岐伯「まず橈骨動脈と頚動脈を比較し、陰陽の盛衰が判ってから刺鍼治療する。経絡のシコリを撫でて見て、滞って通じていなければ、その部分は全て痛い。ひどければ行動できない。だから凝泣である。気血が凝泣していたら刺鍼し、経気を病巣部へ至らせて温めれば、血は循環できて痛みが止まる。絡脈が塞がって溢れていれば、三稜鍼で点刺して血の道を切り開いて通じさせる。だから“邪気が上部で有り余っていれば、足の経穴を取って下に引っ張る。上部で正気が不足していたら、鍼で経気を推して往かせる。気が留まって至らなければ、それを鍼尖で迎えて伝導させる”という。それには経脈の状態を明らかにし、それから鍼を手にすることができる。寒熱が交錯していれば、それを導いて調和させる。気は滞っていても血が結聚していなければ、そこへ刺鍼して気滞を取り除く。まず25種類の人で、それぞれ気血が所在する場所を上下左右で明らかにし、刺鍼すれば、ほとんど終わりである」
*凝泣は凝結の意味。『霊枢・陰陽二十五人』では「凝泣」を「凝渋」としている。つまり泣は渋の誤字か渋と同義。そのあとの「身背」が『霊枢』では「身皆」となっている。「身背」では意味が通じないので、背は皆の誤字。
曰、或神動、而気先鍼行。或気与鍼、相逢。或鍼已出、気独行。或数刺、之乃知。或発鍼、而気逆。或数刺、病益甚。凡此六者、各不同形、願聞其方。
曰、重陽之人、其神易動、其気易往也。矯矯蒿蒿(一本作、高高)、言語善疾、挙足喜高。心肺之蔵、気有余、陽気滑盛而揚。故神動、而気先行。重陽之人、而神不先行者。此人頗有陰者也。多陽者多喜、多陰者多怒。数怒者易解。故曰頗有陰。其陰陽之離合難、故其神不能先行。陰陽和調者、血気沢、滑利。故鍼入、而気出。疾而相逢也。其陰多而陽少、陰気沈而陽気浮。沈者内蔵、故鍼已出、気乃随其後、故独行也。其多陰而少陽者、其気沈而気往難、故数刺之乃知。其気逆、与其数刺病益甚者、非陰陽之気也、浮沈之勢也。此皆粗之所敗、工之所失、其形気、無過也。
黄帝「刺鍼しているとき、精神が動揺しやすくて切皮しただけで鍼感のある人、一定の深さまで刺入すると経気が得られる人、抜鍼してしまったのに経気の感覚が残る人、刺鍼する回数を重ねないと感覚が現れない人、刺鍼すると気逆して気分が悪くなる人、何回も刺鍼しているのに病状が悪化する人など、6種類の反応があります。このような違いが発生するのは何故ですか?」
岐伯「陽気の盛んな人は、精神が動揺しやすいので経気も流れやすい。陽気が盛んな人は火のように熾烈な性格で(『霊枢』には高高とある)、早口で喋り、足を高く上げて歩く。これは心肺の臓気が有り余っているためで、陽気が流れやすく広がりやすいからだ。精神が動揺しやすいので切皮しただけで鍼感があるというのだ。陽気の盛んな人でも精神が鍼より先に反応しない人もある。そうした人は陰が相当にある。陽気が多ければ朗らかだが、陰気が多ければ怒りっぽい。しかし何度も怒るが、怒りが静まるのも早い。だから陽気が盛んだが、陰気も相当に有るという。こうした人では陰陽の離合集散がしにくく、精神が動揺しにくいので、切皮しただけでは鍼感が起きない。陰陽が調和している人は、気血がスムーズに流れている。だから刺鍼して時間が経つと邪気が出る。すぐに鍼尖が邪気と出合う。陰気が多くて陽気の少ない人は、陰気が体内に沈み、陽気は体表に浮いている。あまりに体内深く陰気が沈んでいるので、抜鍼してから陰気が鍼の後を追い、そのため経気だけの感覚が残る。ひどく陰気が多くて陽気の少ない人は、陰気が深く沈み込んでいるので経気が流れにくい。だから何度も刺鍼治療しないと経気の感覚が現れてこない。刺鍼して気分が悪くなったり、何回も刺鍼しているのに病状が悪化する人は、陰陽の気の浮沈によるものではない。治療家の技術が粗雑だったり、誤治や過失によって発生するもので、病人の体型や陰陽の気などによるものではない」
*重陽之人は、重陽之盛人だが、『霊枢』にも基づいて削除した。沈者内蔵の沈者は原文にない。