鍼灸甲乙経2                            淺野 周 訳

 十二原・第六(『霊枢・九鍼十二原』)

 五蔵有六府、六府有十二原。十二原者、出於四関。四関主治五蔵、五蔵有疾、当取之十二原。十二原者、五蔵之所、以稟三百六十五骨之気味者也。五蔵有疾、出于十二原、而原各有所出。明知其原、睹其応、知五蔵之害矣。
 五臓には六腑があり、六腑には十二原穴がある。十二原穴は、四肢の関節に出て、その四肢関節にある穴位が五臓を主治する。だから五臓に疾患があれば、十二原穴を取って治療する。十二原穴とは、五臓が全身の三百六十五個所に精気を送る中継点である。だから五臓に疾患があれば、それは十二原穴に反映される。そして原穴には、それぞれ精気を送り出す臓腑がある。だから原穴を知り、その反応を観察すれば、五臓の病状が判る。

 陽中之少陰、肺也、其原出於太淵二。陽中之太陽、心也、其原出於大陵二。陰中之少陽、肝也、其原出於太衝二。陰中之太陰、腎也、其原出於太谿二。陰中之至陰、脾也、其原出於太白二。膏之原出於鳩尾一、肓之原出於一。凡十二原、主治五蔵六府之有病者也。脹取三陽、泄取三陰(一云、滞取三陰)。
 陽中の少陰は肺であり、その気が最初に出るのは太淵二穴である。陽中の太陽は心であり、その気が最初に出るのは大陵二穴である。陰中の少陽は肝であり、その気が最初に出るのは太衝二穴である。陰中の太陰は腎であり、その気が最初に出るのは太谿二穴である。陰中の至陰は脾であり、その気が最初に出るのは太白二穴である。横隔膜の気が最初に出るのは鳩尾一穴である。腹部の気が最初に出るのは気海一穴である。以上の十二原穴は、五臓六腑に病があるものを主治する。腹が膨れたら足三陽の穴位を取り、消化不良の下痢には足三陰の穴位を取る(『霊枢』は「滞ったら足三陰を取る」と書いている)。
 *陽中とは、横隔膜から上の部分。陰中とは横隔膜から下の部分を指している。

 今夫五蔵之有病、譬猶刺也、猶汚也、猶結也、猶閉也。刺雖久猶可抜也、汚雖久猶可雪也、結雖久猶可解也、閉雖久猶可决也。或言久疾之不可取者、非其説也。夫善用鍼者、取其疾也、猶抜刺也、猶雪汚也、猶解結也、猶决閉也、疾雖久猶可畢也。言不可治者、未得其術也。
 ここで五臓に病気があったとする。たとえば刺すような、あるいは泥を塗られたような、あるいは縛られたような、あるいは閉塞したような感じがする。刺すような痛みが久しかろうとも、抜くことができる。泥を塗られたような重みが久しかろうとも、雪のようにきれいにできる。縛られたような圧迫感が久しかろうとも、解くことができる。閉塞して通じない状態が久しかろうとも、突き崩すことができる。慢性病は、治療できないという人もあるが、それは誤りである。鍼のうまい人は、その病気を除いてしまう。刺すものを抜くように、汚れ洗い流すように、結び目を解くように、塞いだものを突き崩すように。病気が慢性化していても、終わらせることができる。治らないというものは、まだ治療法を知らないだけである。



 十二経水・第七(『霊枢・経水』)

 黄帝問曰、経脈十二者、外合于十二経水、而内属于五蔵六府。夫十二経水者、受水而行之。五蔵者、合神気魂魄而蔵之。六府者、受穀而行之、受気而揚之。経脈者、受血而営之。合而以治奈何。刺之深浅、灸之壯数、可得聞乎。
 岐伯対曰、蔵之堅脆、府之大小、穀之多少、脈之長短、血之清濁、気之多少。十二経中、多血少気、与其少血多気、与其皆多血気、与其皆少血気、皆有定数。其治以鍼灸、各調其経気、固其常有合也。此人之参天地而応陰陽、不可不審察之也。

 黄帝「十二経脈は、外界では十二河川と対応し、体内では五臓六腑に属しています。十二河川とは、水を受けて流れるものです。五臓とは、神,気,魂,魄のある場所です。六腑とは、五穀が入って排泄し、水穀の気を受けて全身に揚げるものです。経脈とは、血液を循環させるものです。どうやって、それらを組み合わせて治療したらいいのでしょうか?刺入する深さ、灸の壮数を伺ってよろしいでしょうか?」
 岐伯「臓には堅いものや脆いもの、腑には大きさや収容できる穀の量、経脈には寸法や流れる血の美しいものと汚いものがあり、さらに経脈を流れさせる気の多さなどに違いがある。十二経脈には、血が多くて気が少ない、血が少なくて気が多い、気血ともに多い、気血ともに少ないなど経がある。それらは、すべてに法則性がある。鍼灸で治療するときは、それぞれの経脈の気を調えて、元の正常な状態に合わせる。これは、人間が天地の中で生きており、その陰陽変化に合わせて営んでいるため、それらを観察しないわけにゆかぬ」

*十二河川とは、中国大陸を流れる清水、渭水、海水、湖水、汝水、水、淮水、水、江水、水河、済水、水の十二河川。

 足陽明、外合於海、内属於胃。足太陽、外合於清水、内属於膀胱、而通水道焉。足少陽、外合於渭水、内属於胆。足太陰、外合於湖水、内属於脾。足厥陰、外合於水、内属於肝。足少陰、外合於汝水、内属於腎。手陽明、外合於江水、内属於大腸。手太陽、外合於淮水、内属於小腸、而水道出焉。手少陽、外合於水、内属於三焦。手太陰、外合於河水、内属於肺。手心主、外合於水、内属於心包。手少陰、外合於済水、内属於心。
 足陽明は、外界では海と対応し、体内では胃に属しています。足太陽は、外界では清水と対応し、体内では膀胱に属していて、水道を通じさせる。足少陽は、外界では渭水と対応し、体内では胆に属しています。足太陰は、外界では湖水と対応し、体内では脾に属しています。足厥陰は、外界では水と対応し、体内では肝に属しています。足少陰は、外界では汝水と対応し、体内では腎に属しています。手陽明は、外界では江水と対応し、体内では大腸に属しています。手太陽は、外界では淮水と対応し、体内では小腸に属し、水分を吸収して水道が出ます。手少陽は、外界では水と対応し、体内では三焦に属しています。手太陰は、外界では河水と対応し、体内では肺に属しています。手厥陰は、外界では水と対応し、体内では心包に属しています。手太陽は、外界では済水と対応し、体内では心に属しています。

 凡此五蔵六府十二経水者、皆外有源泉、而内有所稟、此皆内外相貫、如環無端、人経亦然。故天為陽、地為陰、腰以上為天、下為地。故海以北者為陰、湖以北者為陰中之陰、以南者為陽、河以北至者為陽中之陰、以南至江者為陽中之陽、此一州之陰陽也。此人所以与天地相参也。
 この五臓六腑の十二経脈は、十二河川と同じように外部に源泉があり、体内では受け継いでいる。十二河川は内外を貫いて、リングのように繋がっているが、人間の経脈も同じである。自然界に喩えれば、天は陽で、地は陰である。だから腰から上は天であり、腰から下は陰である。南を陽、北は陰とすれば、海は北にあるので陰、湖水は湖北にあるので陰中の陽、水は南にあるので陽、河は北でと通じるものは陽中の陰、は南で江と通じるものは陽中の陽。これが中国の陰陽なので、それに合わせて人の経脈と天地を照合する。

  曰、夫経水、之応経脈也。其遠近之浅深、水血之多少、各不同。合而刺之奈何。
 曰、足陽明、五蔵六府之海也。其脈大而血多、気盛熱壯。刺此者、不深弗散、不留不瀉。足陽明、多血気、刺深六分、留十呼。足少陽、少血気、刺深四分、留五呼。足太陽、多血気、刺深五分、留七呼。足太陰、多血少気、刺深三分、留四呼。足少陰、少血多気、刺深二分、留三呼。足厥陰、多血少気、刺深一分、留一呼。

 黄帝「十二河川は十二経脈と対応していますが、その長さや深さ、水や血液の量が違います。それをどのように結びつけて、刺鍼治療に応用したらよいのでしょうか?
 岐伯「足陽明は五臓六腑の海であり、その脈は大きく、血も気も多くて、熱も盛んである。だから、それを刺すときは、深刺しなければ邪気は散らず、鍼を留めなければ瀉すことができない。足陽明経は多血多気で、0.6寸に刺入して十呼留める。足少陽経は少血多気で、0.4寸に刺入して五呼留める。足太陽経は多血多気で、0.5寸に刺入して七呼留める。足太陰経は多血少気で、0.3寸に刺入して三呼留める。足少陰経は少血多気で、0.2寸に刺入して三呼留める。足厥陰経は多血少気で、0.1寸に刺入して一呼留める」。

 手之陰陽、其受気之道近、其気之来也疾、其刺深皆無過二分、其留皆無過一呼。其少長小大肥痩、以心料之、命曰法天之常、灸之亦然。灸而過此者、得悪火、則骨枯脈渋。刺而過此者、則脱気。
 手の陰陽経は、臓の精気を受けている経脈が体表に近く、気の流れが速くて得気しやすいので、その刺入は0.2寸以内、鍼を留めておく時間は一呼以内とする。ただし幼老や身体の大小、肥えているか痩せているかによって調整する。それが自然が作り出した個々の違いに合わせて治療するということである。灸も同じ。灸の過ぎたるものを「悪火」と呼び、「骨枯」となって脈が渋る。また刺入が過ぎれば「脱気」となる。
 *骨枯とは、足の力がなくなって身体が支えられなくなるもの。脱気は『霊枢・决気』に「気脱者、目不明」とあり、『霊枢・通天』に「気脱而疾。中気不足、病不起也」とある。つまり「クラクラして目が見えなくなる」そして「中気が不足して、起き上がれなくなる」。

   曰、夫経脈之大小、血之多少、膚之厚薄、肉之堅脆、及之大小、可以為度量乎。
 曰、其可為度量者、取其中度者也、不甚脱肉而血気不衰者也。若失度人之痩、而形肉脱者、悪可以度量刺乎。審切、循、捫、按、視其寒、温、盛、衰而調之、是謂因適而為之真也。

 黄帝「経脈の大きさ、血の量、皮膚の厚さ、筋肉の堅さや大きさなどは、度量衡がどうなっているのですか?」
 岐伯「中肉中背の人間を度量衡の基準とする。あまりに痩せ過ぎて、気血が衰弱したりしておらぬ者である。もし度を超えて痩せ、肉が削げてしまっていれば、どうして度量衡に基づいて刺鍼できようか?切,循,捫,按などの触れることにより身体を審査し、経脈の寒温や盛衰を見て調べる。これが人の体型や個人差に合わせた真の治療である」
 *ここの「悪可以」の悪は、悪いという意味ではなく、焉とか烏と同じで「どうして?」の意味。



 四海・第八(『霊枢・海論』)

 人有四海。十二経水者、皆注于海。有髄海、有血海、有気海、有水穀之海。胃者、為水穀之海。其、上在気街、下至三里。衝脈者、為十二経脈之海。其、上在大杼、下出巨虚上下廉。中者、為気之海。其、上在柱骨之上下、前在人迎。脳者、為髄之海。其、上在其蓋、下在風府。凡此四海者、得順者生、得逆者敗。知調者利、不知調者害。
 人には四つの海[集合体]がある。そして十二経脈は、すべて海へ注いでいる。その海が髄海、血海、気海、水穀之海の四者である。胃は水穀の海である。その気血は、上は気衝にあって、下は足三里へと輸送される。衝脈は十二経脈の海であり、その気血は、上は大杼に輸送されて、下は上巨虚と下巨虚へ注がれる。胸中は気の海である。その気血は、上は門と大椎に輸送され、前は人迎に注がれる。脳は髄の海である。その気血は、上は百会に輸送され、下は風府へ注がれる。この四海は、正常であれば生存するが、異常になると衰弱する。四海を調えることを知っていれば健康だが、知らなければ身体を損ねる。

  曰、四海,之逆順奈何。
 曰、気海有余,則気満、胸中悗、急息,面赤。不足,則気少、不足以言。血海有余,則常想、其身大怫鬱也。然不知、其所病。不足,則常想、其身小狭。然不知、其所病。水穀之海有余,則腹脹満。不足,則飢、不受穀食。髄海有余,則軽勁,多力、自過其度。不足,則脳転,耳鳴、脛、眩冒,目無所見、懈怠安臥。
 曰、調之奈何。
 曰、審守其,而調其虚実。無犯其害。順者得復、逆者必敗。

 黄帝「四海が実したり虚したりすると、どのような状態になるのですか?」
 岐伯「気海の胸中が邪実となると、気が胸中に満ちて胸苦しくなり、ゼイゼイと息が切れて顔が赤くなる。そして正虚では呼吸が弱くなって喋りたくなくなる。血海の邪実では、常に身体が大きいように感じられ、気分がすっきりしないが、どこが悪いのか分からない。血海の正虚だと、常に身体が小さく感じられるが、どこが悪いのか分からない。水穀之海の邪実では、腹が膨満する。正虚では空腹を感じても食べられない。髄海の正実ならば身が軽くて力があり、歳の割に元気である。正虚では、頭がクラクラして耳鳴りし、膝や足が痛怠く、目がかすん良く見えず、身体が怠くて横になりたがる」
 黄帝「どのような治療をするのですか?」
 岐伯「四海の症状を調べ、その穴を取って虚実を調える。「虚に瀉法、実に補法」という誤りを犯してはならない。虚していれば補法し、実していれば瀉法をすれば回復する。これと逆のことをおこなえば、必ず衰弱する。



 気息周身五十営四時日分漏刻・第九(『霊枢・五十営』『霊枢・衛気行』)

  黄帝問曰、五十営奈何。
 岐伯対曰、周天二十八宿、宿三十六分、人気行一周千八分。人経絡上下左右前後二十八脈、周身十六丈二尺、以応二十八宿、漏水下百刻、以分昼夜。故人一呼脈再動、気行三寸、一吸脈亦再動、気行三寸。呼吸定息、気行六寸。十息、脈行六尺、日行二分。二百七十息、気行十六丈二尺、気行交通於中、一周於身、下水二刻、日行二十分有奇。五百四十息、気行再周於身、下水四刻、日行四十分有奇。二千七百息、気行十周於身、下水二十刻、日行五宿二百十分有奇。一万三千五百息、気行五十営於身、水下百刻、日行二十八宿、漏水皆尽、脈已終矣(王冰曰、此略而言之也。細言之、則常以一千周加一分、又十分分之六。乃奇分尽也)。所謂交通者、并行一数也。故五十営、備得尽天地之寿矣、気凡行八百一十丈也。一日一夜五十営、以営五蔵之精。不応数者、謂之狂生。所謂五十営者、五蔵皆受気也(此段、旧在経脈根結之末。今移在此)。

 黄帝「昼夜で全身を五十回ほど運行するという営気は、具体的にはどのように運行しているのですか?」
 岐伯「空には二十八宿の星座があって、それぞれの星座は36ずつ離れている。だから人の営気が50周するまでに、太陽が36分×28(宿)=1008分動く。人の経脈は、上下左右で12×2+督脈+任脈+陽+陰=28脈あり、その長さは合計して16丈2尺あって、それを 営気が50周する時間は、二十八宿を太陽が一周し、水時計の刻みが百まで達する一昼夜に相当する。だから人は一呼で脈が2回打って気は3寸進み、一吸でも脈が2回打って気は3寸進む。だから一呼吸ごとに気は6寸進む。十息では脈が6尺進むが、その間に太陽は2分進む。人が270呼吸すると、その間に営気が6尺×27=16丈2尺進み、営気は経脈中を交通して全身を一周するが、それは水時計が2刻み落ち、太陽が20分と少し進む時間である。540呼吸では、営気が全身を2周して水が4刻み落ち、太陽が40分と少し進む。2700 呼吸では、気が全身を十周し、水が10刻み落ち、太陽は五宿すなわち201分と少し進む。13500呼吸すると、営気は身体を50周し、水は百刻み落ちて、太陽は28宿の星座を回る。水時計の漏水が全部なくなると、営気の運行が一区切りする(王冰は「ここでは省略している。細かく言えば、一千周に一分が加わり、さらに6/10があるので、残りの部分がなくなる」と言っている)。だから「交通」とは、脈気が28脈を一周して最初と交わることである。このように営気が経脈中を毎日50周ずつ流れていれば健康で、天地が与えた天寿を全うでき、営気は一日で810丈も流れることになる。一昼夜で営気が50周し、五臓の精気を運行させる。こうした法則に当てはまらないものは、狂生と呼んで短命である。つまり営気が50周ずつ還流することによって、五臓は営気に滋養される(このくだりは、以前には経脈根結の最後にあった。現在はここに移す)。


 曰、衛気之行、出入之会、何如。
 曰、歳有十二月、日有十二辰、子午為経、卯酉為緯、天一面七宿、周天四七,二十八宿、房昴為緯、張虚為経。是故房至畢為陽、昴至心為陰。陽主昼、陰主夜。故衛気之行、一日一夜五十周於身、昼日行於陽二十五周、夜行於陰亦二十五周、周於五蔵(一本作歳)。是故平旦陰気尽、陽気出於目、目張則気行於頭、循於項、下足太陽、循背下至小指端。其散者、分於目別(一云、別於目鋭眦)、下手太陽、下至手小指外側。其散者、別於目鋭眦、下足少陽、注小指次指之間。以上循手少陽之分側、下至小指之間。別者以上至耳前、合於頷脈、注足陽明、下行至上、入足五指之間。其散者、従耳、下手陽明、入大指之間、入掌中。直至於足、入足心、出内踝、下行陰分、復合於目、故為一周。

 黄帝「衛気の循行や表裏への出入は、どのようになっているのですか?」
 岐伯「一年は12ケ月あり、1日は12刻に分かれている。子午線は経度となり、卯酉は緯度となる。天の一画ごとに七宿の星座があって、東西南北では4×7=28宿となる。房宿は東で昴が西だから緯線となり、虚宿は北で張が南だから経線となる。房宿から畢宿までの14宿が陽であり、昴宿から心宿までの14宿が陰である。陽は昼を支配し、陰は夜を支配する。だから衛気は一昼夜で身体を50周する。つまり昼間は身体の陽分を25周し、夜間は陰分を25周して五臓を巡回する(『霊枢』は歳としている)。だから明け方には陰気が尽きて陽気が目に出るので、人は目を開き、気は睛明穴から足の太陽膀胱経に沿って頭へ上り、後頚部を下がって、足の太陽膀胱経に沿って背部を下がり、足趾の小指に至る。またバラバラに散る陽気もあり、目尻から分かれ、手の太陽を下がって、手の小指の外側に至る。また散る陽気で、目尻から別れて、足の少陽胆経を下り、足の第4趾と第5趾の間に注ぐ。また手の少陽三焦経を下行して、手の小指と薬指の間に至る。また手少陽から別れた陽気は、耳の前へ上がり、顎の脈と合流して、足の陽明胃経に注ぎ、足背へ下行して足の五趾の間に入る。また耳から下がる脈は、手の陽明大腸経を下り、手の親指と人差指の間へ入り、手掌に散る。足に至る陽気は、足底へ入って内踝へ出、陰分を通って、再び目へと出、足の太陽と睛明穴で接続する。これは衛気が全身を一周する順序である。


 是故日行一舎、人気行於身一周、与十分身之八。日行二舎、人気行於身三周、与十分身之六。日行三舎、人気行於身五周、与十分身之四。日行四舎、人気行於身七周、与十分身之二。日行五舎、人気行於身九周。日行六舎、人気行於身十周、与十分身之八。日行七舎、人気行於身十二周、在身与十分身之六。日行十四舎、人気二十五周於身、有奇分、与十分身之二。陽尽於陰、陰受気矣。其始入於陰、常従足少陰注於腎、腎注於心、心注於肺、肺注於肝、肝注於脾、脾復注於腎、為一周。是故夜行一舎、人気行於身(一云、陰蔵)一周与十分蔵之八、亦如陽之行二十五周、而復会於目。陰陽一日一夜、合有奇分十分身之二与十分蔵之二。是故人之所、以臥起之時、有早晏者、以奇分不尽故也。
 つまり太陽が一宿の星座を過ぎれば衛気(人気)が全身を50周÷28宿=1.79で約1周と8/10周し、太陽が2宿を過ぎれば衛気は全身を3周と6/10周し、太陽が3宿を過ぎれば衛気が5周と4/10周し、太陽が4宿を過ぎれば衛気は全身を7周と2/10周し、太陽が5宿を過ぎれば衛気が9周し、太陽が6宿を過ぎれば衛気は全身を10周と8/10周し、太陽が7宿を過ぎれば衛気は全身を12周と6/10周し、太陽が14宿を過ぎれば衛気が25周し、余りが2/10周である。そこで衛気の白昼における陽分の運行は終わり、夜間に入って陰分が気を引き継ぐ。陰経の始まりは、いつも足少陰から腎に注がれ、腎から心へ注がれ、心から肺へ注がれ、肺から肝へ注がれ、肝から脾へ注がれ、脾から腎へと注がれて1周となる。だから夜間に一宿が移動する時間では、衛気(人気)は五臓を約1周と8/10周し、これも陽分を衛気が25周するようにして、再び目へ戻る。だから陰陽を一昼夜で衛気が運行すると、体表の2/10周と五臓の2/10周が余る。この余りのために、早起きの人と朝寝坊の人の違いが発生する」。

  曰、衛気之在身也、上下往来無已、其候気而刺之奈何。
 曰、分有多少、日有長短、春秋冬夏、各有分理。然後、常以平旦為紀、夜尽為始。是故一日一夜、漏水百刻。二十五刻者、半日之度也。常如是無已、日入而止、随日之長短、各以為紀。謹候気之所在、而刺之、是謂逢時。病在於陽分、必先候其気、之加在於陽分、而刺之。病在於陰分、必先候其気、之加在於陰分、而刺之。謹候其時、病可与期、失時反候、百病不除。

 黄帝「衛気は人身を上下に移動して止まりません。どうやって衛気の所在を知り、それに刺鍼するのですか?」
 岐伯「昼夜では陰分と陽分の違いがあり、太陽には長短の違いがある。春秋冬夏では、それぞれ陰陽や日の長短が决まっている。だから日の出の時刻を基準とし、夜が終わったときを始まりとする。つまり一昼夜で、水時計の水が百刻ほど落ちる。だから25刻では昼間の半分である。衛気は平常通り運行して止まることがなく、日の入りで陽分は終わる。だから日の長さをそれぞれの基準とする。このように気が陽分にあるか陰分にあるかを察知して、それが存在する部位に指すことを「逢刺」と呼ぶ。病が陽分にあれば、衛気を察知して陽分を循行しているときに刺鍼する。病が陰分にあれば、衛気を察知して陰分を循行しているときに刺鍼する。このように衛気が循行するときを察知すれば、病は期待したとおりに治癒する。もし時を失すれば、百病は除かれない。


 水下一刻、人気在太陽。水下二刻、人気在少陽。水下三刻、人気在陽明、水下四刻、人気在陰分。水下五刻、人気在太陽。水下六刻、人気在少陽。水下七刻、人気在陽明。水下八刻、人気在陰分。水下九刻、人気在太陽。水下十刻、人気在少陽。水下十一刻、人気在陽明。水下十二刻、人気在陰分。水下十三刻、人気在太陽。水下十四刻、人気在少陽。水下十五刻、人気在陽明。水下十六刻、人気在陰分。水下十七刻、人気在太陽。水下十八刻、人気在少陽。水下十九刻、人気在陽明。水下二十刻、人気在陰分。水下二十一刻、人気在太陽。水下二十二刻、人気在少陽。水下二十三刻、人気在陽明。水下二十四刻、人気在陰分。水下二十五刻、人気在太陽。此少半日之度也。
 日の出から水が1刻落ちる時間は、衛気が太陽経脈にある。水が2刻落ちる時間は、衛気が少陽経脈にある。水が3刻落ちる時間は、衛気が陽明経脈にある。水が4刻落ちる時間は、衛気が足少陰経脈にある。水が5刻落ちる時間は、衛気が太陽経脈にある。水が6刻落ちる時間は、衛気が少陽経脈にある。水が7刻落ちる時間は、衛気が陽明経脈にある。水が8刻落ちる時間は、衛気が足少陰経脈にある。水が9刻落ちる時間は、衛気が太陽経脈にある。水が10刻落ちる時間は、衛気が少陽経脈にある。水が11刻落ちる時間は、衛気が陽明経脈にある。水が12刻落ちる時間は、衛気が足少陰経脈にある。水が13刻落ちる時間は、衛気が太陽経脈にある。水が14刻落ちる時間は、衛気が少陽経脈にある。水が15刻落ちる時間は、衛気が陽明経脈にある。水が16刻落ちる時間は、衛気が足少陰経脈にある。水が17刻落ちる時間は、衛気が太陽経脈にある。水が18刻落ちる時間は、衛気が少陽経脈にある。水が19刻落ちる時間は、衛気が陽明経脈にある。水が20刻落ちる時間は、衛気が足少陰経脈にある。水が21刻落ちる時間は、衛気が太陽経脈にある。水が22刻落ちる時間は、衛気が少陽経脈にある。水が23刻落ちる時間は、衛気が陽明経脈にある。水が24刻落ちる時間は、衛気が足少陰経脈にある。水が25刻落ちる時間は、衛気が太陽経脈にある。これが午前中の衛気の運行回数である。

 従房至畢一十四舎、水下五十刻、半日之度也。従昴至心亦十四舎、水下五十刻、終日之度也。日行一舎者、水下三刻、与十(素問、作七)分刻之四。『大要』常以日加之於宿上也、則知人気在太陽。是故日行一宿、人気在三陽与陰分、常如是無已。与天地同紀、紛紛、終而復始、一日一夜、水行百刻而尽矣。故曰、刺実者、刺其来。刺虚者、刺其去。此言気之存亡之時、以候虚実、而刺之也。
 房宿から畢宿まで太陽が14宿を移動する間に、水は50刻落ち、太陽が天を半周する時間である。昴宿から心宿も14宿で、水が50刻落ち、太陽は地面の裏側を半周する。太陽が一宿の星座を行く間に、水は3刻と4/10刻(素問は4/7刻としている)落ちる。『大要』は、太陽が星座に差し掛かったら、衛気は太陽経脈にあると判るという。だから太陽が一宿を通る時間に、衛気は三陽経脈と足の少陰腎経を行くという運行を繰り返し続けている。天地と同じように、バラバラに見えても法則性があり、終わると始めに戻って、一昼夜で水が百刻落ちて尽きる。「邪気が実ならば来るときに刺し、正気が虚ならば去るときに刺す」とは、衛気のあるときとないときを言ったもので、虚実を察知して刺鍼する。



 営気・第十(『霊枢・営気』)

 営気之道、内穀為宝。穀入於胃、気伝之肺、流溢於中、布散於外。精専者、行於経隧、常営無已、終而復始、是謂天地之紀。故気従太陰出、循臂内上廉、注手陽明、上行至面。注足陽明、下行至上、注大指間、与太陰合、上行抵脾、従脾注心中。循手少陰、出腋、下臂、注小指之端。合手太陽、上行乗腋、出(一作項)内、注目内眦、上巓、下項。合足太陽、循脊下尻、下行注小指之端。循足心、注足少陰、上行注腎。従腎注心、外散於胸中。循心主脈、出腋、下臂、入(一作出)両筋之間、入掌中、出手中指之端、還注小指次指之端。合手少陽、上行注中、散於三焦。従三焦、注胆、出脇。注足少陽、下行至上、復従注大指間。合足厥陰、上行至肝。従肝、上注肺、上循喉、入頏之竅、究于畜門(一作関)。其支別者、上額、循顛、下項中、循脊、入、是督脈也。絡陰器、上過毛中、入臍中、上循腹裏、入缺盆、下注肺中、復出太陰。此営気之行、逆順之常也。
 営気は摂取した水穀より作られ、肺により運ばれる。人は穀を摂取すれば営気が盛んになり、摂取できなければ営気が衰えるので、穀を摂取する過程は宝である。水穀は胃に入り、それから吸収された精微の気が肺へ注がれ、体内に溢れて、四肢に散布される。水穀の気のなかで精なるものは管の中を行き、各臓器を栄養し続け、循環が終わると最初に戻って再循環する。これは天地の日月の運行と同じである。そのため営気は、手の太陰肺経から出て、上肢の内側上縁を行き、手の陽明経脈に注いで顔面部に上行し、足陽明経脈に注いで下行して足背へ至り、足の親指の間へ注いで、足の太陰経脈と連絡し、上行して脾に抵触する。脾からは心中に注ぎ込み、手少陰を通って腋窩へ出て、上肢を下がり、小指の端に注ぐ。そこで手の太陽経脈と繋がり、上行して腋窩部を過ぎ、眼窩下(『霊枢』は後頚部 としている)に出て、目頭に注ぐ。そこから頭頂部へ上がって後頚部に下がり、足の太陽 と合流して、背骨に沿って尻へ下がり、下行して足の小指の端へ注ぐ。そこから足底を通って足の少陰経脈へ注がれ、上行して腎に注がれる。腎からは心へ注がれ、外は胸中に散布する。そこから手の厥陰経脈を通って腋へ出て、上肢を下りて長掌筋と橈側手根屈筋の間に入り(『霊枢』は出るとしている)、手掌中に入って中指の端に出る。そこからターンして薬指の端に注ぎ、手少陽と合流し、上行して中に注ぎ、三焦へ散布する。三焦からは胆へ注ぎ、脇に出て、足少陽経へ注いで、下行して足背に至り、再び足背から足の親指の間に注いで、足の厥陰経脈に繋がり、上行して肝に至り、肝から肺へ注がれて、気管を上がって、喉頭で口腔内の鼻の穴に入り、鼻の外鼻孔に終わる(『霊枢』は関としている)。それから別れた脈は、額に上がって頭頂を巡り、後頚部の風府に入り、背骨に沿って下がり、尾骨に入るのが督脈である。そして陰器に絡まり、陰毛を過ぎて臍中へ入り、腹腔を上がって缺盆に入り、下がって肺中に注がれて、再び手の太陰へ出るのが任脈である。これが営気の循行路線であり、経脈中の正常な循行である。

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