東出雲人在北京 by ASANO SHU
中国留学
鍼灸学校を卒業して、前から考えていた中国留学をすることにした。
うちの学校は十月に卒業だが、確か文部省の交換留学生の試験は八月だったので、それには間に合わず、次に安かった日中友好協会の留学生になることにした。国費と私費があったが、国費を受けるには十万ぐらいの受験料がかかり、どうやら学費が二十万ぐらいなので、そのような危険を冒すなら安全な私費で受験しようと思った。
これは東京の代々木でやったような気がする。四人でホテルの一室に泊まり、四人のなかで僕と吉村君だけが中医を勉強しにゆくのだが、彼は中国語がまったくできなかった。
台湾人の鍼灸学校の同級生から「中国人は、言葉が判らない相手でも、一度教えてできなかったら、バカだと思って次はない」と聞かされていたので、他人事ながら心配した。
彼は日本に来て3ケ月ぐらい日本語を勉強し、自分はかなりできると思って鍼灸学校へ入ったら、みんなが何を喋っているのか全く判らない。パニックになったと言っていた。
僕は一日6時間から8時間ぐらいはテープを聞いていたので、ちょっとは大丈夫だろうが、かなり不安だった。
希望通り北京へ入学した。当時の中国語教材は、大阪で買った『新中国語』が主だったが、ほかにも少しあり、内容は八路軍の兵士が、道端に落ちていた鶏卵を見つけ、鶏の後を追っていって飼い主に卵を返したとか、向雷峰学習とかいうものばかりで、留学生の教科書としては、『新中国語』が一番まともだった。ただ当時の朝日新聞記者が、北京語言学院(現在の北京語言大学)へ留学して「ここは世界の動物園だ!」というような記事を書いていたので、嫌な気がしていた(当時この学校は外国人留学生が多く、風紀が悪いという話だった)。
当時の中国人へのお土産は、タバコ、酒、パンスト、黒のボールペン、百円ライターなどがよいと言われ、下敷きがないとの情報もあったので、それも買ってきた。
こうして30になって初めて海外留学をした。
当時は事情をよく知らなかったので、円のトラベラーチェックを持ってきて、日中友協会の勧めるクロネコ大和の宅急便で荷物を送ることにした。
『新中国語』には「飛行機が徐々に着陸しはじめ、北京空港に降りたった」という一節がある。降り立つと、バスが飛行機まで迎えにきていた。ベニアの壁伝いに歩いて、みんなと一緒に空港を出て、日中友好協会が手配したバスに乗った。お金を払い戻されたが、200
元ぐらいだったかな。一番下の札が一分(0.01元))だった。これは黄色な長さ4cm、幅1cmぐらいの小さな紙幣だった。これを見て、中国にはコインがないのだなと思った。のちには「没有用的銭(使えない金)」と呼ばれる一分札である。コインに変わって、今では銀行の端数合わせだけに使われている。
飛行場からの道は、当時は市内から飛行場まで舗装されておらず、赤土の道路には、無数に水たまりの穴があり、そこに填まってバスが大きく揺れた。
ガイドさんが「みなさん、こんにちは中国語で何といいますか?」とか、アホな問題を出して、長い道中を和らげていた。
長い道中?
今なら高速道路があって、市内まで20〜30分の距離だが、当時の中国は韓国と国交が回復しておらず、大阪空港から朝9時に飛び立った我々は、上海を回って北上するので、北京まで4〜6時間ぐらいかかったと思う。飛行機が初めてだったので、機内では数珠を握って拝み続けていた。
午後3時ぐらいには飛行場に着いた。そこから北京語言学院まで2時間ぐらいバスに乗ったと思う。市内に入ってからの三環路は、車がほとんどいなくて速かったが、飛行場から三元橋までは、なにぶん舗装もされていないので30〜40キロしか出せず、こんな揺れる道で質問に答えると舌を噛むと、のんびり周りの風景を楽しむことにした。そこは林道といったほうがふさわしく、坂がないだけで両側には松の木や、下を白く塗られた楊などが並び、よくある平地の並木道という感じだった。でも、ここはましなほうだろう。唐山へ行ったら、そこの水たまりは深さが30cmぐらいはあった。
三環路の両側には平屋が立ち並び、よくて三階建て。壁には「高高興興、上班去。平平安安、回家来(喜んで通勤。無事に帰宅)」とかいう当時の標語が白ペンキで書かれていた。語言学院は学内に道路があり、その中で降ろされた。みんなは学校の門まで送ってもらえるのに、なぜ我々は道端で降ろされるのだろうと思っていると、そこが宿舎だという。語言学院の宿舎は三階建てのレンガ造りだと聞いていたが、我々のときに塔楼が建ち、20階建てぐらいの白い高層ビルがある。日本人は、かなり金を出しているので、1〜4階までを独占している。教学楼以外は、図書館やら何やらも全部レンガの三階建て。
また『新中国語』の一節が思い出された。
「ここは宿舎です。宿舎はとてもきれい、そして静か」
まあ新築だから。
そして入ってみる。ザザーン。顔が青ざめた。
床にはシックイの破片が散乱している。砂ホコリだらけだ。もしかすると大変なところへ来てしまったのかもしれない。
これはどういうことだ?
なんでも新築だからシックイの破片が落ちているのであって、決してゴミが溜っているのではないという説明。荷物は届いてない。
トイレからモップを持ち出して、まず掃除。
そして外へ出ると、バスで隣り合わせた男が隣の部屋で、「荷物がないので生活用品を買いにゆきませんか?」と来る。「どこにですか?」 というと
「王府井にデパートがあるので、そこへゆきましょう」、「どうやって?」
「タクシーで」
そこで学校で待機しているタクシーを拾って、その男は王府井という。
当時の王府井はバスと警察車両しか入れず、タクシーは十字路の手前で止まった。当時は銭湯があったところだ。現在は上海のホコ天のように、入口に御影石の杭があるので、バスも曲がって協和病院の裏を通る。
当時の王府井は、現在の新東安市場のある不夜城と違い、5時か6時で店が閉まる。王府井の四階建て百貨大楼もエスカレーターがなく階段だった。
そこでヒビの入ったコップと気泡だらけのコップを買った。だが店員の動きがおかしい。まるでスローモーションフィルムを見ているよう。6個のコップを買ったが、そのうち3つぐらいは包むとき落として壊していた。どうなっているんだ!ここは。
そして外文書店へ行った。現在は喫茶店になっている。地図を買うという。2.00と書いてあった。男が「この表示は何だ!」という。
点の後ろはゼロが3つなのだろうが、何で2つなんだ? ゼロが一つ落ちて2000元なのか? んなわけない。2元だろう。男は
「2元というと80円。そんなに安いわけはない。日本で買えば1000円以上はする」という。この男は、英語で書かれた薄い一枚の地図が、本当に8000円もすると思っているようだ。
そして100元札を出すと、収銀台のおばさんが「没有零銭マ? ジャオ不開ヤ」という。どうも男は、意味が理解できないらしい。どうも「細かいのないか?」と言っているようだというと、「そんなこと言ったって、細かいのなんかない」という。
「二人のを集めれば200元の細かいのがあるんじゃないの」といって、五元札を取り出すと、それをおばさんがサッと手を伸ばして取り、赤い紙で地図をクルクルッと来るんでポンと投げ返してきた。 男は茫然とし、おつりの3元と地図を持って突っ立っている。
「ホラ、やっぱり2元だったんだ」と言い、タクシーを拾って帰ることにした。
ところが帰れない。語言学院と違ってタクシーがいないのだ。近くの北京ホテルならタクシーがあるが、来たばかりでは何も判らない。
やっとタクシーを捕まえると、下班なので帰るという。結局どうやって帰ったか覚えてないが、おそらく男が割増を払ったか、バスで帰ったような気がする。
翌日からは続々と入学者が集まってきた。そして学校の周りに、4つも大きな商店があることを発見した。
学校の周りを探索してみることにした。まず正門から出ると、道路には馬車が歩いている。馬車といっても大八車のようなものを引いている。大八車といっても知らない人が多いだろうが、時代劇で暴れる侍を大八車で取り囲んだりするあれだ。少し説明する。
ゴジラにも出てくる必須アイテム大八車。「ゴジラが出たぞう」との声で、家財道具を積んで頭ハチマキのおじさんが引っ張っている荷車だ。ウルトラマンなどでも「怪獣だ!」との声で、キャーキャー逃げまどう民衆に混じって、必ず登場する大八車引のおっさんだ。
このおっさんを侮ってはいけない。他の民衆が手ぶらで逃げまどっているのに対し、このおっさんは、大八車に山盛りの家財道具を積んで逃げている。しかも舗装もされていない険しい山道を。大変な力だ。
これだけの荷物を準備するには丸一日かかる。ということはゴジラや怪獣の出る日の早朝から荷物をまとめて積み、「ゴジラが出たぞう!」の声で、荷物を満載した大八車で逃げまどっている。
つまり、おっさんは何らかの方法で、ゴジラや怪獣が現れることを少なくとも8時間以上も前に予知していたことになる。そして「ゴジラが出たぞう!」で逃げ出すのだ。
まことに奥ゆかしいオッサンである。普通の人なら荷造りした後、ただちに逃げる。ところがオッサンは準備万端ととのえた後で、しずかに茶でも飲んで待っている。そして「ゴジラが出たぞう!」で逃げ出すのだ。
先に逃げてしまえば、自分が怪獣と友達なのだと思われてしまう。だから待つ。
科学特捜隊は、オッサンに聞けばよかったのだ。
少し話が逸れたが、ロバとかラマとかウマとかが荷馬車を引いており、農家のオッサンや姐ちゃんが、ときどき釣り竿のような竹でロバや馬を叩く。道端には鉄でできた攤子(タンズ)と呼ばれる店があり、小物を売っている。
学校の正門だけは学園路に面しているので舗装されていたが、横の375の通る地質大学の道は舗装されていない。あるいは舗装されていたかもしれないが、砂ボコリで舗装が隠れてしまっている。そして五道口に細い黄土の道があり、そこには平屋の農家があって、鶏などが放し飼いにされていた。グルッと回ると林業大学があり、再び学園路に戻る頃には、未舗装の歩道から蝦蟇ガエルが這い出してくる。こんな乾燥した土の中に潜っていたのだ。
今の語言学院は、周りに田んぼや畑などないが、我々がいた頃は地質大学の隣は水田だったし、あたりはキャベツ畑が広がっていた。当然にして明かりもないので、道路は夜になると真っ暗だった。現在のハロゲンライトで黄色に輝く北京とは全く違う。
手続き
学校が居留証を作るので写真を撮ってこいという。外の国営の写真館で撮ったのだが、翌日ゆくと撮れてないという。もう一度撮った。
うちの同室も入居してきたが、これは隣のが部屋を替わってくれというので、隣へゆくと王府井に同行したオッサンだった。
おっさんが、明日はクラス分けのテストがあるので受けないかという。そこでクラス分け会場へいってみた。すると、あんたは何をしにきたのだというので、中医を勉強しにきたというと、中医ならば中医クラスがあるので、そこで勉強しろという。ああそうなのかといって、試験は受けなかった。
そして翌日からが大変だった。夜中は朝の3時頃まで大音量の音楽でディスコ大会、朝は4時頃からラッパの音で、イスラム教が拝み始める。眠る時間などない。どうなることかと思ったが、授業が始まるとディスコ大会は終わった。
中医は一系である。一系には3クラスあって、中医初級クラス、中医二年クラス、科学系クラスとある。そして二系があって漢語進修生だ。うちの同室がこれ。そして三系があって、全く喋れない人のためのものだ。
ボクは中医初級クラスだったが、一度授業を受けて「ちょっと上のクラスへ上げてよ」と言ったものだから「まぁチョットここでやりなさいよ」となった。そうして次の授業になったら、若い朝鮮族の姐ちゃんが先生。なんとなく朝鮮族が好みのボクは、「ここのクラスでいい。先生、仲良くやりましょうよ」と言ってしまった。先生が「そこにも若い姐ちゃんはいるのに」というので、「彼女は西洋人、我々は東洋人同士ではないですか?」と言った。
次の日に、二年クラスへ移動させられてしまった。ここは泰国人華僑の呉リシン、日本人の名前忘れ、そしてボクの三人が東洋人だった。
最初に本を読まされて、すぐさま先生からストップがかかった。
「お前は読めるようだが、訛がひどいので何を読んでいるのかサッパリ判らん」
そりゃそうだ。楊州人に中国語を習ったのだから。
そこで家庭教師捜しが始まった。壁新聞を見ると新入生と中国人とのピクニックが計画されていた。
自転車があるものは自転車で頤和園へ行き、なければバスで行く。
頤和園へ着くと、黒人さんばかり。どうやら英語のできる中国人姐ちゃんが主催しているようだが、ボクは英語が判らないので、そこにいる英語のできない中国人姐ちゃん二人と話し込む。といっても話し込むというほど話が通じないので、地面に文字を書いて通じさせる。バスで帰って切符を買っていると、流暢な日本語で「あなた、日本人でしょう」と聞いてくる。
彼が最初の朝日新聞日本語弁論大会で、日本語学科の大学院生を抑えて優勝する張昊旭である。
張は「一度日本へ行ってみたい」と言っていた。
そこで「それだけ日本語ができるのに保証人がいないのはかわいそうだ」と思い、
「では知り合いの河野さんに頼んでみよう」ということになった。
河野さんは、短期留学生だった。留学生には留学生食堂があるのだが、ボクは泰国人と食事することが多かった。その理由は、泰国人はクラスに呉リシンがいたことと、彼等は華僑なので、中国語がメチャうまかったからだ。特に若い大学の中国語教授まで混じっていた。
そうしている間に、金さんという人に呼ばれたが、その理由は、僕が彼と同じように同国人とは食事をしないからだった。
最初は泰国人グループで食事をしていた。すると「あんたは、どうして日本人と食事しないのだ」という。「日本人と食事すると、どうしても日本語を使ってしまう。だが泰国人と食事すれば、中国語の勉強になる」と答えた。
「あんたは自分と同じ考えだ」.
それから部屋に呼ばれ、泰語を勉強させられた。彼はタイの軍事の偉いさんのようだった。もっとも、これは一日で止めたが。タイ語は母音が十以上もあるらしい。
こうして泰人と仲良くなったのだが、そこに七妹というのがいた。七妹が食堂にいると思い込んで、少し違和感があったが声を掛けてみるとキョトンとしている。それが河野さんだった。実は間違えたことをあやまると、そんなに似た人がいるなら会わせろというので七妹を呼んできた。本人たちは、それほど似てるとは思わないのだが、周りの人達が似ている似ているという。では似ているか似てないかとのことで留学生楼へ行くと、門番が姉妹かと思ったらしい。歳が少し違うが、これなら間違えてもしょうがないということになり、友達になった。
のちに船でも一緒になったオッサンがいて、北京行きのマイクロバスで話しかけてもキョトンとしている。反応がない。なんだオッサンは、本当は中国語しゃべれるじゃないかと思っていると話が少し通じない。変だなと思っていると、後ろのほうにソックリさんがいたので、間違えていたことに気が付いたことがある。やはり年齢が少し違っていた。
つまり日本人も中国人もタイ国人も、民族的には変わりないということだ。だから自分のソックリさんを捜したければ、中国かタイなどを巡ると、たいてい見つかるということが判った。
こうして河野さんの世話をし、張の保証人になってもらい、また張は日本へ行っても迷惑をかけないように、日本での生活を身につけさせた。例えば挨拶の仕方とか、玄関で靴を脱いだら揃えて反対向きにすること、会釈の角度など。本人は保証人が欲しいから必死だ。
あとで後輩に紹介したとき、言葉が日本人並みにできるのは神戸にも沢山いるが、ここまで感性から態度、ノリぐあいまで日本人に改造するとは、これ、あんたチョット犯罪やでと言われた。
だけど日本へ行ってから過剰な要求をするわがまま中国人より、日本人より出来た日本人にしたほうがいいに決まっている。
結局、彼は89年の天安門事件により留学できなくなったのだが、就職して社長の通訳となり、日本へ何度も行くようになって、日本の食事に幻滅したらしい。通訳をしていると、何度も高給の誘いで日本や韓国の社長が彼を引抜きにきたそうだが、そうした誘いが来るのは、そのとき教えた礼儀とか、キャバレーのホステス並みの細かな気配り、例えばボクは煙草を吸わないのだが、ボクが煙草をくわえたときのライターで火を着けるタイミングや火の強さ、よいしょの仕方などを教えたからであろう。
うちの同室も風俗雑誌を使って、彼に卑わいな言葉を教えていたので、ほとんど何を言っても理解できるようになった。
やはり特技があるということは素晴らしいことで、それだけ日本語が出来るなら助けてやりたいと思う。それで自分ではやらないような、河野さんに保証人をお願いすることまでしてしまう。
張は「何かお礼がしたいです」という。「じゃあ家庭教師を紹介して」。「日本語ができる中国人ですか?」
わざわざ泰人と食事しているのだ。張は、彼の勉強のためだと思って日本語で話しているだけで、本当は中国語で喋りたい。日本語など、できないほうがいい。
「日本語なんか、できなくていいから、美人を紹介して」
「そうですかぁ。やはり日本語ができるほうがいいですか」
「あんた何聞いてるの?」
倒置法
学校内を散策していると、中国人が日本語を勉強している。自分の日本語はどうかというので「馬馬虎虎」と答える。部屋に帰って同室に報告すると、「馬馬虎虎」は「マアマアですの意味でなくて、デタラメという意味だ。だから、あんたの日本語はデタラメだと言ったんだ」という。さっそく運動場のベンチへ行ってみると、さっきの中国人はまだ勉強していた。さっそく行って「マァマァの意味でした」とあやまった。NHKのラジオ講座では「馬馬虎虎」を「マァマァです」と訳していたのに。
これは謙遜の表現で「中国語が上手ですね」と言われた相手が「馬馬虎虎」と答えていたので、日本語で言えば「いい加減なものですよ」という意味だろう。
このあとで「拍馬屁」事件というのもあり、辞書のとおり「お世辞をいう」の意味で使ったら、どうやら「拍馬屁」は「おべっかを使う」とか、「こびへつらう」の意味だったらしい。周囲の総批判を浴びた。
馬虎の中国語はボクのほうで、校内で「君の中国語はうまいな」といわれると「ジャングォ、ジャングォ」と答える。「ジャングォ、ジャングォ?
ああ過奨(グォジャング)か」
「ああそれ、過奨、過奨」などと言うことをやっていた。日本語で言えば、傘と坂の間違いぐらいだろう。前後が逆になっている。これを倒置法という。
旅行でも、これ式で失敗した。言い調子で汽車の中で会話が弾んでいた。中国人は話好きで、言葉が通じなくとも話しかけている。ボクなどは通じるほうだ。
「中国の食べ物は、何が好きだね?」
考えて餃子が好きだと思う。餃子は鍋に貼り付くから、鍋貼り付けだな。中国語は動詞が前に来るから貼鍋だったかな?
「ティェゴウが好き」
「ティェゴウ? そんなもの食べられるのか?」
「ウン。あれはおいしい。好きだ」
やはり日本人は恐ろしいと感じたことだろう。「ティェゴウ」というと、ゴウは鍋、でも「ティェ」が貼だとは思わないだろう。これを現地人会話にすると、
「中国の食べ物は、何が好きだね?」
「鉄鍋が好き」
「鉄鍋? そんなもの食べられるのか?」
「ウン。あれはおいしい。好きだ」
という会話になってしまう。ちなみに土鍋は沙鍋というが、沙鍋を食べると言えば、日本で言えば鍋が好きということになり、鍋そのものを食べるという発想は生まれないだろう。
最初の会話でも、そのまま訳せば、
「君の中国語はうまいな」
「言った、言った(講過、講過〈ジャングォ、ジャングォ〉)」となる。
北大の家庭教師
しばらくすると頤和園で一緒になった暁梅(シャオメイ)が尋ねてきた。何の用かと思うと、自分はロシア語を勉強しているので、ロシア人を紹介してくれという。ちょっと待ってくれといって他の人に聞き、ロシア人の住む階を教えてもらう。女の子が一人でロシア人捜して大丈夫かなと思う。なにせ、ここは世界の動物園、何をされるか判らない。東洋人と西洋アフリカ人は違う。
まあ一緒についていってロシア人のドアをノックし、出てきたロシア人に紹介すると、後は本人がロシア語で喋っていた。
次の日、ロシア人にロシア語を習いに来たとき、下の我々の部屋に暁梅が来た。本人は自分の名前を小梅だと書く。
そして「実は、自分はアルバイトを捜している」という。自分は北京大生だし、姉も北京体育大学、妹は黒龍江中医学院の一年生、弟も大学へ行きたいという。だから両親は経済的にたいへんだ。だから自分はバイトを捜しているという。
「それなら僕の家庭教師してみない」という。同室が「おっさん、そりゃあかんで」というが、本人もOKしてしまった。さてバイト代をいくらにするか?
金銭感覚のない同室は、時間10元という。ちょっと、そりゃ高いんとちゃうか?というと、日本だって、それぐらいだすでという。ここは日本じゃない、中国だと言ったが、十元で決まった。あとで中国人が、そりゃ高すぎる。時給3元でもいいといっていた。
同室は、僕が捜してきた家庭教師の小梅を、ちゃっかり自分の家庭教師にもしていた。
この小梅の授業は感激物だった。何か判らないことがあると、飛んだり跳ねたりして教えてくれる。揺揺頭と点点頭が判らなくて、揺揺頭はこうだ、点点頭はこうだと教えてくれる。首を振るのと頷くの違いなのだが、あなた方が揺揺頭なら自分はここへ来ないと言ったときは、もう来なくなるんじゃないかと思って焦ったが、たんなる揺揺頭の説明だった。
同室のオッサン(二十代だが)は、発音ができないときは、舌と舌がぶつかり合いそうな近くで説明してくれたと感激していた。
だいたい日本人は、zhi、chi、shi、riとanの発音ができない。目の20cmぐらい先で、こうやるんだといって必死に舌を見せてくれるので、中国人は、こんなものなんだなと思った。
次の日、授業へ行った。例の如く教科書を読まされた。一行か二行読んだとき、先生が「ちょっと読むの止めて」という。ああ、またか。家庭教師を雇って、少しはまともになるかと思ったのに。
すると先生は、
「どうしちゃったんだ。浅野。急に発音がよくなっちゃって」
「家庭教師を雇ったのです」
「家庭教師か。そんなに違うのか!」
そこで先生は、クラスで出来の悪い子に家庭教師をつけることにした。自分の教師としての役目は、なんなんだ。
しかし、この目論見は、うまく行かなかった。みんなが日本人ほど金を持ってるわけではないので、みんな断ったのだった。
中国の授業は8:00から11:00か11:30分まで。本当は12:00までだったと思うが、早く終わらねば食堂のおかずがなくなってしまう。そして2:00から二時間が午後の授業。午前中で終わることもあるし、午後までのときもある。
現代中国語と古漢語、そして中医漢語だ。 みな年老いた先生ばかりなので、どうも授業に乗らない。現代中国語は、結構面白かった。中医漢語は難しく、一般の中国人には読めない文字が沢山あった。古漢語は、めんどうくさいので小梅に宿題をやってもらったら、どうも違うんじゃないかと思う。その訳は違うんじゃあないか?というと、大丈夫、こうだ。自分は高校のとき、古漢語をやったという。まあ、そのまま提出したら、案の定、間違いだらけ。古漢語の宿題は、自分でやることにした。
先生も、こちらの能力をはかりかねていて、識字率とか高そうだけど、聞いても返事せずに黙っているし、文章は判るようだけれどという反応で、中医に行ってから先生に偶然会ったとき、「自分の言っていること、判るか?」と何度も聞く。
授業では、日本の辞書は優れているので、単語を英語で言うと、すぐにみんなが理解する。
あるとき先生が「チューリ夫人を知っているか?」という。だれも知らない。
「おまえ達は、チューリ夫人も知らないのか?ボンクラ共め」
「ああっ、それってもしかして、キューリー夫人のこと」というと、その発音で皆が悟ったらしく、マダムキューリー、マダムキューリー、マダムキューリーと囁き始めた。
またあるとき、廈という文字を書いたがだれも判らない。先生も「南方にある。この辺りにはない」とか、連想ゲームのような説明をしている。
で、辞書を引くと、バルコニーと書いてある。
「ああ、バルコニーか」というと、あちこちからバルコニー、バルカニー、バルカニンなどという声が聞こえてくる。
数式の記号も世界とは違うようだ。
このクラスは、多民族なので実にやりにくい。
水滸伝の話では、中国には昔、虎がいて、武松が虎を退治するという話をやっていた。
先生が「虎の攻撃方法は三つある」とか言って、最後に「虎は恐いだろう!ウォー」と言いながら黄色い虎のぬいぐるみを投げた。するとガーナ出身のマリーが立ち上がって「虎なんか恐くない。ライオンとでも戦う!」と、騒ぎ始める。最後には武松の虎退治から、ライオンとマリーのどちらが強いか、果てはマリーと虎とどちらが強いかという話で終わる。
また先生が金瓶梅の話をしながら「こういう風に封建時代の中国では4人も妻がいて悪い時代でした」というと、ルシオが立ち上がって「私、第四夫人の息子。それ悪くない」という。 先生は焦って「そりゃおまえは悪くないかも知れないけど、遅れた封建時代の悪しき習慣だ」という。ルシオは「アアーッ、先生が僕のことを馬鹿にする」と騒ぎ始め、アラブの連中達も「先生が理不尽なことを言ってルシオをいじめるのは悪い」と騒動になる。最後にはヨーロッパ人達も、妻を沢山持つのは悪いことではないと主張し始める。けっきょく封建時代の小説の話は、第四夫人がいることはリッパな制度で、第四夫人から生まれたルシオはスバラシイということで結末がついた。
ボクも口出ししたことがある。確か名家のボンボンが使用人の娘と結婚しようとするが、ボンボンの両親に反対されて、娘は入水自殺してしまうという話だったと思う。そこで先生は「結婚は美人だから結婚するというのではなく、家庭環境や価値観、社会的地位などを基準にして結婚せねば間違うのです!」と締めくくった。そこでボクが「なるほどそうだ。だけど僕は、何度も間違いのほうを繰り返してしまう」と言ったら、みんなが「そうだ!そうだ!」「あんたは我々の指導者だ!」と、エライ騒ぎになった。それが現実となり、何度も結婚を繰り返すようになるとは、当時は知る由もなかった。
また先生の前で、自分の国のメルヘンを話して聞かせるという授業もあった。一人ずつ呼ばれて、現代中国語と中医中国語の二人のオバちゃんの前で語るのだ。時間指定で、前のがマリアという女の子だった。部屋から出てきた時「何の話をした?」と聞いたら「人魚の話をした」と言っていた。彼らと違ってボクの場合はやりにくい。というのは日本の昔話は、中国から来たものが多いからだ。織り姫と彦星の話も中国産らしい。桃太郎は、出てくるのは犬、猿、雉。ああーっダメダ。雉は中国語で野鶏だ。これは野妓、つまり川原女郎の意味になる。鬼(グイ)は幽霊だ。桃太郎が犬、猿、そして売春婦を連れて幽霊退治に行く話などしたら、浅野は何て淫乱な奴だと思われてしまう。それに桃太郎を三蔵法師、犬を豚、雉を河童に代えれば、桃太郎話は出来の悪い西遊記になってしまう。猿が石から生まれるか、桃太郎が桃から生まれるかだけの違いだ。これでは日本人は、すべて中国の真似をしていると思われてしまう。
そこで前日から何を話すか考えてきていた。中国語で読んだドラエモンの話をパクろう。それはノビ太が浜でカメを助けたら、それが宇宙人のペットで、亀型宇宙船で宇宙人の星へ行き、帰ったら世の中が変わっていたという話だ。完全に浦島太郎のパクリ。でも最初は、浦島太郎から入ろう。青い山脈のノリで。
「昔、浦島太郎が浜辺で亀をいじめている子供を発見しました」「フンフン」おとなしく二人の先生は聞いている。「そして亀を助けると、お礼に……」「龍宮城へ連れて行くんだろう」と中医の先生、「そうそう。そこで乙姫と会って楽しく暮らしましたが帰りたくなりました。そこで亀に連れられて帰ってみると……」「何百年も経っていただろう」とまた中医の先生、そこで「そうそう。だけど実は我が国では、亀は宇宙人のペットであり、宇宙船に乗って高速で飛んでいたので、アインシュタインの相対性原理で地球上では時間が過ぎていたことが判った」と言ったが、これではメルヘンでも何でもなく、あっそうかで終わってしまった。やっぱり地元出雲の大国主の話をすべきだった。
中医漢語を教える先生が、何で現代漢語の先生と二人でメルヘンを聞きに来ていたのか今だに疑問だ。
漢方薬
我々が中国に来たのは9月の始め、身体が中国の菌に慣れていないのか、すぐに風邪をひいた。中医漢語の先生は、最初てっきり中医の先生だと思ったので、脈を診てくれと言ったら「自分は医者じゃない」という。そこで診療所を教えてもらった。
初めて中国で漢方薬治療してもらうので、本場の治療はどれほどのものだろうと期待した。そこは門外で包子屋の隣にある庭に囲まれた診療所だ。鉄柵の破れ目から診療所の玄関へと入ってゆく。まず耳から血を摂られ、風邪薬をもらう。そして必ず黄色なテラマイシンを出す。なんで風邪ぐらいで耳から血を摂られるのか不思議だが、それはいい。帰りに治療手帳を買わされた。どんな治療をしたか書いてあるのだ。治療は全く効果がなくガッカリさせられた。後で洗濯機を買ったときにも修理手帳が付いてきたが、それには50回は修理記録が書き込めるようになっていた。治らないから延々と手帳に書き込まれるのだろう。そのうち新入の日本人女の子が風邪をひいた。喋れないから誰か診療所へ連れていってくれる人を捜しているという。チャンスだ!これで本当に診療所の治療が正しいのか、それともいい加減に治療しているのか確かめられる。そこで事前に部屋へ連れ込んで、脈を診たり舌を診て診察し、どうも風寒らしいと当りをつけて診療所に連れてゆくことにした。一緒についてゆくと、治療所には白人の先客がいて、やはり一人が通訳している。ちょっと待って、こっちの番になり、連れて行くと、やはり耳から血を摂られて、同じ薬を処方された。やっぱりいい加減に治療している。その女の子に聞いてみると、やはりまったく効果がないという。そのうち、またこっちが風邪をひいた。今度は自分で診察してみると、やはり風寒だった。例の診療所へ行って風邪をひいたというと、また耳から血を摂る。それで処方を書いている。「ちょっと脈を診てくれ、舌を診てくれ」というと、「自分は西洋医だから脈や舌は診れない」という。「それならどうして漢方薬を処方するのだ」というと、「漢方薬はよく効くからだ」と答える。そこで「脈も舌も診ないで薬を処方したって、ちゃんとした薬を処方できない。この前くれたのはビワ葉薬で、風熱の薬だが、体温だって高くないし、咽だって痛くない。咳が激しいだけだ」という。「あんたは漢方医か?」というので、「まあ、それを勉強しに来ている」と言うと、「では自分で薬を処方しろ」という。「自分の症状は風熱でなく風寒なので、辛温解表の薬をくれ」というと、処方を書いてくれた。こっちは桂枝湯や葛根湯あたりが出るかなと思っていたら、瓢箪を煎じた薬だった。辛温解表薬は、それしかないとのことだったが、それを飲んだら一発で効いた。そのうち日本人の間で、あそこの診療所は効かないという噂がたったのは言うまでもない。
この診療所で、もらった薬が効いたという知り合いが一人だけいる。やはり風邪で診療所へいったらしい。そしてテラマイシンをもらって飲んでいた。すると彼の頭にあって、髪をとくたびに引っ掛かっていたイボが、テラマイシンを飲んでから徐々に小さくなっていったという。風邪は治らんかったがイボが小さくなったと、エライ喜びようだった。
しばらくすると健康診断証明書で、多量の日本人が引っ掛かり始め、再検査が必要とのことだった。なんでも梅毒検査などは、異常なしと書いてあったが、正常であっても数値が書かれていないとダメらしい。引っ掛からなかった日本人は、わずかに3人だけらしい。そこで我々はバスに乗せられて検疫所に連れていかれた。今思い返してみると、中医学院の近くにある和平街北口の蒋宅口にある検疫所のようだ。何百人もの日本人が検査に詰めかけたが、言葉を喋れるものは、ほとんどいないらしい。そこで周囲の通訳をしたが、これだけの人数では注射針を一人一人替えないのではないかと心配になった。アフリカ人も混じっている。我々の団体は日本人ばかりだと思っていたら、アメリカ華僑の男が一人混じっていたらしい。少し色黒なだけなので全く判らない。その兄ちゃんが、採血の後で金を払わないらしい。言葉が通じないのだ。揉めているので行ってみたら、何せ英語しか喋らないので手が出ない。「何と言っているんだ?」と尋ねると、近くの日本人が、兄ちゃんの英語を日本語に通訳し始めたので、何とか通じるようになった。係員は検査代金を払えという。ところが兄ちゃんの通訳は、日本語でとんでもないことを言った。「高いから負けろ」。えっ、これを通訳するの?わずか五元なのに? 大勢の日本人が順番を待たされているというのに?
信じられなかったが、それを通訳すると、当然にしてダメダという。さんざんすった揉んだの揚げ句、兄ちゃんは正規の料金を払ってくれてホッとした。ゲに恐ろしきは、華僑よの〜。周囲の状況を全く考えず、時間を使いよる。
その時から中国にいるとき、日本人のめんどうを見るクセがついてしまった。周りの日本人は、うちの同室や一部を除くと、ほとんど言葉が判らないらしい。一人ではトイレに行くこともできない連中なのだ。まったく幼児の面倒を看ているようなものだ。
22歳の家庭教師
そのうち張が、家庭教師を紹介してきてくれた。なんでも政法大学の院生らしい。高校教師のドラマに出てきた女子高生のような顔だったので、この家庭教師はかなり目立ち、日本人は皆が振り返るので、なんか得意だったが、そのために日本人がいろいろ寄ってきて、お友達が増えた。孫穎(スンイン)という名前だった。この人は、えらくおすまし屋さんで、最初は小梅と中医漢語をやってもらっていたのだが、やはり中医の漢字は通常の読みと違っていたりするので彼女には難しかったようだ。やはり最初は発音が難しく、ボクはどうもうまく発音できない。現在でもうまく発音できないのだが、そこで口を見て真似ようとするのだが、どうしてもうまく発音できない。そこで小梅のときのように口の中を懐中電灯で照らし、舌の動きを観察しようとしたら、口を閉じて全く開けなくなってしまった。あとで日本人に、そのことを言うと「そんなことをすれば日本人の女の子だって嫌がりますよ」という。翌日は張が「何ということをしてくれたんですか」と怒ってきた。「まあ、口の中を懐中電灯で照らすのは、日本人の親しみを込めた挨拶だと胡麻化しておいたんですけど、もうこれからは絶対にやめてくださいよ」と怒っていた。
その次からが大変だった。ボクはクラスで、それが日本人の挨拶ということを証明しようと、クラスメートの口の中を懐中電灯で照らして歩いた。クラスに一人だけいた日本人は、中医学院へ行けば鍼灸師の免許がもらえると思っていたのだが、日本の学校に行かなければ免許が取れないことと、十月頃から鍼灸学校の入学試験が始まることを教えると、サッサと日本へ帰ってしまった。こうなりゃこのクラスはボクの独擅場だ。ボクが日本最大の権威になる。同級生は「浅野、何だい?」といって照らされていた。そのうちボクも調子が出てきて、ビートたけしのコマネチをやるようになった。「遠くで挨拶するときは、こうする!」。これも最初は同級生が「浅野、何だい?」と言っていたが、この日本人式の挨拶が、クラスメートが出合ったときの朝の挨拶へと変わってしまい、教室の外で出合っても、顔を見ればコマネチをしあう間柄になってしまった。あとで日本人のおばちゃんがクラスに入ってきたとき、日本人の品位を傷付けたと怒られて、この挨拶を中止させられたのは言うまでもない。
その天国をブチ壊した人は、武田のおばちゃんである。
我々の寮は、中国人が訪問するときは夕方四時以降で、十時までに帰らねばならなかった。最初の2回ぐらいまでは、外のバス停まで1キロぐらい歩いていたボクも、そのうち疲れて寮の前までしか送らなくなった。寮の玄関から帰ろうとすると小さな子供がいる。「なんで子供がいるんだ」と思い、声を掛けてみると「お兄さんを待っている」という。「お兄さん?」、「そう、遊んでくれるんだ!」という。「こんな所、子供が来てはいけないよ。病気になるよ。誰が連れてきたの?」、「おかあさん」。
当時の中国の衛生環境は悲惨なものだった。語言の食堂で御飯を注文すると、豆腐のように四角く切って御飯を出してくれるのだが、その表面や周囲は固いうえにドブ臭くて食べられたものではない。そこで横から穴を開け、周囲1cmぐらいを残して真ん中だけを食べた。
ボクはよく外の朝鮮料理屋へ行ったが、そこは夏になると蝿がブンブン飛び回る。それだけならよいのだが、料理を食べているとテーブルの50cmぐらい上で、親切にも食堂の姐ちゃんがスプレー式の殺虫剤を蝿に吹き掛けてくれる。当然にして蝿はフマキラーを掛けられまいと逃げてしまうので、その殺虫剤は、すべてボクの料理に降り注いでくれるわけだ。姐ちゃんはフマキラーは蝿を殺すもので、人間が食べても害はないと思っているらしい。それぐらいの衛生感覚だった。だから清潔好きな中国人はビールを飲むとき、必ずコップに4cmぐらいビールを注ぎ、そのビールでコップを漱いでからテーブルの下に捨て、改めてビールを入れて飲むのだった。何年かのちに嫁と国営の食堂へ入ってスープを注文したときも、レンゲに白っぽいカーワックスのようなものが付いていて、嫁が口を着けるとヒリヒリするという。店員を呼んでヒリヒリすると言うと「それはソーダだから問題ない」でおしまい。そうした衛生感覚だった。当時の食堂だって、朝の2時間ぐらいと、昼の11〜1時、夕方の4〜6時しか開いてない。しかも1時には注文できず、「もう終わり」との答えが返ってくる。そして12時半を過ぎると、店員がホウキを持って掃除しにくるというぐあいだ。店の地面は土なので、客は土埃の中で食事をすることになる。客が悪いのだ。休憩時間間近まで食事をしているのだから。そのようなスザマジイ衛生環境で、この日本人の子供は生きているのだと、すっかり誤解し、かわいそうになってきた。
そこでしばらく「お兄さん」とやらを待つことにした。ところが一緒に待ってやるが、一向にお兄さんとやらは現れない。「来ないようだね、じゃあ仕方ないから、おっちゃんと遊ぼう」。一人で出るのも様子が判らないので、たまたま帰って来たタイ国人の中国語教授を誘うことにした。すると子供は、リドホテルへボーリングしに行くという。こっちはリドホテルがどこか判らない。タクシーで行くという。そこでタクシーを拾い、我々は子供に連れられてリドホテルへ。そして代金の30元を払う。日本円で1200円。当時は外匯(外国人専用の元紙幣)の交換レートが約二倍だったので、それでも600円。えらい出費だ。エスカレータに乗って上へ行くとピザ屋があり、そこのピザは一枚30元、子供は、よくここへ来てピザを食べるという。タクシー代が往復60元、ピザ代が30元、計90元、ボクの昼食と比較すると、よく行く食堂でラーメン一杯が1元、冷えたビールが1.3元、沙鍋豆腐が2元ぐらいとして、5元もあれば満腹になる。なんと金のかかる子供なんだ。包子屋で包子とビールを頼んだところで、3元もあれば足りるだろう。そこで子供とボーリングしてタクシーに乗って帰ったが、ボクはアベレージ25という記録保持者なので、子供とボーリングしても面白くなかった。そして子供を送って行くと教学楼に住んでいるという。驚愕した。そこは外人教師の住む場所だったのだ。ドアをノックすると、今お風呂に入っているといって、武田さんがバスタオルを巻いて出てきたので、もうこんな金のかかる子供とは付き合いたくないと、さっさと退散した。
しばらくしてオーストラリア人のロスと留学生食堂で食事をしていたら、その武田さんがツカツカ寄ってきて、いきなり「あんた!何でロスと話しているのよ!」と、いきなり怒鳴りつけられた。「エエッ!だってクラスメイトだから」。何か知らないけど、ボクは追い立てられてしまった。これが武田さんの顔を初めてよく見たときだった。なんでもわがクラスのフランス人である「へりっぷ」とも知り合いで、フランス人についてフランス語を習っているという。子供がイジメに遭うので中国へ連れてきたという。そりゃ、ほとんど初対面で怒鳴られれば、子供をイジメようという気にもなるさ。
まあとにかく「それはおかしいです!」と言ってやった。ではあんたは中国に来てフランス語を勉強し、フランスへ行ったら中国語を勉強するのか?「それもそうね。じゃあ中国語を勉強することにするわ」。ところがこの人、尋常ではなかった。45歳だというのに、そのときから勉強を始め、1年後には日本の翻訳コンテストで二位を授賞し、そのあとは愛知大学で勉強しているという。日本に帰った後は、大学の勉強が忙しいそうで、電話してもボクなどはほとんど相手にしてもらえなかった。その点、中国人は、 例えば張のようにどんなに成功していても、ボクのような昔の友人に会えばキチンと相手をしてくれるのでありがたい。
あとでイモトから聞いた話だが、彼のクラスには香港出身の天才少女が一人おり、その子が武田さんのクラスメイトだったのだ。武田さんは、その子にどうしても勝てなくて必死で勉強したらしい。イモトの部屋で、その子にも後で会ったのだが、流暢な日本後を喋るので、てっきり色の黒い日本人だと思ってしまった。あとで「今のが語言学院の天才少女。なんでも日本人と付き合っていたら、1年で日本語をマスターしてしまったらしい。一度聞いたことは絶対に忘れないらしい。あるとき部屋に呼んで、この部屋の中で日本語で知らないないものがあるかと聞いたら、灰皿を指して、これだけが判らないといっていた」と聞いた。張や武田さんは努力の人だが、幼い頃からクラスで一番を張っていた武田さんも、さすがに天才少女にだけはかなわなかったらしい。でもクヤシイらしく「あんな人は晩年に必ず気が狂うのよ」と言っていた。当然にして彼女は何度も跳び級しているので、16歳ぐらいで香港から留学してきたようだ。
このイモトは、後で一緒になった同室から紹介された。そのときもう一人男がいて、この二人は兄弟ですと紹介された。ところが本当は違っていたのだが。最初のは名前を忘れたが、次に彼が「イモトです」と自己紹介する。そうか兄と妹か、だから兄妹なんだ。でも何で女が男子寮に住でいるんだ?それにしてもゴツイ妹だな〜、これでは性転換して男にならないと結婚できないだろうな〜、かわいそうに。それにしても太い声をしている。うちの妹より、まだ太い声だ。まぁでも、ブスというのはやめよう。と、このとき固く心に誓った。その男の妹だと信じ込んでしまったボクは、随分後になって、彼が男だったことを知った。でも、後で考えてみれば、それほどのブスではなかった。後で中医学院へ行ったら、クラスメイトにエラくブスな女の子がおり、珍しいから写真に撮っていた。すると後で張が遊びに来て、机にあった写真を見つけ、「これは何ですか?」と言って写真をマジマジ見て、2〜3分静かに見つめていた。アレ、失神したのかな?と思って見ていると、感心するように日本語で「ブスですねぇ〜」と溜め息をついた。その彼女よりは、イモトは美人である。
中国人は美人だというが、それは人口が多いから並みはずれた美女もいるものの、また桁外れのブスも存在する。この翌年、在日韓国人に、中医のクラスの李剛を紹介したときは「エラくエエ男ですねぇ。中国にもあんな美男がいるんですねぇ」と感心していた。中医学院の我々のクラスでは、男なら李剛、女なら徳鈴が一番美しかった。ただ徳鈴は色黒の美女ではあるのだが、性格悪いので好きじゃない。あいつと結婚するのなら一生独身でいたほうが増しという女だった。ただ美人なので、男も女も徳鈴の写真を持っていた。中国の美人は、自分のプロマイドを周囲に配るようである。中国人は日本人と違い、美人が好きなようだ。美人で結婚していない人は、ほとんどいない。美人は、何回でも結婚している。のちに家庭教師の孫穎も、ボクにプロマイドを一枚くれた。なんでもロシア人の写真家に撮ってもらったそうだ。
家庭教師を紹介してもらって何日か過ぎると、ドアがノックされた。開けてみると見知らぬ男が立っている。「あんた美人連れとりまんな〜、どうしたんです?」と、聞いてくる。何やら知らんけど、張と知り合った話、保証人を捜してやった話、見返りに美人の家庭教師を紹介してもらった話などをすると、男は「うまくやりましたな〜」と、何度も羨ましそうに言いながら帰っていった。同室が「今の知り合い?」と聞くので、「いや、今初めて会った」というと、「厚かましい男やな〜。初対面で自分にも美人な家庭教師を紹介しろというなんて。てっきり知り合いだと思った」と言っていた。彼は、後に一緒に旅行すると必ずサギに出くわすという大和君であった。
のちに張が、ボクの家庭教師に同室が手を出すといけないと感じたらしく、同室には別の王姫霞というのを紹介してきた。同室は、孫穎よりも王姫霞のほうがエエと気に入り、彼女を連れて外出すると、注目されて「エエ女連れとりまんな〜」と声を掛けられるようになったらしく、友達も増えたという。
この美人家庭教師作戦が、語学の勉強に有効だったことは言うまでもない。なにせ美人とは何とかして意思を疎通させたいものだから、どうやったって努力する。ホント、語学が上達したければ、美人の家庭教師を雇うべきだ。ボクも授業が終わったら五道口へ行き、今は取り壊された小さなレンガ作りの商店、「知識青年の店」というところへ行って、ミュージックテープを買ったものだった。それは歌謡曲の中ならエエ殺し文句が入っているのではないかと思ったからである。それで歌謡曲を覚えるのだが、歌詞カードを見なければ何を歌っているのか判らない。それは中国語には発音のほかに音程があるが、歌にすると曲の音階に合わせなければならないので、どうしても音程を犠牲にする。だから聞き取ることが難しくなる。知らない歌謡曲が聞き取れるようになったのは十年も後の話だ。
ところが中国の歌謡曲は、夢で会えるとか、心のなかに居ますというような曲ばかりだった。張に「今流行っている曲は何?」と聞くと「鉄格子の涙」だという。すると露天で見つけた。聞いてみたが、まるでおもしろくない。そして張が来たとき「この曲は、どこがいいの?」と聞いてみた。すると張は「この歌手は有名だから、いろんな女とヤリまくったわけですよ。それで女に訴えられて、今は刑務所の中というわけ」。
「いや歌手の履歴は判ったが、この曲はどこがいいの?」
「だから彼は鉄格子の中で、もうやりませんと反省しているんですよ。いい歌じゃないですか?」と張。
「いや。だいたい判ったから、このテープ、あんたにあげるわ」
もう中国人の言うことは絶対に信用しない。感覚が違う。
そこで露天に出た。売ってる兄ちゃんに、このテープどう?と聞く。
「不好」これは、好きじゃないという意味でなく、悪いという意味だ。
「じゃあ、これちょうだい」
「よくないと言っているじゃないか!」と兄ちゃん。
「でも、僕は外国人だから中国人とは感覚が違う。中国人が悪いと思うものも、外国人にとってはスバラシイと思えるんだ」と言って買ってきた。
本当に悪かった。歌手も十五歳ぐらいだが、内容も幼児に聞かせるような歌で、まったく家庭教師の気を引くのに役に立ちそうにない。
整理してみると、張お勧めの歌詞を使って家庭教師に迫るとすれば「私は大勢の女とやりまくり、訴えられて、今は鉄格子の窓から外を眺めて毎日涙を流して反省しています」これでは絶対に駄目。かといって中国人がダメだというチイチイパッパの歌詞を使っても精神年齢を疑われてしまう。
そのうち同室は「不知道」というテープを買ってきた。これは「不知道!不知道!不知道!」という曲である。日本語で言えば「しらない!しらない!判らない!」という曲である。同室は、このテープで成功したのだという。どう成功したのかというと、教室で先生に当てられたとき、立ち上がって「プーチィダオ!プーチィダオ!プーチィダオ!」と、やり始めたのだ。先生は笑って許してくれたという。こうして同室は成果を上げる中で、ボクは一向に役に立てられなかった。当時は千百恵という台湾歌手のテープがあって、これがなかなかイイ声していた。テレサテンなどもよかったが、その千昌夫と山口百恵の間にできた子供に付けた名のような歌手が気にいっていた。
88年は暑く、蝿がワンワン飛んで来るので、同室はフマキラーを買って網戸の蝿に吹き掛けていた。その霧が、すべて部屋に入ってくる。当り前だ、風は外から吹いてくる。全部こっちが吸い込む。腹が立つので「おっさん!臭いにおい出して蝿をおびき寄せ、蝿にフマキラー掛けるのは止めてくれ」と言った。おっさんは「えらい言われようやな」と言ったが、それからは殺虫剤を吹き付けなくなった。殺虫剤がなくなったのだ。
おっさんとボクは、最初は他の留学生との交流もなかったので、水をどこで手に入れてよいか分からず、しばらくは売店で九龍のミネラルウォーターかビールを買って飲んでいた。後で知ったが、九龍のミネラルウォーターを飲んでいたのだから下痢をせずに済んだ。物によっては水道水だったりし、飲むと下痢したりする。だからのちに旅行で北京へ行ったとき、ミネラルウォーターを買うと南方人だろうと言われた。なぜそう思う?と聞くと「北京人ならミネラルウォーターなど買わない。スプライトを買う」という。ボクは甘いものは嫌いなのだ。ミネラルウォーターよりビールが安いのだが、ビールを飲むと疲れるので、夏に歩くときはミネラルウォーターにしている。
水の代わりに昼間っからビールを飲むということで、我々は酔っぱらっていることも多かった。でも当時の道路を通る車といったら、スイカを運ぶトラックとバス、滅多に通らないタクシーぐらいのものだったから、一時間ぐらいは道路を車が通らないことはしょっちゅうで、千鳥足で歩いていても問題がなかった。そのうち留学生食堂にイオン交換樹脂を使った純水製造機があり、その水を持ち帰って留学生は飲んでいることを知った。今はラッシュで車が溢れている学園路も、昔は信じられないほど車が少なく、中国人は車が痛いものだと知らないらしく、道を横切ろうとして跳ねられ、人前で脳味噌をさらすこともままあった。車といえばバスしか知らず、そのバスも自転車に追い越される速度で走っていたので、時速20kmぐらいだったろうか。二駅までが5分、それからが7分、5〜6駅乗ると1角(毛)、長安街を走る長距離のバスが2角だった。現在の一律1元、冷房車で2元というのと比較すれば1/10の値段だ。
こうして我々は、授業が終わって食事し、ビールを飲んで寝ているところを小梅に起こされて強制的に勉強されられるか、または孫穎あるいは王姫霞が来るとき、授業が終わったら部屋を掃除し、お湯を沸かしてお菓子を用意しているという健康的な生活に変わった。なにしろ窓には5mmぐらいの隙間があって、そこから細かい砂が侵入してくるので、毎日掃除しなければ部屋中がうっすらと泥を吹き付けたようになってしまう。最初は、同室が狂って土を撒いたかと思った。我々は家庭教師がいなかったら、授業が終わったら死んだように寝ていたかもしれない。だから中国留学する人は、何年留学しても一向に喋れない、聞き取れない人が多い。授業にも出ず、夜遅くまで酔っぱらって宴会しているからだ。だから午前中一杯は眠っている。そして食事をした後で昼寝する。夕方になると起き出して、日本人が集まってカラオケ大会が始まる。だが授業は午前中。授業にゆくと2〜3人しかいない。2〜3人では先生に当てられるから行かない。また、この日本人村では足の引っ張り合いもあるようだった。
翌年の中医学院の休みに、ちょびっと語言学院に泊まりに行ったことがある。イモトの所へ行くと、彼は「今日こそ授業へ行くぞ」と覚悟を決めていた。教科書をカバンに入れて「じゃあ授業へ行ってきます」という。するとイモトの同級生が入って来た。
「イモト、今日授業に出るの?」と気怠そうに言う。今日こそは出るという。
「やめようよ。どうせ出ても誰もいないから、先生に当てられるだけだし」と、最後には腕にブラ下がって出席を邪魔する。それを見たとき、自分がもし語学研修クラスだったら絶対に授業に出れないなと思った。うちの同室も語学クラスだが、「こんな辺僻な所、酒でも飲まないとやっとれんわ」と、毎晩出かけて酒を飲みよって、夜の2時頃タクシーで帰りつく。ついには酔っぱらってボクの机の横で、立ちションする始末で、そのうち寝ていたら、例の如く酔っぱらって帰ってき、寝ていたと思うとムックリ起き上がって、ボクの枕元に立ち一物を取り出そうとしている。ハッと気が付いて「おっさん!何しとるんや!ションベンするなら外でヤレ!」と叫んだ。同室は「何で便器が喋るのカナ?」と、不思議そうな顔して小首を傾げていたが、どうやらドアを開けて外へ出たらしい。しかしトイレではなく、廊下でタチションしていたような音がしていた。ここからトイレまでは離れているので音が聞こえるわけはない。それが原因で、この同室とオサラバした。
彼がとうとう机の横で立ちションしたときは、すでに留学生を管理する周さんに苦情を言いに行っていた後だった。三日後に、これだから、また行って「今度は顔にかけられそうになりました。何とかしてください」と訴えた。
それから十日ほどして「おっさん!よう周さんにバラしてくれましたな〜。恥ずかしいおましたで。でもおかげで一人部屋に移れることになりましたで」(彼は一人部屋に移りたかったのだが、留学生が多くて申請しても却下されていた。天安門騒ぎの後は日本人が減り、一人部屋が普通になった)。「そりゃしょうがないだろ。自分がやったんだから」とボク。
「おっさんがバラしてくれたおかげで、周さんにいろいろ言われたわ。何で歳下の人間に、そんな嫌がらせをしたんだというので、いや、向こうのほうが、大分歳上ですわ、と言ったら驚いていた。別に嫌でやったんでなく、酔っぱらってやっただけで、恨みも何もないと言ったら、ようやく一人部屋に移れるらしい。こんなことなら、もっと早くションベンしとくんだった。椅子にションベンかけるだけでなく、ウンコもしとけば、もっと早く移れたかもしれない。あんたが椅子に座ろうとすると、そこにはウンコが!引き出しを開ければ、そこにウンコが!そういう状態なら良かった」と言って去って行った。
この同室には以後、会うことはなかった。だが天安門騒ぎで逃げた後、張は荷物を送ってくれるよう頼まれたらしい。一緒に元同室の部屋を訪れたがその部屋はトイレの隣にあった。トイレの壁は、みんながションベンかけるので、同室の方へシックイが大きく膨れてブヨブヨしていた。なるほど、これなら同室が部屋の壁に向かって立ちションすれば、向こうのションベンとバランスがとれて、いい具合に平らになるだろう。学校も考えたものだと感心した。
同室が移ったので、ケンカ両成敗ということで、ボクも一人部屋に移れると思ったが甘かった。こっちには問題がないと判断したらしい。しばらく元の部屋で一人だけ取り残された。
レトロ君
家庭教師のことで大和君がやって来て、3日ぐらいすると、またドアがノックされた。同室は6時以降は家庭教師と出かけてしまうので、夜の2時にならないと帰ってこないのだ。家庭教師を紹介されてからというもの、同室は家庭教師に夢中で、ボクの家庭教師の孫穎が来ても、どこへ行ったのか判らない状態になってしまった。
ドアを開けると、また見知らぬ男が立っていた。フロックコートを羽織り、コウモリ傘をついている。もちろん雨など全く降ってないし、まだ暑い9月だというのにフロックコートを着ている。なんとなく竹久夢二の絵のような線の細い男だ。
「どなたですか?」と聞くと、自分は日本の諜報部の者だという?
何か怪しい。この暑いのに黒いフロックコートを着て、雨も降らないのにコウモリ傘を持っている。
「そのコウモリ傘は?」と尋ねる。
これは本当はステッキを持たねばならないのだが、ないのでコウモリ傘にしているという。「諜報部?」と、いぶかしげに尋ねる。諜報部がボクに何の用なのだろう。
「そう、あなた甘粕大尉を知っているでしょう?」
「マラ粕大尉?」
「イヤ、マラカスではない。アマカス。あんただってラストエンペラーを見ただろう。坂本竜一がいただろう?」
「ああ、あの音楽家の」
「そう、あれがアマカス大尉です。ちょっとカセットラジオを借ります」
というと、男はボクのカセットラジオにテープを入れた。
留学生は、だいたいカセットラジオを持って来ている。ボクは飛魚ツッピンやら森のクマさんやらの入ったミュージックテープも持ってきた。この男もミュージックテープを持って来たらしい。
トコトコトン、トコトコトコ、トコトコトン、ピンピピピン、トコトコトン、とラストエンペラーのテーマソングが流れてきた。
ボクも、さすがに、このような変な男には初めて会ったので、少し気遅れした。
「いい曲でしょう。坂本竜一は最高だ。ところで私の名前は……」
「アマカスでしょう?」とボク。そういえば坂本竜一も、どことなく竹久夢二の絵に似て線が細い。
「いえ違います。渡辺賢です」と、男は名刺を差し出した。それは明らかに手書きで、毛筆で書かれた名刺だった。
「私は諜報部として日本人を調査して回っているのだが、私の調査によると、あなたが家庭教師を雇っているという情報が引っ掛かりましてね」
「はい、二人雇っていますが」と答える。
「彼女の名前は何ですか?」
「若いほうですか?」
「いえ、美人のほうです」
「孫穎です」
「そうですか。孫さんですか。いい名前です。ところで私の誕生会があるのですが、その孫さんと一緒に来てもらえないでしょうか?」
そこで孫穎と一緒に渡辺氏の誕生会に行くことになった。
子供の留学生
子供が遊びにやってきた。この子供は金が掛かるので嫌だったが、それなら家に来いという。その教学楼へ行ってみると、クーラーは揃っているわ、浴槽はついているわで申し分なかった。壁の一角にある3mぐらいの備え付けの本棚には、ゲームだの子供の本だのが並んでいる。ハムスターまで連れて来ていた(後で聞いた話では、検疫にえらい時間がかかったそうだ)。子供のお母さんは、食堂でクラスメイトと食事していたとき割り込んできた人だったので、名前は知らないが面識があった。
子供が1ケ月で30万円も使うと嘆いている。そりゃそうだろう。ホテルで遊んでピザ食っていれば、それぐらいの額にはなる。タクシー代だって馬鹿にならない。
ボクは留学費用として50万持ってきた。子供なら2ケ月もたない。そしてボクは天安門騒ぎで帰国するとき、まだ20万ぐらい残っていた。子供の1ケ月分の小遣いで1年を過ごしたのだ。
子供は、あまりに体力がなさそうだし、お金が掛かって仕方がないので、まずバトミントンをすることにした。そこでバトミントンを買ってきてやらせようとするが、まず玉が返せない。それでも練習だと思ってやっていると、子供が玉に砂を入れて打ってきたりする。こちらに砂がかかるのが面白いらしい。あとで馮艶がバトミントンをしたときに、うまく取れないものだから子供と同じように砂を入れてきたのを見て、中国人の大学生は12歳の小学生と同じ精神構造だと感心した。でも中国人は嫌いじゃない。日本人と違って、すぐに表情に現れるし、何となく子供のようで息詰まることがない。日本人は複雑で、何を考えているか判らず、気疲れしてしまう。
子供と一緒に近くの五道口商店へ行ってバトミントンを買う。そこにはカメラや服などの日用品だけでなく、溶接の道具やガスマスクまでも売っていた。当時の商店は、教科書のマニュアル通り「請給我看看(見せてください)」というのだが、商品ケースを開けてくれない。そばにいる店員は、自分はそこの担当ではないから開けられないという。担当店員はどこだというと、トイレだろうという。いつまで待っても帰ってこない。どうして帰ってこないんだというと「仕事終わった」という。80年代の買物は大変で、店員どうしがお茶を飲みながらお喋りしているところへ「ちょっと商品を見せてくれ」などと言おうものなら大変だった。「いま人が話しをしているのが判らないのか?」などと言われ、絶対に商品を売ってもらえない。そろばんを弾いて計算しているところへ話しかけでもしたら大変だ。罵られまくる。店員に説教されることもシバシバだった。マニュアル通り「請給我看看」と言えば黙って商品を取り出してくれることは、よっぽど店員の機嫌がよいときだった。
それに当時の中国で「対不起(トイプチィ、申し訳ありません)」と「謝謝(シェイシェ)」は聞いたことがなかった。「ニイハオ」も言わないし「再見(ツァイジェン)」も言わない。でも言葉はあるようで、そういえば通じた。バスに乗ったときも、バスが急ブレーキかけて子供がよろけ、ボクの足を踏んだときに一度だけ、その子供が「トイプチィ」と言った。それで「没事(メイシャー、何でもないよ)」と答えると、子供はビックリして、こちらを見上げていた。後で同じ状況に自分がなったとき、「トイプチィ」と言ったら「踏み殺す気か!」と返される。こちらは靴底の薄い中国ズックだが、その後もブツブツ言っている。
後で、同じ場面が教科書に載っていた。当時の中国は自転車が多く、バスの周りを自転車が取り囲んで走っている状態だった。バスは自転車より遅いので、横にいた自転車が急にバスの前を横切る。だからバスが急ブレーキを踏むことは多かった。現在は学園路などでは自転車のほうが遥かに速い。渋滞で動かないからだ。だから現在では語言へ行くことは容易でない。地下鉄でも通ってくれないと、積水潭や西直門から相当かかる。バスの路線も変わってしまったし、花園路も舗装されてバスが通らなくなってしまっている。
教科書では、足を踏んだ人は「トイプチィ」とは言わない。そのまま過ぎ去ってゆく。踏まれた人が「足を踏んだじゃないか!」というと、「何で多くの足があるのに、オマエの足を選んで踏むことがあるものか?それはオマエの足が踏まれる運命に神様が決めたからだよ」というような会話が載っていた。
張に「中国人は、本当にこんなことを言うのか?」と尋ねると、言いますという答えだった。だから子供は「トイプチィ」と言って、「踏み殺す気か!」と答えが返ってくるはずのところを「何でもないよ」と、思わぬ答えが返ってきたので、驚いてこちらを見上げたというわけだ。こんな風に語学の教材には、ほとんど使われない言葉が沢山ちりばめられている。
例えば家庭教師が入って来るにしても、「ニイハオ」とは入ってこない。まずノックして「タージャオラ(打撹了:お邪魔します)」と言って入って来る。「ニイハオ」と入って来る奴は、たいてい日本人だ。そして帰るときも「ツァイジェン」とは言わない。「ナァ、ウォーカオツーラ(那儿、我告辞了:おいとまします)」と言って帰ってゆく。
ボクが家庭教師の部屋へ行くときは「ニイハオ」、帰るときは「ツァイジェン」と挨拶する。
まあ、そうやって買物につれて行き、バトミントンの相手をしているうちに、この子供も段々上達していって、ホテルでボーリングなどしないようになった。それから中国象棋を買ってきて教えたり、軍人将棋を教えたりした。
武田のおばちゃんが「この子は月に30万も使う。何とか言ってやって!」というので、子供に「やっぱ、親のお金を当てにするようではよくないな。ところで子供の日本人学校は、中国語できる奴いる?」と聞く。
「2人ほどいる」と、子供。
「その子らは、外で買い物する?」
「いや、ホテルで買物するだけ」
どうやら子供のクラスメイトは、駐在員の子供ばかりで、家にはお手伝いさんがいて、その人が買い物して料理してくれて、完全に日本人社会ができているらしい。武田さんのところもお手伝いさんがいて、料理とか買い物、洗濯をしている。武田のおばちゃんは勉強ばかりしている。
どうやら日本人の子供の実態が判ってきた。
「じゃあ、外で買ってきたバトミントンとか、軍人将棋、中国象棋なんかを学校で売りつけたら?
そうすれば小遣い貰わなくても大丈夫。外の店で安く買う。それを学校でホテル並みの値段で売る。そうすれば小遣いを貰わなくて済むから、おかあさんに文句いわれることもない」
「でも欲しがるかなあ〜」
「それを使って遊んでいれば、周りの人も興味を示し、やってみたくなるから、欲しがったところで売りつければいい」と教えた。共産主義の国で、資本主義も教えないと帰国したときリハビリが必要になってしまう。
子供は、しばらくすると「結構売れたよ!でも中国象棋はダメだった」と報告してきた。やはりルールが複雑なのはダメらしい。
万里の長城
子供と遊んでいるうちに、子供はバトミントンが上手になってしまった。
ボクは最初に中国へ来たとき、何だか苦しかったので原因を考えた。ある本で、苦しい原因がYシャツが合わないためだったというのを読んで、自分もそうかと思い、荷物も届いてないのでTシャツを買いにいった。それまではスーツだった。同室もしばらくスーツばかり着ていた。そしてズボンも買うと82だという。おかしい76のはずなのに。しかし、それで楽になった。しかし、今一つシックリこない。翌日、また同じ露天に出かけてゆくと、今度は85だという。それを穿くと楽になった。昔は、語言学院と地質大学の間にある通りは、両側に大きな溝が掘れていた。溝を作る途中のように、赤土を幅50cmぐらい、深さ50cmぐらいの穴があり、ところどころに板が渡してあって、そこを通って両側の露天に行く。面倒なときは溝を跳び越していた。どうせ水など入っておらず、底も乾いた赤土だ。北京など滅多に雨が降らず、赤土剥き出しの地面には、水道で散水しなければ草も生えない。そこでパンダのT恤(Tシャツのこと。何となく恐い)と牛仔袴(Gパン)を買ったが、Gパンのほうはトイレでしゃがむと壊れてしまった。どうも糸やら金具が悪いらしい。ここの糸は繊維が短いので、すぐ切れてしまう。そこでポリエステルらしいズボンを買った。それはピッタリだった。胴まわり85のズボンは、不格好な逆三角形をしていた。
当初はバスに乗り遅れて一駅も走ると、息が切れて走れなかった。次の駅まで500mぐらいなのに。万里の長城も、険しいほうは4回ぐらい休まねば登れなかった。それはウエスト85だったから。張にパンダのT恤を見せたら、やはり浅野さんも日本人ですねという。なぜ?と聞くと、「中国人はパンダのTシャツなんか着ませんよ!日本人はハンダが好きだな〜」。そう、ボクのイメージでは、中国はパンダなのだ。「中国が攻めてくる」と言えば、パンダが大勢船に乗って、中国国旗を持って退去して押し寄せるイメージがある。そう、中国人はパンダなのだ。江沢民などは、パンダが人の皮を被っていて、誰か他の人が喋ってるだけじゃないかと思う。じゃあ、北京にいる人達は?
この人達は、たんに中国語を喋る東洋人にすぎない。
当時はサマータイムだったから、夕方6時に家庭教師を送って行くと、玄関先に子供が待っている。それからでも8時までは明るかった。最初は子供と2人でバトミントンするだけだったが、そのうち、その子供が兄さんと呼ぶ西原君、これも西原賢二という名前だが、そしてボク、そしてマラカス大尉の渡辺君と四人で、毎日のようにバトミントンをやるようになった。子供も最初は下手で、なかなかお荷物だったが、うまくなって体操の西原君にも負けなくなり、体力もついて身体が丈夫になり、武田さんの話では「おかげで、お金を遣わなくなった」という。これならば日本に帰ってイジメに遭っても、体力で跳ね返せるのではないかと思う。武田さんとの付き合いは、子供を通じての付き合いだった。
ボクのウエストも細くなり、ついには70cmになった。バスに乗り遅れても、一駅ぐらいなら走って追い越し、バスに乗れるようになったし、万里の長城にスイスイと登れて、頂上でも息一つ乱れなくなった。半年過ぎたとき西原君に、70cmのズボンを貰ったらピッタリだった。彼はウエストが細くなり、これからは子供用のズボンを買わなければならないと嘆いていた。どうやら日本人の男は中国へ行くと痩せ、女は太るらしい。
万里の長城は3回登った。最初の時は学校の遠足。うちの同室は、西直門から汽車で万里の長城へ登った。学校の西側に踏切があったが、石炭を積んだ汽車の速度はのろく、車両は長いので、なかなか踏切が開かなかった。
もう一人の知り合いと一緒に、汽車で万里の長城へ登るという。父親から貰ったという何十年も前のバカチョンカメラを取り出し、どうやって開けてフィルムを入れたらいいか悩んでいた。「貸してみろ」と言ってカメラを受け取り、ゴチャゴチャいじっていると偶然に開いた。「どうやって開けたんだ?」と同室が聞く。「ほら、これを引っ張ればいいんだ。フィルムは、ここへ入れる」と、ボクのバカチョンカメラと同じように入れた。後で知ったのだが、カメラはフィルムを挟んで1〜2回巻き取らねばならないらしい。同室は6時間ぐらい汽車に乗り、ふもとから歩いて万里の長城へ登ると、帰りは夜になっていたので一泊したらしい。喜んで現像に出したが、巻き取られていないフィルムは、当然何も写っていなかった。カメラ屋から帰ったとき、何も写っていなかったので恥ずかしかったと怒っていたが、所詮は自分でフィルムも入れられないので成功するはずもなく、いずれにせよ写ることはないだろう。
今度はボクが長城へ登る番だ。同室は、前の長城が相当に応えたらしい。学校が手配してくれたバスで長城へ登ることになった。バスではラジオが大音量でかかり、人工衛星の話とか、漢王朝を作ったときのNo2は劉邦に殺されてしまったとかの話をしていたが、外国人にラジオを聞かせても騒音になるだけで、全く何を言っているか判らないはずだ。そのうち長城に着いた。6年後に長城へ登ったときは、バスのガイドが「最近は農民が凶暴になっているので注意するように」と言っていた。何でも地面に唾を吐いた旅行者が、農民に罰金を要求され、それを払わなかったところ、農民に取り囲まれてどこかへ連れてゆかれ、行方不明になってしまったという話だ。後で知り合いの中国人に聞くと、中国では新婚旅行で奥さんが、しばしば行方不明になるという。恐らく売られてしまったのだろう。ハルピンに旅行したときでも、壁新聞に誘拐された女性が2千元で売られていたというニュースがあり、逃げられないように脚の骨を折られていたという。それを見ていたら連れの中国人姐ちゃんが引っ張って、壁新聞から離そうとしていた。
中国では一人っ子政策で、一人しか子供を作れないが、そうすると女を殺して男を残すので、必然的に農村は男ばかりになって嫁不足になる。そこで若い娘を連れてきて、嫁として売るという商売が成り立つ。日本人は言葉が通じないので、だまされる姐ちゃんもいないだろうが、もしかすると語学力堪能なために中国で子供を生んでる日本人もいるかもしれない。7年後に戯劇学院へ留学したとき、電気毛布を売っているところで「我々の電気毛布は絶対に感電いたしません。もし感電死したら2500元を支払います」と書いてあったので、中国では人の命は5万円が相場なのかなと思った。中国は220Vなので、感電死することが結構あるのだろう。中国では電気毛布は少なかったが、バトミントンのラケットに張ってあるような紐がよく売れていた。何をするものかと思ったら、そのコードを敷き毛布の裏へ波状に貼り付けて通電し、温めるものらしい。知り合いの中国人は、そのコードをベッドの下へ敷き、変圧器で電圧を落として「こうやって電圧を下げれば、もし万一コードが切れても死ぬことはない」と自慢していた。
学校のバスは、最初は十三陵ダムへ到着した。そこにはダムだけしかなかったが、半年後に行ったときは、ダムの外れにダム資料館があって、ダム建設当時の写真が残されていた。もちろん現在のような龍宮城はない。十三水庫に行ったのは94年が最後で、そのときは龍宮城ができていた。えらい込みようだった。
十三陵ダムへ行った後は、明の神路で停車する。そこには白い石で、動物やら文官、武官などが配置してある。子供などは、動物に乗っている。
そして明の地下宮殿。毛沢東の地下城もあるが、そこで各々、入場券を買うようにとのことだった。ボクは言葉が喋れるので、何人もの姐ちゃんに切符を買ってくれるように頼まれた。地下三階だが、かなり深い。そのときは行ったらしまいだったが、後で行ったら中国人の団体と出食わし、その説明を聞いていると結構面白かった。我々のときは説明もなく見て出るだけ。そして昼食。
いよいよ目的地の長城、これは日本で「万里の長城」と呼ぶが、「王李の長城」の間違いでないかと思う。中国では王さんと李さんが一番多い。だから王さんと李さんが作った長城という意味で「ワンリの長城」とついたのではないかと思う。
「左へ行くと急な長城、右へ行くとなだらかな長城です」との説明を受けて、急な長城へと向かった。ミネラルウォーターを買い、途中で4回も休んで水を飲みながら、ウエスト85のボクは登ったが、さすがに頂上は風が強くて気持ちがよかった。喜んでパチパチ写真を撮っていたが、そのうち不安になってきた。24枚撮りのフィルムがそろそろ尽きかけようとしている。それが尽きたときにどうなるのか?
すごく心配になってきた。そこで、そばにいる姐ちゃんに「あのー、このカメラ、フィルムが終わるとどうなるのでしょうか?」と聞く。「それだけのバカチョンカメラなら、自分で処理してくれるのじゃないでしょうか?」との答え。安心して撮り続けた。すると突然、カメラがジーと音をたて始めた。そしてレンズカバーをしようにも動かなくなってしまった。「アレレ!カメラ屋め!いい加減なカメラを売りつけやがったな!」
するとフィルムを出せと指示している。どうやら使い方はマスターしたが、それにしても焦らされた。このカメラは子供に貸したら、子供がナデ肩だったので天安門の石畳に落としてしまった。それからも接着剤でくっつけて使っていたが、どうやら2000年問題で潰れてしまった。
ボクは子供の名前を良く知らない。語言で日本人子供は彼一人だったから、子供とそのまま呼んでいた。子供は「おっちゃん」と呼ぶ。これが結果的には悪かった。後で日本へ帰ってから、この子供から手紙がきた。宛名は「日本・島根県・東出雲町−おっちゃん」となっていた。その時は、よく「おっちゃん」などという宛名で届いたものだと感心し、日本の郵便局の優秀さに感心したものだった。中国ではキチンと宛名を書いていても届かなかったりする。名字も名前も、番地すら書いてないのに届いた。でも、こんなことを続けていてはいけないと旅行で北京にきたときに、手紙を出すときは名前や番地を書かなければならないことを教学楼まで教えにいった。これを日本の中国語教室に持っていって、このような宛名で手紙がきたことを報告すると、みんなは中国人の子供から手紙がきたと勘違いして、「ああっ、漢字も使っている!中国の子供は、すごいな!」と感心していた。(さすがに老人倶楽部、見るところが違っている。漢字しか使わない国で、何で漢字が使ってあって驚くんだ。平仮名が混じっていることのほうが驚きだろう)と思いながら、「これは日本人の子供からきたんですよ。中国人の子供が、どうして平仮名混じりの日本語を書いて寄越すんですか?」というと、「いや、平仮名だけなら驚かないが、漢字も正確に使っているので驚いているんだ!」、何を言っているんだかサッパリ判らない。では中国の子供は平仮名を使って中国語を書いているってこと?どういう頭しているんだ。棺桶に頭、入り込んでいるんじゃないの?
こうした老人倶楽部だから、中国語教室は誰が死んだとか、すぐに湿っぽい話になってしまう。先生も「あの人達は、毎年同じ個所になると、毎年同じ質問をするんです」と嘆いていた。なるほど水戸黄門が流行るわけだ。
水戸黄門と遠山の金さんは、老人のための長寿番組だった。
天下の副将軍が旅をしていれば、すぐに噂になって城から迎えがくるはずだ。それが前の藩からの連絡もない。関所はどうやって通ったのだろう。関所で、天下の副将軍が越後の商人という偽造書類を提出したとき、なぜ引っ掛からないのかも不思議である。
こうして旅を続けているのだが、必ず45分ぐらいのところでチャンバラになる。そして「静まれ!静まれ!」の声。ふつうは刃物を振り回しあっているのだから、そこで静まっては切られてしまう。誰も命が惜しいから必死で切りあっている。ボクなら「静まれ!静まれ!」の声も耳に入らない。たぶん切り合いをしている相手しか見えてないだろう。
そして「エエイ!この紋所が目に入らぬか!」の声。それで侍は、切り合いをやめて大人しくなってしまう。
なんと恐るべき動態視力である。侍は、必死で動き回って切り合いをしながら、遠くにある手のひらサイズの印籠、しかもそれに描かれた直径3cmぐらいのゴチャゴチャした紋を葵マークだと認識し、本物と認めて切り合いを止めてしまう。恐らく、この時代には偽造などなかったと考えられる。だから偽造通行手形で、光国は関所を通り抜け、印籠でチャンバラを鎮めてしまう。今では、とてもこうは行かない。それだけの動態視力を持った侍が、このような町人が葵マークを持っているのはおかしいと考えれば、スケさんやカクさんは、すぐに切られてしまうだろう。
遠山の金さんは、遊び人の金さんと少し髷の形が違うだけなのに、なぜ桜吹雪を見せなければ遊び人の金さんだと認識できないのだろう。あれだけの人数がいて、一人も「あの奉行は、遊び人の金さんとソックリだぜ」などと言う奴はいない。
若い人には、この不合理さは耐えられないものだろうが、酸いも甘いも味わった老人達には、この不条理さは当然のこととして受け入れられている。その老人達に、ボクにきた手紙を見せても、「日本・島根県・東出雲町−おっちゃん」で届いた手紙は、何の疑問もなく受け入れられ、中国人の子供が平仮名を書くことを当り前のことのように受け入れている。自分もそうなってしまうのだろうか?
子供と遊ぶ
語言では、子供と一緒に出かけてゆき、ヒヨコを買ったりしていた。しばらくすると武田さんが「浅野君、あんた渡辺君の誕生日に招待されたでしょ!」という。されたよ、と答えると、「行くのやめなさいよ!だって招待されている人は、変な人ばかりよ。あれは誕生会ではなくて変人会なんだから」
「だけどもう約束しちゃったし、だいたい変な人とは、どういうこと?」と聞く。
「まず主催者が変でしょ」
思い返してみた。確かに変、気温が30度以上あるというのに、黒いフロックコートを着て、コウモリ傘を持っている。
「それに××という人。あの人は東大卒で、一流会社から派遣されて来ていて、一年に八百万も給料が出るというのに、このあいだ道端に落ちていたマンジュウ食べて腹壊したのよ!日本人で、そんな人いる?」
「まあ、でも約束しちゃったから」
何で子供の面倒を見ているボクが、このおばさんにあれこれ指図されなければならないか、いぶかしく思いながら、もしかして歩いていて糧票やら小銭やらをよく拾うので呼ばれたのかなとも考えた。
語言学院の部屋は二人部屋なのだが、ボクの部屋は深夜まで一人部屋だ。同室は王姫霞の女子寮へ出かけたっきり帰ってこない。王姫霞は、孫穎と同じく政法大学なのだが、孫穎は院生で、王姫霞は学生だ。ここから3kmばかり先にある。学生寮に通い詰めている御陰で、同室は随分言葉が聞き取れるようになったようだ。ボクは老人の喋る言葉など、何を言っているのかサッパリ判らないのだが、同室は理解できるらしい。来たときは、まだボクのほうがマシだったと思うが、目がハートマークになっている同室は、異常なスピードで会話が上達している。ボクは、上品な孫穎はどうも苦手だ。この履歴を見ながら、下品な声で笑い声を立てている嫁のほうが、まだ合っているかもしれない。それで同室は、王姫霞の寮へ行ってきたと自慢気に話すのだが、ボクは家庭教師の寮には誕生日に招待されるまで行かなかった。そもそも誕生日を聞いたら、小梅は簡単に教えてくれたのだが、孫穎はなかなか教えない。相性が悪いのかもしれない。同室は、夜になると帰ってきて、「今日は王姫霞の所へ行きましたがな。そうすると喜んでワンワンと言って寄ってきますわな〜」などと言っていた。目が中国人でハートマークになっている同室は、当然にして日本語を喋る相手はボクしかおらず、王姫霞に振られてからクラスメイトと交流し始めている。でも、あまりいい付き合いではなかった。一度だけうちの部屋に、同室のクラスメイトという姐ちゃんが尋ねてきた。
ドアがノックされたので、開けてみると見知らぬ女性が立っている。なんですかというと、「××さん居ますか?」と聞く。ベッドに寝ていた同室は、おもむろに起き上がり、「ああ、○○さんじゃあないですか!」
「ちょっと差し入れに来ました。これインスタントラーメンですが、期限が切れたのでどうぞ。××さんなら食べても大丈夫だと思って」
「それはすみませんね」と、同室はニコニコして喜んでいる。言われている意味、判ってるんかいな、この男。女性は、インスタントラーメンを置いてすぐ帰る。
「あげないよ〜だ!僕がもらったものだからね」、いるか!期限の切れたインスタントラーメンなど。食用油が酸化して過酸化脂質になり、脳梗塞が起きてしまう。
鍋に入れたラーメンをパクつく同室を見ていると、子供にも、イジメられても気が付かない鈍感さがあれば、中国になど来なくてよかったかも知れないと考える。
この男は、某商社にいたらしい。いや現在も在籍していて、わずかながら給料を貰っている。なんでも上司が「自分は高校しか出てないが、独学で、ここまで中国語ができるようになった」と言ったので、「それで、その程度なのですか!」と言って、中国にくるハメになったという。彼も来た時は、ある程度しか喋れなかったのだが、女の力で、恐ろしく上達した。
中国人の姐ちゃんは、一目惚れをすることが多い。それを一見鐘情という。どうも日本人にも一見鐘情があるらしく、どうやら渡辺君は孫穎に一見鐘情したらしい。彼は、清楚な感じが好きなようで、後で紹介された彼の婚約者も、清楚で上品そうな感じだった。
彼は、なかなかの美男子で、彼の同室のドラエモンと比較したら雲泥の差だった。まあ竹久夢二が描くような感じだから、線の細い美男子には違いない。だから日本人の姐ちゃんが一人、いつも彼に声かけていた。なぜか「食券買ってください」だった。ボクは孫穎よりも、彼が食券売りの少女と呼んでる姐ちゃんのほうが好みだったが、彼は相手にしない。
渡辺君は、みんなにレトロ君と呼ばれていた。フロックコートを羽織っていることもあるのだが、青っぽい着物に下駄を履いている姿もよく見る。また縦縞の羽織袴という格好の時もあった。
あるとき四人でバトミントンをしていた。通路の傍らが配管工事のため掘り返されていた。すると、羽を打とうとして、レトロ君が穴に落ちた。みんな心配して、穴に駆け寄った。穴の底で蹲まっているので心配すると、大丈夫だという。穴に落ちたとき、配管を胯いだという。捻挫もない。下駄で1m半ぐらいの穴に落ちて捻挫もしないとは、まことに運がいい。もし配管を踏んづけていれば足首の骨が折れていただろうし、配管がもっと上にあれば、彼は今頃、性転換をしていて、婚約者も男性を連れていたことだろう。危機一髪だった。
彼は本当に変わった服装をしている。男で着物なのはレトロ君だけ、女で着物なのは河野さんだけだ。あと女で空手着のやつがいた。その女は、ただひたすらに楊樹を殴りつけている。おかげで語言には、真っ直ぐな木というものが一本もなかった。
変人会
レトロ君の誕生会は、富士という昆侖ホテルの近くでおこなわれた。当時は周りが赤土の造成地だった。
その拾い食いの商社マン、レトロ君の同室のドラエモン、これは厚清に似ていた。そして孫穎とボク、なぜか武田のおばちゃんも来て喜んでいる。子供はいない。20人ぐらい来ていたようだが、何か一人ずつ出し物をやるという。
商社マンは尺八をやるという。ああっ、孫穎の前でそんな卑猥なことをされては、日本人の面目丸つぶれ。
だが心配する事もなく、取り出したのは竹の尺八だった。釣竿のように接いで使う。
高額な給料を貰っているのに拾い食いをする男、そして羽織袴のレトロ君、初対面なのに理不尽なことで怒鳴り散らす武田のおばちゃん、それから初対面の面々のでは、ドラエモンは正常人に見える。(なんだ。やはり変人会などではない。そもそもボクのような、しごく普通の人間が変人会などに呼ばれるはずがない)
のちにレトロ君の部屋へ行ったとき留守だったが、「まあ、お待ちなさい」と、頭に網を被ったレトロ君の同室であるドラエモンに呼び止められ、洋服ダンスから様々なものを取り出されて「これ買わない?」という。きたないセーターだった。「いらない」と返事すると、「このディスコ靴はどうですか?十元ですよ!」という。ちょうど底の薄い中国靴しかなかったので、その新品の靴を買った。代金の十元を払うと「ありがとうございます。まだ、いろいろあります」と言って、洋服ダンスから古着などガラクタを出してくる。そのときレトロ君が帰ってきた。するとドラエモンはガラクタをしまい始めた。この靴を買いました、というと、「また商売始めたのですか。いつも誰か来ると、売りつけるのです」とドラエモンにいう。するとドラエモンは申し訳なさそうな顔をした。どうやら商売を禁じられているらしい。その靴は足にぴったりで、気に入って中国にいるときだけでなく、日本でも履いていた。
ドラエモンは語言の五年生なので留学している期間が長い。留学生の知り合いも多いわけだ。留学生というのは帰国するとき、ほとんど手ぶらで帰る。自転車や変圧器、カセットコーダーなどを持って帰るというのは稀だ。そこでドラエモンは、帰国する留学生の所へ行っては、あれこれと不用品をもらって帰り、洋服ダンスに貯め込んでおいて、部屋に入り込んできた人達に売り捌いていたというわけだ。どう見てもネットを被った顔はドラエモンと呼ぶには程遠いが、洋服ダンスの中から、いろんなものを取り出すところから、そう呼ばれているのに違いなかった。レトロ君の「お小言」を聞きながら、ドラエモンはネットを被ったまま眠ってしまった。彼と会ったのは、この二回限りだった。あとで天安門騒ぎが終わり、彼が北京大学へ入学するときに出席日数で揉めたという噂を聞いたぐらいだった。なんでも南方なまりの中国語を喋るらしく、上海語や広東語も勉強していた。
こうした人々の誕生会の中で、正常人のボクと孫穎は二人だけで縮こまっていた。孫穎は日本語ができないので、隣で通訳してやらねばならない。レトロ君の誕生回では一人ずつ出し物をやるらしい。拾い食いの商社マンは尺八を吹くという。手ぶらで、何も持っていなさそうなので、どうするのかと思ったら、小さな袋から太い竹と細い竹を取り出した。それを釣り竿のように繋ぐと尺八ができるらしい。うまいのか下手なのか分からないが、何か音が出ていた。順々に回って、ついにこっちの番になった。出し物をするというのは聞かされていなかったので、「では中国語で歌を歌います」と言った。そして孫穎のために覚えた歌謡曲を披露したが、あとで孫穎に「意味判った?」と尋ねると、一部分は判ったという。そして孫穎はというと、中国語でレトロ君におめでとうの言葉を喋っただけだった。
中国人とばかり交際していたボクと同室は気付かなかったが、日本人の中では徐々に交流グループができつつあるらしい。最後まで同室は、王姫霞や張と付き合うだけで日本人とはほとんど付き合わなかったようだが、こうしてボクはレトロ君と武田のおばちゃんの組に入ることになった。
性転換
わがクラスでは、モロッコ人のハリラが悩んでいた。どうしたんだというと、「俺は本国では男だった。でも中国では女になっている」
目を疑った。エッ!彼は女だったのか! イモトといい、ハリラといい、どうみても男としか思えないのに女だったのか。でも変だな。本国では男だったと言ってたぞ。ということは、性転換!
「わかった。僕は、おまえが同性恋でも変態でも気にしない。わが国にもカルーセル麻紀というのがいる。本名は鉄男というそうだ」
しかしどうも話が通じない。そういう意味ではなかったのだ。
「何を勘違いしている。俺はハリルという名前なのに、ハリラでは女の名前だ!」
そうか、超人ハリルという悪人がいた。あれと同じ名前なのか。イスラム世界のように男女格差が激しい所では、男が女名になれば、かなりショックなことだろう。日本でいえば、鉄男が徹子になったようなものだ。つまりカルーセル麻紀が、黒柳徹子になったということで、かなりショックを受けるだろう。何とかして慰めねば。
「ハリラ。おまえの名前は、男だったものが女になってしまった。だが、それはまだいい。ハリルとハリラは関連性があるからだ。ボクを見てみろ。本国にいるときはアサノだった。だが中国にきたらチェンイェに変わった。おまえは男から女へと変わっただけだ。だがボクはどうだ。ハリラとハリルには関連性がある。だがアサノとチェンイェには、何の整合性もないっ!」
ハリラは、かなり衝撃を受けたようだ。驚いたような顔をして、ただ黙っていた。
次の日に教室へ行ったら、みんなが気の毒がってチェンイェとは呼ばず、アサノと呼んでくれた。どうやらハリラがクラスのみんなに話したらしい。ボクとしては外国へ行けば名前が変わるのは当然で、スッポンも中国へゆくと鼈、日本では亀と思われているが中国では鼈魚になってしまう。ちなみに日本では貝と思われているタコも、中国では章魚とか八腕魚とか魚類になってしまう。
いずれにせよハリラの悩みは、ボクという更に不幸な人間を知ったことによって消えたようだった。
我々の中医クラスは、やはり漢字がきつかったようで、最初は30人ぐらいいた生徒も、病気して帰国したり、気が狂ったりして、ハリラ、ルシオ、ボク、マリー、ヘリップ、そして上海中医へ行ったラテン男しか残らなかった。そのなかの泰人ウリシンは「さっさと中医学院へ行ってしまえ!」と言ったら中医学院へ行き、日本人は「中医学院では日本の鍼灸師免許を取れない」ことを告げると、日本の鍼灸学校へ入学してしまった。結局は、北京中医へ行ったのは、ボクとウリシン、ヘリップ、ハリラ、ルシオ、そしてマリーの六人男だけで、女は全滅した。そのうちボクに夏用の象牙ペニスサックをプレゼントすると言っていたマリーは、夜中に叫んで二階から飛び降り、どこかに走り去った。その同室は、判らない。どこへ行ったか判らないと言い続けていたが、翌朝、北京中医から何十キロも離れた北京大学で、倒れているマリーが発見された。夜中に真っ暗闇の中を、黒人の彼が走り続けたが自動車にも軋かれることがなかったようだ。当時はそれだけ車が少なかった。
見つかったマリーは、ほとんど口を利かなくなり、動作も鈍くなって、ボクのことが判っているのかどうだか判然としない。あとでも中国人の同級生でも、気が狂ってしまった女の子がいた。
最初から漢字を知っており、自分の故郷と変わらないように感じられるボクは、彼らのようなストレスを感じたくともできないのかもしれない。またボクも、この語言生活でささやかな幸せを見いだしていた。
馮艶
大和君はボクを見習って、自分も家庭教師を雇うことにした。どうやって捜してきたのかしらないが、同じ語言の女学生を家庭教師にしていた。現在は奥さんの馮艶だ。
その馮艶は語言に5年間もいたので、いろいろと穴場を知っていた。正門横の信号機へ出る、細い裏通りの道にある四川ソバ店を教えてくれたのが彼女である。
その四川ソバ店は一見ふつうの民家だが、横に人が一人通れるぐらいの入口があり、そこに水道がついている。何か怪しげだから訪れたことがなかったのだが、そこではソバを出す。茹でたソバが擦り鉢状の碗に盛られ、それがワイングラスのように積み上げられている。そこに客が並び、まず碗のソバ代が決まっている。一元ぐらいだったか。そしてソバの上に、ガラス小屋の向こうに並んだ洗面器の中に入っている具をかけてもらうのだ。物によって値段が違うが、マーボー豆腐をかけてもらって0.4元、キュウリのトウガラシ漬けで0.2元だったと思う。
中国人はホウロウの鍋を持ってゆき、ソバをと具を入れてもらうのが普通だったが、日本人は外食するのに容器まで持って歩かない。そこには中庭と縁台、そして机があり、いくつか風呂にある椅子のようなものが置いてある。ボクと大和君は、その縁台のほうに腰掛けてソバを食べていた。するとミニスカの女性が入ってきた。中国ではミニスカは若い女性しかはかない。するとミニスカの女性二人は、その風呂椅子のようなものに腰掛けて食べ始める。あぁ、なんちゅうエエ食堂だ。中国女性は、悪辣な日本の女性のようにハンドバックで前を覆い隠すこともなく、堂々とオープンにして食べている。なるほど中国とは住みやすいところだ。そのソバ屋は、昼だけしか食べにいったことはないので、夕方もやっているかは知らない。夕方は光線の加減でミニスカが暗くなり、よく見えないのだ。
こうして馮艶のおかげで、我々は日本人の知らない穴場を発見した。
もちろん大勢の中国人が食べに来るのは、安くておいしいからなのだが、こうした+αもある。
あとでイモトだけに、この穴場を教えてやったら大喜び。そのあとイモトは日本からの旅行者を、そこへ昼食に連れていったところ、2人とも中国にはこんなエエ食堂があったのかと下唇を噛み、泣いて感激していたらしい。六畳ほどの中庭には大きな楊の木があった食堂は、1993年頃にはなくなってしまっていた。
88年の北京
今は昔と、多くのものが変わってしまった。道路は舗装され、黒土の見える道などなくなってしまった。語言の周囲にあった「知識青年の店」など、ドラエモンなどの漫画本を売っていた店など、1995年には取り壊され、瓦礫になってしまった。十三庫ダムなどは、底に竜宮城ができてしまっている。万里の長城も、死体博物館がなくなり、鉄道博物館しかない。
語言には短期留学生も来ていた。短期留学生といっても旅行しに来ているような人達だ。彼らは我々と違って、いろいろな観光地へ、毎土曜日になると連れていってもらえる。当時の京劇場は、王府井の金魚横町(金魚胡同)にあった。現在は、王府飯店などがあるが、昔は30×60pぐらいの小さな白い看板灯がある、なんとなく安宿のような建物だった。金魚横町は幅2メートルぐらいの黒土の見える小道で、昼間に行ってみたら、そんなところにどうやってバスが入ったのか不思議なぐらいだった。たしか近くで降りて歩かされたと思う。中式服装を作る店の手前に、京劇をやる店があった。そのあと1989年には、金魚横町と王府井から東四へ向かう道の間にある家が壊され、広い金魚横町となって、京劇をやっていた店は、和平門の虎坊橋へ移ってしまった。そして四角い旅館のような店が、大きな二階建ての円形建物に変貌していた。ちょっと、その場所は、あまり覚えてないが、道路の西側にあった。金魚横町にあったときは、横町の南側にあった。
この間口が狭い建物は、ちょっと見ると中国の守衛室のようだが、なかなか奥が広くて、映画館のようになっている。京劇は、歌舞伎のように字幕が横に映し出される。幻灯機を使っているようだ。発音が特殊で、判らないから文字で表示しているようだ。なるほど、喋っていることは文語体で、普通の話し言葉と違っている。この京劇場には何回か来たが、ミュージカルをやっていたときの方がおもしろかった。戯劇にいたとき、日大芸術学部の学生が、能を見せていたが、やはり若い戯劇の学生は退屈そうだった。
このような小道は、現在は鼓楼にしか残ってないのではないかと思う。あそこには幅40cmぐらいになった道があり、よく鼓楼の新華書店へ、戯劇から本を買いに行ったものだ。前の北海公園道路は、1998年頃に拡張されて広くなった。まったく最初に来たときは、満州時代の北京と大差がないと思っていたのに、エライ変わり様だ。
信じられないことだが、昔の王府井は人通りが少なかった。真ん中をバスが通っているので、みんな百貨大楼で降りてしまう。そして帰るときもバスで帰るので、百貨大楼の前にしか人がいなかった。そこから当時は三階建ての王府井新華書店へ歩いて行く。一階がミュージックテープ、三階が医学書籍を売っていた。四階が屋上で、その片隅に小さな小屋があり、そこで半額の書籍を売っていた。だがそこは週に一回、土曜日にしか開けてなかった。
何から何まで変わってしまった。そもそも信じられないことだが、語言の正門には、門の外の敷地に、平屋の旅館があったのだ。まあ正門の外の石畳は広いので、煉瓦にコンクリートを塗った旅館があっても不思議はないのだが、たぶん中国人のための招待所だろう。のちに壊されて、建物のあった場所だけが、幅2メートル、長さ10メートルぐらいに渡って色が変わっていた。
正門の北側に見える、金色の丸い寺の屋根だけは変わらない。前の石油化学大学にあった、白い毛沢東の大理石像も現在は消えてしまっている。そういえば、語言学院にも毛沢東の大理石像があったような気がする。
香山
秋は、中国では旅行の季節だ。長城だけでなく、香山や石花洞などへも連れていってくれる。季節が夏から秋に変わった。北京は急激に寒くなる。昨日まで半袖のTシャツで暑かったのが、一晩明けたらセーターが必要になる。前に十月に旅行して、北海で女子大生の姐ちゃんと知り合い、そのホテルが安いから越してこいと言われて行った。その姐ちゃんと、一緒に食事したところ「初めて、まともな食事にありついた」という。どうやら露天で売っている物を指さして、それしか口にできなかったらしい。当然にして法外な料金を払ったことだろう。日本人旅行客を見てると、いくらか聞かずに、料金を払う段になって札束を差し出す。そこから必要なだけ取れということらしい。札束を見せられたら、ビックリするわなぁ。中国のような危険な場所で、考えられない支払方をしてくれる。強盗集団に狙われたら、どないするんや。中国では、サイフは首にかけて、10元以下のお金だけをポケットに入れてください。そして価格ぐらいは聞き取れるようになって、ちゃんと自分で支払えるようになってから旅行してください。それと中国では、年頃の姐ちゃんが誘拐されて売られるなどは、日常茶飯事なので、この姐ちゃんのように一人旅するのは、くれぐれも止めてください。けっきょくTシャツ一枚で日本から来た姐ちゃんに、セーターなどをやって帰ることにした。もうそろそろ日本へ帰ったろうと、この女子大生に電話をしてみたが、誰も出なかったので、もしかすると中国で取られたかも知れない。
十月になると、なぜか、その姐ちゃんのことを思いだしてしまう。もっとも中国で取られるのは、日本人女性ではなくて、中国人女性なのだが。知り合いの中国人が、新婚旅行でチョット目を離した隙にいなくなったとか、枚挙にいとまがない。
まあ、とにかく香山だ。この発音は、日本人には難しい。あるとき家庭教師の孫穎が、赤い葉っぱの入ったプラスチックカードをくれた。葉っぱの横には、墨でなにやら文字が書いてある。うちの同室も、孫穎からカードをもらった。そのカードを教科書に挟んでおいた。すると北京大学の暁梅がそれを見つけ、それはどうしたと聞く。もう一人の家庭教師からもらったというと、それは恋文だという。これを聞いて、同室の耳がピーンと立った。すぐに暁梅ににじり寄ると、それはどういう意味だと聞く。
暁梅は、十月になると、女の子は紅葉を取って、それに恋文を書いて、恋人に渡すのだという。その紅葉は、大きければ大きいほどがいいと言う。それで指で輪っこを作って見せ、「じゃあ、こんな大きな葉っぱならば、相当な恋文なんだ」と聞くと、「そうだそうだ」と答え、暁梅は、頭の上に、手で丸を作り、「こんなデカイ紅葉なら、なおいい」という。「じゃあ、紅葉をもらった人は、どうすればいいんだ?」と聞くと、自分も紅葉に、返事を墨で書いて送るという。「何で紅葉なんだ?」と聞くと、「赤は血の色、だから紅葉は、自分の心臓を表す」という。つまり自分のハートを送りますという意味らしい。それを聞くと、我々は暁梅を取り囲んで興奮した。
そこで我々は、語言のなかで紅葉を捜し始めた。なにかヤツデの葉っぱのようなものが紅葉している。それをむしり取ると、次に来た暁梅に、こんな葉っぱではどうだと聞く。すると、これは紅葉ではないという。それは赤ではなく、茶色だという。そんな物では、女の子のハートは掴めない。という。けっこう難しい物だ。そこで孫穎へ渡すための大きな紅葉を捜し始めた。すると香山への旅行が入った。
実は、ボクは紅葉を知らなかった。日本ではモミジを紅葉とするが、中国のモミジは草である。唐山にいっぱい生えていた。それに紅葉もしない。ところが中国の紅葉とは、モミジではなくて、直径十pぐらいの丸い葉っぱだった。ボクは、そんなこととは知らないから、赤い葉っぱなら何でもいいと思っていたのだが、同室は知っていたようで、暁梅が頭の上で輪っこを作って見せたとき、「そんな大きな紅葉なんて、あるわけないじゃないか」と言っていた。香山は、その紅葉の名所らしい。そこへ学校が連れていってくれるらしい。
香山に着いた。バスに乗って、かなり遠い。北京の大学生は、自転車で行くらしい。そういえば孫穎が、香山へ行くから自転車で来ないかと聞いてきた。そのときは自転車を持ってなかったので取りやめにしたが、数日もしないうちに学校が連れていってくれるた。
香山に着いたが、紅葉は山の上にある。頂上に登るのは大変そうなので、リフトを使って登ることにする。池の周りでは女子大生らしき連中が大勢集まって、竹竿らしきものを使って、池に落ちた紅葉を引き寄せている。リフトに乗ると、池周囲の様子がよく見える。リフトはスキー場などに、よくあるやつだ。すると突然、女子大生の中に、一人の男が現れた。女から竹竿を奪うと、必死になって池を掻き回し始めた。当然にして総スカンをくっている。うちの同室だ。自分の家庭教師に紅葉を送るため、必死になって池を掻き回している。そのうち同室は、リフトが上へ登るにしたがって、木の陰になって見えなくなってしまった。
頂上は、紅葉と松の木が生えている。こちらの松は、五彩松といって、松の葉っぱはしているが、五葉松のように肌が荒れない。シラカバのように幹が剥けて、剥けた部分が白くなっている。古く剥けた部分は黒い。紅葉は、太陽が当たって、下から見上げると赤いステンドグラスのようだ。みんなが松の陰や、紅葉の陰に新聞を敷き、休んでいる。
黒人のルシオと一緒に歩いていると、望遠鏡を持ったオッサンが、これを覗かないかと呼び止めた。金を取られるに決まっている。ルシオは、その望遠鏡を覗いて、頂上から様々なものを見ている。北京大学の給水塔が見える。五重塔のような格好をしている。肉眼でも見える。へんなコンクリートの建物も見える。するとルシオが、おまえも見ろという。別に望遠鏡を覗きたくもないので、5秒ぐらい覗いた。そしてオッサンが、もういいか?と聞いてくる。ルシオが「もう十分だ。じゃあいくぜ」という。当然にしてオッサンは、金を払えと言ってくる。ルシオは払わない。突然にしてフランス語を喋り始める。このケンカを聞きつけて、周りの中国人が集まってくる。オッサンは、「こいつは、望遠鏡を覗いておいて、金を払わない」という。みんなが、こいつは言葉を喋らないじゃないかという。ルシオは、依然としてフランス語しか喋らない。オッサンは、「こいつは、たったさっきまでは流暢な中国語を喋っていたんだ。だけど金を払えと言ったとたん、ワケの分からぬことを喋りだしたんだ」という。フランス語しか喋らないルシオと、中国語しか解らないオッサンがケンカしてもしょうがない。なにしろルシオは、9カ国語を喋る。ボクが、中国語の古文は、日本語と似ているから意味が判ると言ったら、古代中国語で話しかけてきた男だ。漢字の読み方も古代発音なので、何を言っているかサッパリ解らない。
こうして話にならないケンカをしているうちに、何だ、この黒人は中国人を連れているぞ。彼が仲間なんだから、そっちと話を付けろと、周囲の中国人が言い始めた。それでオッサンは、「お前は、人の望遠鏡を覗いておきながら、金を払わない。ひどい奴だ」と言い始めた。こっちに飛び火してきたが、日本語でまくしたてるわけにもゆかないので、「ボクは中国人ではない。外国人だ。彼は、ただ望遠鏡を覗いてみろとと言っただけで、金がいるとは思わなかった。彼が最初に、覗くなら金を払ってくれと言えば、我々は覗かないだろう。見ろ、見ろ、と言われて、見たあとで金を請求されるなんて、思ってもみないことだった」と言い返した。すると周りの中国人が、「最初に金を払えと言っていれば良かったのに」と言って、帰りだした。これで収まるかと思ったら、ルシオが「浅野、オッサンに金を払ってヤレや」という。そこで料金を払うと、オッサンは金を投げ返してきた。たぶんルシオの悪ふざけだろう。悪い奴だ。ちなみに、こいつの発音は、現地人並にいい。どんな舌をしているのだろうと思って、舌を見せてみろというと、三角に尖った、うすい舌だった。まるで蛇の舌のようだった。なるほど、こんな厚さが3oしかないような舌なら、よく動くわけだ。我々のように1cmはあろうかという舌では、なかなか上手な発音が難しい。
頂上では、タイ人のウリシンがタバコを吸った。すると警察に連れてゆかれた。建物の外で待っていると、説教されてウリシンが出てきた。罰金払わされたという。
登るほうはリフトを使ったが、降りるときは歩いて階段を下りた。足がガクガクした。途中で、同級生のカルロスに逢った。「もう時間だぞ」と声をかけたが、そこでギターを弾いて歌っており、いっこうに降りる気配がない。しかたがない。置いて行くことにした。やっぱりラテンの男というのは、どうしようもないアホだ。このときに「ラテン男は、アホである」という固定概念ができた。
下へ降りると学校のバスが待っていた。まだ少し時間があるので、そこにあった商店へ入ってみる。日本製の毛玉取り機があった。電池を入れて使うやつだ。日本製なので、珍しいからイロイロと聞いてみる。「これは何だ?」。男が、ひげ剃りだと答える。ビックリした。「いくら?」。日本製だ。24元。
すると近くにいた別の店員が、その男の言うことはデタラメだ。そんなもので髭を剃ったら、顔中が血だらけになる。「ボクは、日本人だから、この説明文を読めば判る」と答えた。その店で、孫穎がくれたような紅葉カードを買い、覗いてカチャカチャやると景色が変わるスライド写真のようなものを買った。羽ばたき式飛行機も売っていた。
バスに帰ってみると、先生がカルロスがいないという。だれかが「山の中腹で、歌ってました」と答える。「しょうがないな。置いてゆくか」と先生。ちょっと待って!ここって、そういう国だったの? 先生が合図をすると、すぐにバスが発車した。
買ってきた紅葉を家庭教師の孫穎は受け取らなかった。 これは変だと思って孫穎に、「これは、愛しているという意味なの?」と聞いたら、そういう意味ではありません。親しい人に送るのですと答えたから、紅葉騒ぎは終わりになった。しかし、同室は、そうはいかない。自分の家庭教師である王姫霞に、どうやら紅葉を送るようだ。
帰ってしばらくすると、同室も帰ってきた。「きょうは香山へ行って来ましたで」。(知ってる。池の周りで見たから)と思う。
「池の周りでは、紅葉を拾おうとして女子大生達が、必死で葉っぱを集めてましたわ」。(女子大生じゃなくて、あんたやろ)
「でも、さすがに山から下りたときは、途中で膝が笑いましたでぇ」。(ボクも一緒じゃ)
「これで王姫霞も、ワンワン言って、来ますわなぁ」。(孫穎から葉っぱ貰ったボクが、そういう意味じゃないと言ったのに、王姫霞から葉っぱも貰わないアンタが、そんなわけないだろ)
「羨ましい? 羨ましいやろーなぁ」。(こっちは置き去りにされたカルロスが心配で、それどころじゃない)
こうして同室は、一方的に幻想を喋り始めると、家庭教師に紅葉を渡すため、政法大学へ行ってしまった。
カルロスは、翌日の授業に出ていた。どうしたかと聞くと、路線バスで帰ったそうな。
刃
北京の十月は霧が多い。ボクはカラオケなど好きじゃないのだが、元商社マンの同室はカラオケが好きだ。友誼賓館に、安いカラオケバーがあるそうだ。しつこく誘われるので、何回かに一度は行かなければならない。同室は、とくに友達もいないようなので、ボクと一緒にカラオケなどに行きたがる。タクシー代を出して貰うためだ。今でこそタクシー運転手の給料は大したことないが、当時の車がない社会では、タクシーの運ちゃんは一般人の十倍ほど給料を貰っていた。カラオケ冨士で、同室がウサを晴らしたあと一緒に帰る。どうやら中国では、冨士が日本のイメージらしい。日本では、パンダが中国のイメージだ。
1980年代の車が少ない社会では、タクシーに乗ると、無人の道を行くようだ。当時では、タクシーは捕まえるものではなかった。滅多に走っていない。タクシーがいるのは、語言学院とか、北京飯店のような一流ホテルに限られていた。あとはタクシー会社か。こうした外国人の集まるところしか、タクシーがなかったので、道路にはバスかタクシー、それと糞を落としながら歩く荷馬車、石炭やスイカ、白菜を積んでくるトラックぐらいしか目にすることがなかった。秋は、冬になると寒いので、日が落ちると道を歩く人すらなかった。
この日は、夜霧がひどかった。行きはよかったが、帰りが進まない。本当に1メートル先も見えない。我々は、学校が閉まって、部屋に帰れなくなることを恐れ、タクシーの運ちゃんをせかすが、こんな霧じゃあ走れないと、本当に歩くような速さでしか進まない。周りじゅうが真っ白で、道を走っているのかどうかも解らない。やっと語言についた。当然にして真っ暗。語言は、少し霧が晴れていた。池や川の近くで、霧が発生するようだ。道中が長いが、同室は運転手と話し、中国語で罵る言葉とか、卑わいな言葉を習っている。ついには1時を回ってしまった。校内には入れたが、まずは同室が立ちションを一発。ここでやらせておかないと、廊下でされたら困る。そして霧の中を進む。大楼の門は閉じていた。しかたがない。裏に回って、誰かを起こし、門を開けて貰おう。ところが深夜だから、誰も起きてない。いろいろと見て回っていると、西楼の一階裏中央に、赤いパイロットランプが点灯した部屋がある。窓を押すと鍵がかかってない。ここなら入れると、そこから入った。部屋の中央には、大きなボイラーのような円筒形の機械があり、ブーンと振動音を出している。どうやら巨大な変圧器のようだ。感電しないように、できるだけ機械から離れ、部屋の端を通ってドアを開け、何とか自分の部屋へ戻った。
この事件があってから、ボクはタクシーでカラオケに行くことを拒否するようになった。同室も、ボクを誘わなくなった。張など中国人と行くようになったようだ。
この同室は、最初から同室だったわけではない。それぞれ別の相手と住んでいたが、来てから一週間で、うちの同室が部屋を替わってくれと言い、ボクが移動することになったのだ。だから語言では、同室が三人いる。そして、この人が一番印象が強かった。最初から互いに言葉を知っているので、割と便利だった。解らなくても、どっちかが聞き取るというぐあいだったからだ。
最初に、学校の食事がまずいので、外へ食べに行ったときも、この男と一緒だった。学校の門を入ってすぐ、仕立屋、売店、肉まん売りの食堂と並んでいる。その食堂へ三人で食べに行った。すると肉まん売りの黒板に、刃という文字が書いてある。見たことがない。前に数字がついているから、たぶん量を表すのだろう。店の人に、これは何だと尋ねる。リャンだと答える。今ならば、それはレンと読み、両の略字として使っていると知っているが、当時は来たばかりで、何か解らない。そんなワケの分からない単位で買い物するより、斤で買おうとなった。すると同室が、一人一斤だな。だから三人で、三斤あればいいだろうという。我々は、重量でパンを買う習慣がないから、それがどんな量なのか解らない。じゃあ、三斤ということで、どうやって買うか聞く。すると、そこで切符を買えという。窓口のオッサンに、包子を三斤という。オッサンは、「ほっ、食べきれるのか?」と聞く。我々は三人だから、一人一斤ずつで食べきれると答えた。変なことを聞くと思って、同室に「オッサンが食べきれるかと言っていた」と告げた。それで、切符を三枚ほどオバさんに渡そうとすると、同室が二枚の切符をサッと取り上げた。結局、一枚しか渡してない。そして一斤分の包子が出てきた。黒酢を着けて食べるが、けっこううまかった。あとの二枚は、どうするというと、同室が「オッサンが食べきれるかと言っただろう。だから三枚出したら、アホと思われるだろう。こうして一枚だけ出しておけば、恥ずかしくない」という。なるほど一理ある。だけど切符を売った時点で、料理を作り始めている。あとの二斤の包子は、今か今かと切符と引き替えに来る人を待っていることだろう。
日本では一人前いくらで、大盛りとかレディースとなっているが、中国では自分で量を指定する。そのときは自分が一回に何グラム食べられるか判らなかったが、後になって判るようになった。一刃は一両のことで、一両は50gになる。だから我々は一人一斤頼んだのだから、500gずつ頼んだことになる。三人で1キロ半。インスタントラーメンが一袋80gぐらいだから、2両弱。つまり一人一斤という量は、一人でインスタントラーメンが六袋分というわけだ。
のちに少し食べたいなと思ったときが2両、普通が3両、かなり空腹だと感じたときが半斤の5両で、一斤など食えそうにないと知った。たぶんハルピン人なら食べ切れるだろう。我々は一斤で三両ずつだったから、三人でちょうど良かった。
そこの包子がおいしかったので、たびたび注文し、ビニール袋へ入れて、夜になったら宿舎へ持ち帰るようになった。学校の食堂は六時で閉まってしまうし、外の朝鮮料理屋は七時までだ。だから、ここの包子屋をけっこう利用することになる。
留学生活
わがクラスは、日本人がボクだけ。実は、もう一人いたけれど、中国では日本の鍼灸師の資格が取れないことと、十月から鍼灸学校の入試が始まることを伝えたら、九月の授業が始まった早々、日本へ帰ってしまった。あとで偶然に語言であったのだが、そのときは旅行に来ていただけで、もう鍼灸学校の学生になっていた。今のように鍼灸学校の予備校まである時代ではない。誰だって簡単に入れた。というわけで我がクラスは、白人やラテンの姐ちゃんだけ。東洋人は誰もいない。ウリシンというタイのおっさんがいるだけ。それも華僑だから、それだけ中国語がしゃべれたら、語言などにいないで中医へ行ったら?と勧めたら、本当にサッサと中医へ行ってしまった。そしてボクに、お前もそんなところで時間を潰してないで、サッサと中医に移れという。ボクは華僑ではないので、そんなに言葉ができない。
向いのクラスは、清華大学へ行くクラスで、ほとんどが黒人の兄ちゃんだが、一人だけ若い東洋人の女性が混じっていた。アメリカの華僑らしい。そこで「向こうへ移りたい」というと、あれは科学用語を学ぶクラスで、科学関係は簡単だから一年、中医は言葉が難しいから二年コースまであるという。仕方なくあきらめた。ボクは二年クラスに入っているとはいえ、テープやラジオ、テレビや本で勉強したクチだから、漢字を書かれると判るのだが、タダ発音を聞いてもピンとこない。バスで喋っている人たちの会話が聞き取れるようになったのは、一年半後だった。
同室がカラオケに行き、深夜に帰ってくる状況では、なかなか6時から7時にあるという朝食にありつけない。授業に行く直前に起きるからだ。それに秋冬の北京は寒い。それでもサマータイムというのがあって、冬には一時間遅らせて事業を始めるので、まだ救われる。現在の中国ではサマータイムがないので、夏でも時計を遅らせねばならない。当時の夏時間は、日本と時差がないので楽だった。95年に留学したときには、サマータイムがなくなっていたが。このサマータイムは、夏から秋に変わるときは楽だ。10月頃から授業が一時間ほど遅れるからだ。しかし4月が辛い。授業が一時間早まり、寒いのに起きなければならないのは、非常に辛い。しばらくは身体が慣れない。サマータイムが終わるとき天国で、サマータイムが始まるときは地獄だ。
朝食が食べられないから、一時間目が終わると、校舎の前にある宝くじ売場のような売店は、バーゲンセールのワゴンと化する。みんながピラニアのように殺到する。それをかき分けて、麻花を買う。これはパンのようなものだが、カリントウのような固さを併せ持つ。けっこう茶色なパンに、ゴマをまぶしてあった。それしか売ってなかったように思う。何でも天津の名産らしい。長さ20p、太さ2cmぐらいで、真ん中がひねってある。これを二つ三つ食べて、二時間目の授業に出る。下手をすると並ぶ時間で休み時間が潰れ、並んで買えないまま教室へ戻ることになる。そのときは売店に並ばず、ちゃんと休み時間を楽しんどくんだったと後悔する。買い手は多いが、売店は宝くじ売場の箱一つ、その一人だけいるオバちゃんに、何百人もの生徒が殺到するので、当然にして十分の休憩時間内には、買えないやつも出てくる。教室へ帰って、悔し涙にくれる日々もままあった。
こうして午前中は確実に授業があり、午後には授業がないときもある。そして11時半ごろに授業が終わって、2時から再び授業が始まる。午後は一時限なので、だいたい90分だ。普通の学生ならば、金を払っているから時間いっぱい授業をしてくれとなるのだが、ここでは食堂のオカズが売り切れる関係で、11時半には授業を終えないと、生徒達がブウブウ言う。だから9時から10時半、10時半から12時までだと思う。もしかすると休憩時間があるから8時半に授業が始まったかも知れない。そして中国人が学生を訪ねて来られるのは夕方4時からで、夜の10時までにサインを貰って帰らねばならない。外国人の宿舎は厳しい。
そして我々は毎日、若い中国人女性が家庭教師にやってくるので、お茶とお菓子を用意しておかねばならない。宿舎に給湯機が付いていたが、最初はそれを知らなかったので、どうやって湯を湧かしたものか迷ってしまった。魔法瓶は支給されている。同室は、2000ワットの電熱器を買ってきた。それと鍋。ボクは、ぶっこみ式湯沸かし器を買ってきた。これは10cmぐらいの長さで、先がバネのように巻いている。豆電球のガラスがないやつと言えば、お判りだろう。これでは不便なので、魔法瓶へ入れる、ぶっこみ式湯沸かし器を買ってきた。5元ぐらいだったと思う。湯呑みへ入れるやつより長い。
これを使うのが大変だった。まず魔法瓶に水を入れ、それにブッコミ式湯沸かし器を入れる。そしてコンセントを挿す。湯が沸いたらコンセントを抜いて、湯沸かし器を取り出す。この順序でやれば、問題はない。正しい使用方法だ。しかし説明書も何も付いてない。ただ裸で売られているだけだ。
うちの同室は、コンセントに挿しこんでから湯沸かし器を水へ入れ、沸騰したら湯沸かし器を取り出してからコンセントを抜いていた。当然にして感電する。同室は、いつも「アッ」と声を上げる。どうしたと聞くと「ビリビリッとした」と答える。学習能力のない男だ。結局、湯沸かし器は、この男がコンセントに差し込んだまま引き上げ、熱で焼き切れてしまい、感電するような危険物を買うのはよそうということになり、給湯機があることも発見した我々は、ぶっこみ式湯沸かし器を使わなくなった。もう一つの湯沸かし器は、この男が電気治療器として使用しているようだ。痺れかたが、銭湯によくある電気風呂と似ているらしい。使い方を間違っている。
武田のおばちゃん登場
子供を遊んでやりに行くと、武田のおばちゃんが「漢詩をやりたいけど、授業でやらない」と嘆いていた。そこで「うちのクラスは、漢詩があるよ」というと、「それは、ぜひ出席したい」という。そこで我々の教室に案内した。ちょうど緑色の本が終わり、黄土色の『高級漢語』という本に替わったが、最初に漢詩が載っていたので、漢詩の本と勘違いしたのだ。どうせ中医クラスは、中医漢語と古文のほかは、どうでもいい。この本だって、どこが高級なんだ。最初のページは、詩人の話だから、当然にして漢詩が載っている。教室へ行くと、次々と同級生がやってきた。みんなが「一緒に連れているのは、誰だ?」と聞く。これは日本人で、我々の授業が受けたいというから連れてきたというと、みんなが挨拶する。当然にして、その挨拶は、ボクが教えたビートタケシの「コマネチ」や、口を開けて中を見せるといった類のものだ。みんなは武田さんを見ると、さっそく「コマネチ」と発しながら股間を手で擦り、トコトコと近くに寄ってくると、顔を近づけてクチをあんぐり開け、口の中を見せる。
それを見て、武田さんの血相が変わった。
「なによ!これっ!」
「いや。みんなが日本式の挨拶を教えろと言うので、コマネチ教えちゃった」と、ボク。
「みなさん。これはデタラメです。そんなのは日本式の挨拶なんかじゃありませんっ!この人の言うことはデタラメですっ」
みんなも「そうか、変だと思った。浅野が嘘をつくとは思わなかったので、つい信じ込んでしまった」などと言っていた。
みんなは日本に興味があるらしく、デタラメを教えるボクより、武田のオバちゃんを取り囲んで質問し始める。武田のおばちゃんは、中国語は今一つなのだが、英語とフランス語を喋るので、コミニュケーションには事欠かない。
そのうちに現代中国語の先生がやってきた。新入りが取り囲まれているのを見て、何だろうといぶかる。本人が
「私は、ここで漢詩の授業をやると浅野に聞いて、やって来ました」という。
すると先生が、喜んで「じゃあ、ここで授業を受けなさい」
どうやら武田さんは、ここが気に入って、漢詩は、その一課だけだったのに関わらず、ずーっと居着いてしまうことになった。日本の権威として、ボクは非常に居心地が悪い。武田さんは、東洋人がボク以外に一人もいない環境が気に入ったらしく、同級生と意味不明な言語で、オシャベリしている。
どうしてこうなったか。あとでイモトから聞いたのだが、中国語の三系クラスでは、日本人と黒人ばかりで、あまり授業に出ないようだ。授業は三人ぐらい出るらしい。最初は40人ぐらいいるのだが、発音が始まるとサボリ始め、次に出るときは難しくなっているので、誰も出なくなるという。難しいといっても、簡単な教科書だ。そういえば船で帰るとき、日本人の薬剤師に会って、「あなた、中国語がしゃべれるの?」と言われ、「いえ、あまり」と答えたら、エラク馬鹿にされて、相手にされなくなってしまった。
しゃべれないといっても、言っていることは、ほとんど判るし、発音が悪くて、日本人と見破られるだけだわいと思った。そもそも留学していて、喋れないし、聞き取れないなどということが、あるわけないだろう。
ところが言葉専門のクラスに入っていると、そうしたことが珍しくないようだ。黒人も日本人も、点数が取れなくて、落第するのが多いという。落第ならよいが、退学するしかないという。見込みがないからだ。
言葉クラスの連中を観察すると、黒人達は、昼間っから西門の売店でビールを買い、路傍にある大理石の椅子に腰掛けて、中国語で卑わいな話をしながらたむろしている。日本人は、昼間は寝ていて、夜はカラオケ大会。カラオケセットを置いてある日本人部屋があり、そこで毎晩、人が集まって歌うらしい。だから授業の時間は、寝ているから出られない。授業に出るのは、武田のおばちゃんのように、子供が日本人学校に通うために夜更かしできない人のみのようだ。
それに反して我が中医専門クラスでは、喋れない、聞き取れないやつは、ほとんどいない。
中国人が、バスで足を踏んでケンカになるという授業では、「あんたら。ののしり言葉を知っているか?」と先生が聞いた。
すぐにハリラが反応し、何かを叫んだ。すると先生が、「そんなキタナイ言葉、聞きたくない」(あんたが言わせたんだろうが)
そのときハリラが何を言ったか、まったく判らない。聞いたことのない言葉だった。ボクには罵ってくれる人がいなかったので、ののしり言葉を知らないのだ。
同室は、しょっちゅう罵られているから「ツァオニィマァ」とか「シャービィ」とか、いろいろ知っていると思うが、上品なボクは罵り言葉など知らない。
何でもハリラが、西直門の地下鉄駅で降り、375路のバスに乗る前に、そこの売店でコーラを一本くれといったら、栓を抜いて「はいっ、十元」と言ったらしい。そこでハリラは頭に来て、そこに積んであったコーラを全部ひっくり返したらしい。
それを聞くと先生が「何とヒドイことを」と言った。
そこで、その罵り言葉を叫んだという。すると中国人達が集まってきて、口論になる。ハリラが「この男は一本1元のコーラを十元だと言って売りつけようとした。みんな、どっちが正しいと思うか」と言うと、みんなが解散したらしい。
ところが攻撃がボクに向かってきた。
「これというのも日本人が、法外な料金を請求されても払うからだ」と、ハリラ。
「そうだ、そうだ。日本人が、法外な料金を払うからだ」と、みんな。
「校門のところで、卵を買った。幾らふっかけたと思う?」と、ハリラ。
その卵は、ボクが買う十倍の値段だった。
確かにボクも西直門の露天で、コーラを買おうとしたことがある。露天を攤子(タンズ)という。しかし、まず人が買うのを見てから買うので、露店では買わず、近くにある煉瓦造りの商店で買う。そこなら正当な値段だ。
我々は、中国人と同じ顔、同じ服装をしているので、高く買わされることは滅多にない。天安門で買ったとき、1.5倍の値段で売っていたりするが、それは観光地価格と思っている。
法外な値段をふっかけられたら、買ってはいけません。みんなが迷惑します。
ところで中国人は、西直門で、高いコーラを買わされた場合に、どう対処するかを観察してみた。
十倍のコーラ店に、何も知らんと中国人の男がやってきた。「コーラ、いくら?」
店の親父は、コーラをシュポンと抜きながら「十元」と差し出す。
客は「十元ならいらない」という。
親父は、声を荒げて「もう瓶の蓋を開けてしまった。これをどうしてくれる」
「あんた飲め」と客。
親父は、自分で栓を抜いたコーラをゴクゴクと飲み始める。客は、何もなかったように立ち去る。
えっ、こんなんでいいの? この中国式対処法を見て、ビックリしてしまった。ハリラも、こうしたらよかったのだ。ケンカにならなくて済んだ。少なくとも中国人は、モロッコのハリラより頭がいいらしい。一番お人好しなのは、金をふんだくられる日本人かな? でも日本人は、こんな買い方をしない。「これ」と言って指さし、親父が栓を抜いたら、何百元あるかと知れない札束を掴んで、好きなだけ取れというポーズをする。親父が好きなだけ札束を抜いても、文句も言わない。黙って立ち去る。そのうち親父も、十倍の値段ぐらいなら安いと思い始めて商売したことだろう。我々のように「コーラは幾ら?」と値段を聞いてから買う日本人など、ほとんどいないからだ。おまけに値下げまで交渉してくる。
平永里を歩いていたとき、お婆さんが布に書いた絵を売ろうと寄ってきた。20元だという。10元なら買うと言って、3枚ほど買った。ばあさんから離れて歩き出したら、すぐ近くから男が出てきて、おばあさんに「今のは日本人だったろう?」と訊ねた。「いいや。絶対に違う」と婆さんは言っていた。それぐらい日本人は大らかなのだ。ちょっと中国式の買い方をすると、日本語訛があるのに日本人と思われない。
アラブ人や黒人、西洋人は、我々と違って、見ためで外人と判るから、買い物には非常に不利だ。
まあ、この日はハリラにやられっぱなしで、何も言い返せなかった。
自転車を買う
学校では、トイレットペーパーと洗剤は、自分で買わなければならない。おそらくトイレットペーパーは、備え付けてあるのだろうが、あっというまになくなる。盗まれるのであろう。トイレットペーパーと洗剤は、食堂で売っている。金魚印のだ。外で買ったトイレットペーパーは、安いのだが肛門が切れて血が出る。トイレットペーパーは手紙という。洗剤は洗滌剤だ。ちなみにアンネナプキンは衛生帯という。
中国には下敷きがなかった。そういうこともあろうかと、プラスチックの下敷きを買っていった。しかしノートは必要ないと思っていた。だが当時の筆記本は、わら半紙をホッチキスで閉じたような代物だった。みんな小さな薄い青表紙のノートに、宿題を買いて提出していた。ハンガーは竹、洗濯バサミは木でできていた。プラスチック製品は、ほとんどない。白い買い物用のビニール袋ぐらいがプラスチックだったが、それは日本の袋と比べて薄く、ちょっと重いものを入れると、取っ手がちぎれたり、底が抜けたりするような代物だった。その袋でさえ、幾らかで買わなければならない。塑料袋とか塑料口袋と呼んでいた。
そんな環境だから備品がしょっちゅうなくなる。例えばカルロスは、自転車を買って一週間で盗まれたという。学校の授業で、言っていた。我々の授業は、現代漢語は、息抜きの時間で、教科書を一通りは読むのだが、それについて意見を述べる。というより、罵り言葉のように、こんな事があったと憂さ晴らしをする場だ。
この日は、バスを待っていると、目的地へ行くのに時間がかかるので、自転車を買いたいというボクの申し出からだった。五道口のデパートで、自転車を買おうとした。孫穎に香山へ誘われたからだ。孫穎は、ちゃんと自転車を持っている。鳩ポッポ印の自転車だ。何でもブランド品らしい。ブランドを名牌と呼ぶ。
自転車を買いに行くと、自転車売場で、それならば会社の許可を貰ってこいという。当時の五道口デパートは、平屋の建物で二階がなく、ガスマスクや溶接機械を売っている隣で、自転車を売っていた。学生なので、会社の許可がもらえないというと、それならば学校の許可をもらえという。しばらくそこで観察していると、地質大学の学生が二人、許可証らしき小さなワラ半紙をヒラヒラさせ、一人が自転車を買っていった。なるほど、自転車を買うには小さな紙切れがいるんだ。そこで翌日、先生が来たところで、自転車を買いたいから許可をくれと言った。
するとカルロスが「自分も高い自転車を持っていた。自転車置き場に置いていたら、一週間で取られた」という。ハリラが同意して、取られた自転車は、中関村で売りに出されていたという。中関村は、現在ではコンピュータを売っているが、当時は盗品を売っていたようだ。だが遠そうなので、行ったことはない。北京大学の近くだ。
先生は「鍵をしていなかった、お前が悪い!」と言ったが、ハリラは「カルロスは、キチンと鍵をかけていた。それなのに取られた。中国は、泥棒ばかりだ」という。
旗色の悪くなった先生は「まあ、学校は始まったばかりなので、そうすぐには自転車を買う許可をおろせない。一週間ぐらい待つように」と、誤魔化す。
自転車を買うのに、学校や職場の許可証がいるなんて知らなかった。食料以外は、金を出せば買えると思っていた。しかし、スポーツタイプの良い自転車を買えば、盗難に遭うらしいことを学習した。しかし、そんなスポーツタイプの自転車なんて、どこに売っているか判らない。五道口デパートで売られているのは、孫穎の鳩ポツポ牌の白い自転車もなく、金田一耕助が乗っている黒い自転車ばかりだ。ブレーキもワイヤーブレーキではない。
さっそく五道口のデパートへ行き、許可が発行されるまで一週間ぐらいかかるらしいことを告げると、店員は
「それなら許可証のいらない自転車を買え」という。
「許可証のいらない自転車? そんなのどこにある?」と言うと、その端にあると答える。
何と、許可証のいる自転車は、真ん中の五台ぐらいで、左側が子供用か女性用(かなり小さい)、右側の十台ぐらいは、すべて許可証のいらない自転車だという。早く言えっちゅうの。ここで店員を怒らせては売ってもらえない。なるべく愛想笑いをして、それなら許可証のいらない自転車を売ってくださいと頼む。すると店員は、すぐに男の店員を呼んだ。
「どれがいいんだ!」
どれがいいんだと言われても、そこにある十台は、みな同じに見える。色も形も同じだ。
「どう違うのですか?」と聞いてみる。
「そりゃねぇ。悪いのに当たれば、ペダルが引っかかって進まないし、ブレーキが利かなかったり、すぐに壊れたりする」
なるほど、デザインや大きさで選べと言う意味ではないんだな。
「そんなこと言われても、選び方なんて判んないし……」
「よし。選んでやる」と、店員は一台を選び出した。その自転車が、誰も選ばないので売れ残るから、店員が選んでくれた可能性もある。まあ女の店員じゃないから、大丈夫だろう。中国では、女の店員や職員は、とても扱いにくい。
許可のいらない自転車は350元ぐらいだが、許可の必要な自転車は150元ぐらいだという。値段が倍半分違う。見た目には、あまり違わないのだが。これで無事に自転車が買えた。
自転車を買うと、店員がペダルを付けてくれる。どうやらペダルを付けたままだと、乗り逃げされるらしい。ペダルの料金は取らなかった。すると女の店員が、鍵を付けなければならないから、鍵を買えという。6元だ。さっきの男の店員から鍵を受け取る。茶色な紙袋に入っている。それを受け取ったが、日本のと違って輪っこになっている。どうやって付けるんだと聞くと、そこに入っているネジで止めろという。ネジなんか入ってないというと、あれっ変だなということになり、入っているはずだが、こっちもキョロキョロ見回す。すると近くにいた老人が、自転車近くに落ちいてたお守り袋ほどの紙袋を持ってきて、これじゃないかという。
開けてみると、それがネジらしい。すると女店員に、あのおじいさんに拾って貰ったんだから、ありがとうと言うべきだと、さんざん説教されまくったが、おじいさんはサッサといなくなってしまっていた。
こうして鍵を付けるために、今度はドライバーを買わなければいけなかった。自転車は自行車というが、台湾では脚踏車と呼ぶらしい。中国で脚踏車と言えば、遊園地などにある足踏み式のモノレールのことだ。鍵は鎖スオである。鑰匙ヤオシが鍵と思っている人がいるが、あれはキーのこと。鍵本体ではない。ちなみにネジは螺糸ロウス、ドライバーは螺糸刀ロウスタオという。
だから扉に鍵をかけることは鎖門スオメンと呼び、ヤオシメンではない。ちなみに鍵とは思えないものも中国では鍵で、例えばファスナーなどは拉鎖ラスオという。だから夏に食べる素麺は、中国人には、「鍵かけ、鍵かけ」と聞こえるはずである。
個人授業
こうして自転車を買ったら、さっそく孫穎と一緒に外へ出てみた。しかし、どうも自転車に乗りにくい。他の自転車と衝突しそうになる。しばらく乗っていると、孫穎が隣に並んで、「もしかすると日本では、左側通行なのか?」と聞いてくる。「そう、人は右、車は左。自転車も車だから左側を走るんだ」と答えた。すると「中国では、右側通行なのだ」という。
このころは、孫穎と少しは親しくなっていた。
最初のころは、口の中を照らしたので、腹を立てていたようだ。それに、どうも孫穎は中医用語ができないようなので、現代中国語の教師に変えてしまった。中医は、妹が中医学院にいるという暁梅を使っている。
まず、どうしたら孫穎の関心を惹こうかと思いますわなぁ。そこで動物が主人公になっている、幼児用の絵本を教科書にすることにした。この本で、母性本能を刺激しようという作戦だ。まあ同室などには、思いつかない作戦だろう。
ところがハリネズミ先生とか、イタチ先生は良かったが、キツネ先生がいけなかった。キツネは中国語で狐狸だが、日本語では狐だ。でも日本語では、狐と狸だ。では狸は何かというと、狸子だという。そんなのおかしい。日本では狐は狐、狸は狸だ。狐と狸を一緒にしてキツネとは、おかしいと口論した。孫穎は「口羅口索」という。ロウソは「うるさい」という意味だ。
こんな孫穎だったが、だんだんとなついてきて、なんとなく仲良くなってきた。正直言うと、日本人の姐ちゃんは、何を話して良いか判らなくて、けっこう気を使うのだが、中国人の姐ちゃんは、気さくで話しやすい。最初は、すましていて付き合いにくいが、長く付き合っていると、そうでもない。喋っていると、けっこう乗りもいい。ちょっと北方の人は苦手だが。
結局は、顔も似ているし、あまり外国人と意識しないで付き合える。
そのうちに孫穎は「ずーっと、あなたの家庭教師をしていたいわ」などと言っていた。
イタチ先生やハリネズミ先生などは、子供用の本なので薄く、すぐに終わってしまう。次は、何の本にしようかなと考えていたら、孫穎が「三毛の本を教科書にしましょう」という。それは何かな?と思っていたが、まあいいや。孫穎が、それを教科書にするというんだから、教科書にしよう。すぐにOKした。
1988年当時は、ドラエモンの本を始めとして、北斗の拳とか、次々と日本の漫画が翻訳されていた。北斗の拳など「最初はアメリカの転載漫画家の描いた」などと紹介されていた。同室が家庭教師に教わっているときは、ジョーク集やドラエモンなんかを読んでいた。もちろん、そこには「タ、マーダ」とか「精神病」、「笨蛋」、「壊蛋」など、可愛い罵り言葉しか記載されてない。子供がドギツイ罵り言葉を喋れば、親が焦ってしまう。1995年頃から、漫画は子供に悪いというので、売られなくなってしまった。ただ北斗の拳だけは、あまり中国語の勉強にはならない。主人公は、あまり喋らないし、喋っても「アタタタタ」とか、「イ尓、已経死了」ぐらいである。中国語の叫び声を覚える教材としては、良いかも知れない。
三毛の本を孫穎が持ってきた。今までは教師用と生徒用の二冊を用意していたが、彼女は一冊しか持ってこなかった。しかも結構読み込まれている。新品ではない。えっ、何?
当然にして並んで腰掛けて、一冊の本を読むことになる。さあ、内容は? 台湾人の三毛が、外国人との結婚生活を描いたエッセイ集のようなものである。「荒野の夜」なに、これっ。内容は、旦那が底なし沼に落ち、三毛が助けようとしたら、そこに悪い男どもが来て、強姦されそうになる話だ。結局なんとか逃げて、旦那を助け出す話。そのほか色々。
ちょっと待って! どうしてハリネズミ先生や、イタチ先生の話から、こんなに急激に話が飛ぶの?
あとで三毛の小説を全部読んでみたが(エッセイ集を除いて)、そのような強烈な小説は、あまりなかった。どうして孫穎が、そのようなドギツイ小説集を選んで持ってきたのか、いまだに不明だ。最初は同室が部屋にいたのだが、そのうち王姫霞のところへ入り浸りになり、部屋には夜しか帰ってこなくなったことを知って、仕掛けてきたのだろうか?
そういえば孫穎は、最初は同室を気にしていた。だから「どこへ行った」とか聞いていた。「最近は、家庭教師のところへ行ったっきりで、夜にならないと帰ってこない」と返事した。
とにかく、このドギツイ小説は、いきなり小説は難しすぎるということにして、やはり子供の本に戻したと思う。それは、のちには三毛を教材とした記憶がないからだ。
あとで孫穎に招かれて、彼女の部屋に行ったとき、同室から「孫穎は三毛迷だから」と聞かされた。「迷」というのはキチガイ。つまり熱狂的なファンのこと。三毛の熱狂的なファンならば、その作品を知らぬはずがない。
大学院生
孫穎の宿舎には、近いから割と行っていた。政法大学は外人がいないので、宿舎に入るのは自由だ。北京は自由だが、ハルピンは厳しい。天津は少し厳しかった。ハルピンにある黒龍江中医学院では、宿舎の一階に待合室があり、そこでしか相手に会えない。天津の女子寮は、宿舎の一階に待合室があり、相手が来れば部屋に入れてもらえる。北京は、政法大学であれ、中医薬大学であれ、北京大学であれ、女子寮には入り放題だ。孫穎のいる大学院宿舎は、男女が階別に分かれている。北京中医薬大学と同じだ。当時の北京中医薬大学の大学院生宿舎は、日中友好病院の敷地内にあって、やはり階ごとに男女別になっているから自由に行き来できる。日本の女子寮に、男が入れるなどということは、まず考えられない。たぶん黒龍江中医学院なみに厳しいことだろう。
孫穎は大学院生だから、院生宿舎の四階部屋に四人で住んでいた。その中の一人が、張の同級生らしい。張は朝鮮族なので、その同級生も朝鮮族だ。名前は玉子さん。日本人が聞くと、笑っちゃうような名前だが、日本の花子さんだって、中国人が聞くと笑ってしまう。何でも吉林あたりでは、女には子を付けるらしい。でも中国語はダメ。張などは、中国語より日本語のほうがうまそうだ。ボクも、中国人に「お前、訛がおかしいぞ。日本人違うか?」と言われたとき、「いや、鮮族だ」と答える。「どこが出身だ」と聞かれると、「吉林、エンペン」と答える。これで相場を知っていると思われるから、ボラれなくて済む。張には、いいことを学んだ。
授業を終わると張が来た。張は、日本語を自在に操るので、中国人らしい身なりはしているのだが、門番は日本人が来たと思って止められない。門番は、いちいち顔を覚えてられないので、外から来た外人でも、フリーパスで宿舎に入れる。だから日本語を喋りながら門をくぐっている限り、張はフリーパスで語言に入れるわけだ。中医では、こうは行かない。必ずパスポートを預けさせられる。
「今日は、孫さんところへ行ってみましょうか?」
「いいのかなぁ」
「いいですよ。」
そこで政法大学に行ってみる。
「院生の宿舎は、ここですよ」という。
入ってみると、こっ、これは。四人とも、ネグリジェ姿で寝ている。いや、一人だけ起きている。孫穎などは、スケスケの白いネグリジェで、ブラもパンティも丸見え。ビックリ!
「どうして裸なんだ!」
「裸じゃない。睡衣!」と孫穎。たしかにパジャマの人もいるが、あんたが一番激しい格好してる。
「いや。判ったけど、どうして下着姿なんだ!」
「下着じゃない。睡衣!寝てたから」
一人は、普通の服を着ていて、一人はパジャマ、あと二人の美女はスケスケのネグリジェ。しかし、何かを羽織る様子もない。
そのうち中国では、こうした状況が一般的なんだなと納得した。あとで中医や北大へも行ったが、みんな普通の格好で寝ていた。昼間に、パジャマやスケスケのネグリジェを着て、リラックスされているのは、さすがに院生の女子寮だけだった。さすがに大学生と違って、年齢が高いだけのことがある。色っぽい集団だ。
どうやら中国人は、昼食が済んだら2時間ほど寝て、それから授業に出るらしい。消化によい生活だ。
ちょっと刺激が強すぎたので、早々に張と退散するが、張は、そうした姿を見慣れているらしい。
「いったい、中国人の姐ちゃんたちは、恥ずかしさを感じないのか?」と聞く。どうやら日本人と中国人では、羞恥心を感じる事柄が違うらしい。
「いやぁ、院生はね、おかしいんですよ」と、張。
「それ、どういう意味?」
張の話によれば、女子大生まではマトモだという。だけど院生になると、結婚しようにも、相手が敬遠して結婚できないという。
「そもそも院生になるような女、キチガイばかりですよ。だから普通の男は相手にしない。だからみんな欲求不満なんですよ」
そういうものかなと思う。確かにスケスケネグリジェを着た女学生は、政法の大学院生宿舎でしか、お目にかかれなかった。
中国では、日本と同じぐらいの年齢で大学へ入るが、早いのは18とか16、遅いのは20ぐらいで大学へ入る。そこの大学院は2年なので、24歳ぐらいになってしまう。遅いのは25ぐらいになってしまう。
あとで孫穎の誕生日に呼ばれたことがある。回族の姐ちゃん、かなり美人だが、博士課程のガチャ目男が恋人らしい。そして同室の玉子さん。元は張の同級生。張が頭痛となり、高校を一年ほど休んだため、上級生になってしまったらしい。張が政法大学へ入学したため、後を追って大学院に入ったらしい。今の奥さん。そして孫穎。さらに南方の女性。なんだか知らないが、広東語を話すらしい。結局は、二人が回族と鮮族で、二人が漢族だ。南方の人は顔が凸凹していて、何となく人種が我々と違うようだ。でも孫穎と回族の美女は、同じ人種に見える。回族が、色が透けるように白く、唇が真っ赤なほかは、孫穎と同じだ。
「回族と漢族は、見たところ同じに見えるけど、どう違うの?」と聞くと、混血が進んでいて、ほとんど変わりがないそうだ。
そこには、博士、ボク、張、そして孫穎、回族、玉子、南方女性のほか、もう一人の女性がいた。彼女は誰かと聞くと、やはり大学院生で25歳。海南島から来た、名前を紅燕というと自己紹介した。お互いに自己紹介して、ワインとビールなどを飲み、誕生日を祝ってケーキを食べた。とはいうものの、ワインは一本しかない。しばらくすると紅燕が、自分の部屋へ帰るという。
院生の部屋は、学生の部屋と違って結構大きい。倍ぐらいある。真ん中に机が置いてあり、その周りを椅子が囲んでいる。学生の部屋では、パーティなど無理だ。
しばらくするとビールを飲み過ぎて、トイレに行きたくなる。トイレの場所を聞いて、部屋へ帰ろうとすると「チェンイエ、チェンイエ」と、誰かが呼んでいる。よく見ると、さっきの紅燕が、ドアを少し開いて呼んでいた。近寄って行くと、紅燕がドアを開き、腕を掴んで引き入れる。「ちょっと用があるから」
「なあに」
すると紅燕は、「ちょっと、ここへ座って」という。と、ベッドに腰掛けると、紅燕が隣に座ってくる。
「もう、ここの部屋は、みんな故郷へ帰っていないから」という。
そんなこと言われたって「ちょっとトイレに行って来る」って言っただけだから、みんな心配してる。ましてや外国人だから、何かに巻き込まれたら面倒だと思われるだろう。
真っ暗な部屋で、中国人の姐ちゃんと二人っきりという異様な状況だったが、据え膳食わぬは男の恥なんだろうけど、みんなが心配していると思って、また特に孫穎が心配しているんじゃないかと思って「早く帰らないと心配するから」と部屋を出た。
今考えれば、「みんなに別れを告げて、すぐに戻ってくるから」と言えば良かったと、後悔している。
部屋に帰ったら、案の定、孫穎が怒っていた。
「いったい、どこへ行ってたのよぅ。みんな帰ってこないから、心配してたのよ」
そんなこと言われても、トイレから帰る途中で、紅燕に部屋へ連れ込まれたとは言えないし。このころは孫穎に気持ちが行っちゃってますから、帰ってきても、しょうがありまへんわな。
紅燕さんも、ボクが今のようになってから誘ってくれれば、みんなを誤魔化して行きましたものを。
とはいえ、この一件によって、どうやら張のいう「女の院生は、欲求不満」という主張が裏付けられた。
中国女性は、こんなにも積極的かと思うけど、そんなにも積極的です。ただ日本人が、中国人に近づいていかないだけ。のちに家庭教師の孫穎も、天安門騒ぎで暁芳が来たために、ボクでなく渡辺君に気持ちが行き、積極的になってしまいました。
あとで大和君の嫁さん、馮艶に「二股かければどちらも逃げてしまう」と、キツイお叱りの言葉をちょうだいしました。
マァ兎に角、中国人女性は、すごく積極的なことは確か。中国人女性は一見鐘情(一目惚れ)しやすく、タイ人の金さんと親しくなり、一度ほど部屋に呼び込まれたところ、そこに周さんという上海女性が家庭教師で来ており、一目惚れされたことがあります(金さんとは、同国人と話をしないということで気に入られたようです。タイ語を教えられて困りましたが)。日本人と中国人女性は、愛相がいいのかな? でも中国人女性が日本人に行くことは希で、白人男性に憧れているようです。だから一般には、日本人の男が、中国人女性に狂うことはあるのですが(うちの同室のように)、日本人女性が中国人男性に狂うことは、滅多にないようです。語言では、日本人同士のカップルが一番多く、次には白人や黒人男に日本人女性が狂っていることが多く、日本人女性が中国人と親しくなることは希です。また学校側も、外国人と中国人がカップルになることを嫌っているようでした。
このとき、姐ちゃんの家庭教師に中国語を習い続けたのですが、男の張とは日本語で話し続けていたため、男の喋る中国語が、あまり聞き取れなくなってしまったのです。男の中国語が聞き取れるようになったのは、中医学院で、同級生の男達と喋るようになってからです。それまでは女の言葉しか聞き取れなくて、最初は中国人女性と喋ることが多くなりました。
写真
中国人の姐ちゃんと親しくなるには、中国人のクラスに入ることが一番と思うかも知れないが、意外とうまくゆかない。同級生では、個人同士の付き合いがないからで、どうしてもグループ交際みたくなってしまう。だから失敗する。
個人的に親しくなろうと思ったら、家庭教師にしてしまうのが一番だ。3日に一回ぐらい逢って、2時間ぐらい勉強を看てもらっていれば、自然に親しくなる。そうすると、どこどこへ行きましょうとか、自然に案内してくれる。それに一年も勉強を看て貰っていると、だいたい相性が判ってくる。ただボクは、どうも孫穎とは相性が悪かった。美人なのだが、お嬢様なので、上品すぎてしっくりこない。なんかヨソヨソしい。美人でない紅燕のほうが、よほど相性がいいと思う。
暁梅は「歳が幾つなんか」と聞いてくるから、パスポート見せたら、自分の誕生日を教えてくる。孫穎にプレゼントしようとして誕生日を聞いたら「中国では、知らない人に、軽々しく誕生日など教えません」とくる。写真を撮ろうとすると、嫌がって後ろを向く。孫穎の写真を撮ろうとして、とても苦労した。結局、半年ぐらいして、ある程度親しくなってからでないと、写真を撮らしてくれなかった。メチャクチャガードが固いが、部屋に男を引き込んで鍵をかけてしまうようなドギツイところもある。
やはり院生は、かなり違っていた。のちに中国人クラスで勉強したが、女子大生は20迄ぐらいはフランクだが、4年生ぐらいになると、急にガードが固くなる人がいる。割と美人に多い。中国では、美人はプロマイドを持っていて、ある程度親しくなると貰えるが、それは自分のことを美人だと自覚している人しか持っていない。孫穎はプロマイドを持っていて、「これは親しい人にしかあげないないんだけれど」と言って、くれた。なんでもハルピンで、ロシア人のカメラマンに撮って貰ったプロマイドらしい。「目の点が、二つあるので、うまく撮れてないけど」という。あとで渡辺君に聞いたら、彼は、もっと大きなプロマイドを孫穎から貰ったらしい。まったく確かに中国の院生は、付き合いづらい人のようで、あとで孫穎の同室四人で、少数民族の鮮族と回族を写真に撮り、それを少数民族の写真だといって大和君に見せたら、えらく怒られてしまった。そして誰に見せたか呼んでこいと言われ、連れてきたら「こんなイヤラシイ男に自分の写真を見せるなんて」と怒られ、フィルムは取り上げられるのが当然だけど、写真まで取られてしまった。つまり写真を撮らせた相手は、最初から了承しているので写真を貰える。しかしネガは渡さねばならない。しかし撮った写真を別の人に勝手に見せてはならない。ということらしい。
全ての人にではないが、どうやら中国では、女性の写真を撮ることは、いろいろと制約があるらしい。人によっては、そうでもないけれど。とにかくネガは、提出させられることが多い。
中医でも、徳鈴という美人がいて、自分のプロマイドを配っていたらしい。男のみならず、女子学生も徳鈴のプロマイドを持っていた。どうやら中国人は、美人かどうかが相当に重要らしい。日本人のように、性格がどうかとか、相性がどうのとか、あまり考えないようだ。
カメラのオーソリティ
渡辺君とは、孫穎が来るようになってから親しくなった。暁梅は、あまり対象ではないのだが、孫穎は年齢的にストライクゾーンに入るからだ。孫穎と渡辺君は、同い年だ。彼は昔、写真部だったらしい。
やっと孫穎が写真を撮らせてくれるようになり、写真のことで、いろいろと教わっていたのだ。
ボクのバカチョンカメラは、カメラのキタムラで買った。初めて外国へ行くので、カメラを買わねばならないと思ったからだ。広告をみると、一眼レフが安くなっている。やっぱり一眼レフでないとダメダと、イトコの旦那から言われた。
さっそく四万円を持って、カメラのキタムラへ行く。店員に「この広告にある一眼レフは、どこにありますか?」と聞く。
「これですね」と、四つぐらい積み上げられた箱を指さす。
「初めてカメラを持つんです」という。
「それならバカチョンのほうが、いいんじゃないですか?」と店員。
「でも、イトコがカメラは一眼レフでないとダメだと言っていた。だいたいバカチョンなんかで、写真が写りますか?」
「そりゃあ、写りますよ」と、店員。
それなら、なぜイトコの旦那は、カメラは一眼レフだと言ったんだ?ボクは、日光写真を撮るわけじゃないのだ。そこで店員のバックにある写真見本を指さしながら、
「こんな風に?」
「そう、こんな風に!」
「フウーン?」
でも、写真が撮れなかったら、日本へ帰ってキタムラに苦情を言うこともできない。
「じゃあ、これにするわ。一眼レフより一万円ほど安いけど、大丈夫かな?」というわけで、バカチョンカメラを買うことになった。
「じゃあ、これ買って帰るわ。さよならぁ」とボク。
「ちょっと、お客さん。カメラだけ買っても、フィルムを入れないと、写りませんよ」と店員。それもそうだ。肝心なものを忘れるところだった。
「フィルム売場は、どこですか?」、店員は、あそこですと指さす。そこへ歩いていった。
ところが色んな種類のフィルムがある。どのフィルムが、このカメラのフィルムなのか判らない。
「どれが合うのですか?」
「この辺が、全部そうです」と、フィルム売場の店員が言う。みると数字が100とか200とか書いてある。
「これは値段ですか?」
「いえ、感度です」
店員の言葉を聞いても、よく判らない。
「100と200は、どう違うんですか?」
「一絞り違います」と、店員。
「一絞りーっ!」と、ボクが叫んだとき、さっきカメラを売った店員は、こっちを向いて頚を横に振りつつ、顔の前で手を振っていた。
つまり、この客には説明するだけ無駄だというサインを送っている。少々腹が立ったが、意味が判らないのでしかたがない。ボクも閑ではない。
「一般的には、どれが売れるのですか」と、100だという。
「それで、100とか200とかの絞りは、どうやって合わせるんですか?」
「それは、あなたが合わせなくとも、カメラのほうで合わせてくれます」と店員。
これでカメラは買ったし、バカチョンで、少々不安だったけど、一眼レフなら安心できたのに。そしてフィルムも買ったから、帰ろうとすると、また店員が呼び止める。
「なんですか?」
「カメラ掃除セットが必要です。説明書がついてます」と店員。なにかポンプのようなものに毛が生えたものを買わされた。
こうして無事にカメラが買えたが、掃除セットは一回使っただけだった。それは同室が、カメラを取り出したとき、彼のは相当に古そうなカメラだった。さっそくカメラを掃除してみようと思った。そこで
「汚れたカメラだなあ」というと、「親父が持たせたんだ」という。「チョット洗ってやろう」
そうしてカメラを受け取ると、トイレ横の洗面所に持ち去った。そこで布に液を付けて拭いていると、いきなり廊下をドタドタと走る音がして、振り向くと同室だった。どうしたと聞くと
「洗濯機で、カメラを洗ってるんじゃないかと思い、心配で走ってきた」という。なんぼなんでも、そこまでは、せんわい。
とにかく同室は、このカメラを洗ったことと、彼が入れられなかったフィルム入れの蓋をボクが開けたことで、ボクはカメラのオーソリティと思ったらしい。
「この50とか100とか書いてあるのは、何だろう?」と聞く。
「それは感度のことで、アーサー100とか50とかなんだ」(昔のカメラだから50があるわけで、今は100からでしかないことなど、当時は知る由もなかった)
「それって何?」
「アーサー50とアーサー100では、一絞り違うんだ」と、店員の説明を思い出す。なにせ、この男は、親から何の説明も受けずにカメラを受け取っただけだ。フィルムを入れる蓋の開け方も知らない。
「一般的にはアーサー100だから、100の目盛りに合わせればいいな」
すると蓋が開けられないと言う。「貸してみろ」と、いじくっていると、偶然に蓋が開いた。「ほら、こうやって開けるんだ」
すると、どうやってフィルムを入れたらいいかと聞く。「こうやって、ポンと入れればいいんだ」
ボクのは全自動のバカチョンだから、ただフィルムを引っかけて入れるだけでよいが、彼のは全手動のバカチョンだから、フィルムを少し巻き取らねばならなかった。旅行に行って、フィルムに何も写っておらず、ボクがカメラの権威者でないことがバレてしまったことは、言うまでもない。この男は、それ以来、写真を撮らなくなってしまった。というより、一遍も写真を撮ったことがない。
こうしたことから、渡辺君が元写真部だと聞いたボクは、写真のことを教わり、100とか200の数字が判るようになってきた。そのときは長城とか、反射式箱型カメラの一眼レフとか、紅梅という蛇腹式カメラとか、いろいろなカメラを集めたが、もう同室は信用しなくなっていた。そのころはフィルムを自分で現像する中国人が多いらしく、その辺の文房具屋へ行けば、どこでも現像液や定着液を売っていた。黒い円筒形の箱を売っており、これはフィルムを現像するものだという。
おもしろいので、その六六判という大判フィルムを買って、いろいろと白黒写真を写して歩いた。そして渡辺君に、トイレの掃除用具室のなかで、現像して貰っていた。ボクは見張り役だった。なぜ見張り役が必要かというと、学校で暗室と呼べる場所は、トイレ用具入れの部屋だけで、そのときに人がドアを開けると、フィルムに光が当たってダメになるという話だった。
長城は、鏡がついている一眼レフだった。やっと憧れの一眼レフを手に入れたが、人に言わせると、一眼レフはレンズを取り替えられるから良いのであり、長城のようにレンズが交換できないカメラなど、一眼レフではないという。でも覗くところと、写すところが同じというのは、結構おもしろかった。中を見てると、鏡があって、それがレンズの風景を上に送り、上にも鏡があって横から見える。そしてシャッターを切った瞬間に、下の鏡がパコンと持ち上がって、フィルムに光が当たる。そして鏡が閉まる。
パコンというシャッター音がやかましかったが、けっこう写りが良かった。バカチョンより、長城が気に入って、それでばっかり写真を撮っていた。あとの紅梅と箱型長城は、大きなフィルムが手に入らないので、日本へ帰ると自然に使わなくなってしまった。
でも紅梅は、あとで語言に持って行き、「写真撮ってやろうか」というと、「ああ、撮って」と答える。そこで蛇腹をピョンと出させると、相手がビックリするので、ビックリカメラのようで結構おもしろかった。
蛇腹は折り畳まれているので、普段は平らになっている。だから写される方とすれば「何で自分のほうにレンズ向けているのかな」と思うらしい。自分に向けられているのは、カメラの裏側だと判断する。するとイキナリ蛇腹が鼻を突きだしてくるので、「ビックリシタ」と、後ろに跳ね退く。そこでパチリ。最初から蛇腹を出しておくと面白くない。でも満州国時代の技術で作られたカメラだから、100年前のカメラだといっても通用する。おじいさんのカメラだと言ったら、信じ込んだ日本人がいた。
こうやって写真のハードについてはクリアしたのだが、ソフトの部分については、なかなかうまく行かない。孫穎の写真を撮ろうとして、「ハイ、桃の木のそばに並んで」というと、そこに立つのだが、横顔を撮ろうとして、横に移動すると、それに合わせて身体を回す。つまり、こちらが孫穎の周りを移動すると、それに合わせて孫穎が身体を回転させるので、いつも表面を向けている「お月様」のようなもので、横側とか裏側の写真が撮れない。本人が、足踏みしてグルグル回転するのだ。じっとしていない。
中国人は、いつも写真を撮ろうとするとポーズをとるといわれるが、これが、そのことなんだろう。なかなか横顔など撮れない。ポーズなどとらないのは、20ぐらいまでと思う。帰るときに、自転車を持っているとき、「孫穎」と呼んで、こっちを向いたときにパシッと撮ったら、顔を上げた写真が撮れた。しかしブサイクに撮れたので、本人が見つけたとき、破られてしまった。とにかく中国人は、写真にうるさい人が多い。
語言の焼き肉屋
学校の西門を出ると、上に煉瓦造りの廊下のようなものがあり、そこを左に曲がると、床屋、包子屋、食堂、仕立屋がある。そして門を出ると、左手には小さな食料品店、右手にはプロパンガス屋があった。プロパンガス屋には、大勢の市民が、ガスボンベを持って集まってくる。ガスボンベは60cmぐらい、日本の中型のガスボンベである。大型はない。運べないからだ。
だから校門を出ると、いつもプロパンガスの匂いがしていた。語言にいたときは、プロパンガスを使ったことはなかったが、戯劇では外に住んでいたから、よく自転車でガスを詰めてもらいに行った。語言のような大きな場所ではなく、小さな民家のような建物で、まあ中国の民家だから、煉瓦造りの四畳半ぐらいの小屋だ。ガスボンベは買って、詰めるには入ったボンベと交換して貰う。入れるというより、ボンベ交換屋さんだ。だいたい60元ぐらいだった。95年で60元だから、88年なら10元ぐらいのものじゃないかと思う。
学校の正面はフィルム屋さんで、ラッキーが6元、コダックが10元、フジが13元ぐらいで買えたと思う。フジの会社は、北太平荘にあった。ラッキーは中国フィルムで、これで上手に撮れたらラッキーという意味じゃないかと思う。裏の顔は、ヤミの両替屋。
外国人のいるところは、語言にしろ中医にしろ、ヤミの両替屋さんがあった。戯劇の近くには、ヤミ両替がなかったので、平永里などへ両替しに行かねばならない。平永里では、日本人の女の子が、ヤミで両替して、警察に捕まったという噂もあった。
店を構えないで両替している男には、札を抜かれるので要注意という。ヤミ両替は、安心できるお店でやらねばならない。
現在は、外匯がなくなったので両替がないと思うかも知れないが、外人用のお札である外匯がなくなっても、日本円を直接に中国元へと替えるヤミ両替商がある。しかし安心できる店でやらないと、今ではニセ札を掴まされるらしい。偽札を掴まされたら、さっさと使ってしまうことだという。
88年当時は、まだ偽札などなく、最高で十元札しかなかった。外匯には五十や百元札があった。今は外匯にプレミアムがついて、どえらい値段になっているという。89年頃に、人民元でも50元札が出て、相次いで100元札もできたが、最初に両替して100元札を渡されたときは、偽札を渡されたと怒ったものだ。だから88年には10元札しかなかったので、ちょっと両替するとブ厚い札束となるので、大金持ちになったような気分になる。うちの同室も、最初に両替したときは、ちょっとベッドで仰向けになり、札束を顔に近ずけて写真を撮ってくれという。そのときに撮った十元札束を手にしてニヤリと笑いを浮かべる同室の姿が、いまもボクのアルバムに残っている。
西門を出て左へ行くと学園路、正面は地質大学、右へ行くと田んぼがあって五道口へ出る。五道口のデパート前で売っていた羊肉串ヤンロウトゥアー(シシカバ)は、結構おいしかった。当時は五本で一元だった。そのうち三本で一元となり、外では売られなくなって、王府井などでは協和病院前のシンジャン料理店で、一本一元で売られている。北京では、外では売られてないが、上海なら外でも売られている。しかし値段が高くて一本二元、一本一元では鳥肉になってしまう。当時の王府井では、あちこちで油で揚げた羊肉串が売られていた。王府井へ行くときは、学校の前から331には乗れるのだが、新華書店から帰るときは、五道口のデパート向かい、工人倶楽部の前で降りる。そこで羊肉串を、よく食べたものだった。北太平荘でも羊肉串を売っていたのだが、そこのは竹串ではなく、自転車のスポークに挿して売られていた。そしてスポークは回収する。これは食べたとき歯にガリッとくるので、あまり食べる気がしない。そのうち評判が悪かったのか、竹串の羊肉串へと戻ってしまった。
デパートの前は広場になっていて、道の向こうに工人倶楽部というのがあり、そこはダンスホールや映画館になっていた。大きな建物だ。デパートの隣は、2メートルぐらいの路地があり、しばらく民家が続いて踏切がある。この踏切は、いったん閉まると、なかなか開かない。西直門へ行く汽車が通る。同室が、西直門から万里の長城へ登った列車だ。石炭を積んで通ることが多いが、その長いこと長いこと、際限がない。速度も人間が走るぐらいのスピードだから、なかなか通過しない。その踏切を過ぎると、朝鮮焼き肉の店があった。
ボクがよく行った学園路の十字路付近にある朝鮮料理屋は、焼き肉などなかったが、そこの朝鮮料理屋は焼き肉専門らしく、夕方になると七輪に火を起こし、トタンでできた煙突を立てて、炭に点火していた。そして初めは、張と同室、そしてボクで、その朝鮮料理屋で焼き肉を食べてみた。当時は、天安門の脇に、モランボンという焼き肉屋があり、北京では有名で、予約して一時間ぐらい待たなければ入れなかったが、踏切を渡ったところの焼き肉屋も、味では遜色がなかった。特に同室は、そこの姐ちゃんが典型的な朝鮮族美人だと喜んでいた。ボクは、中国料理が脂っぽいため口に合わず、その後も様々な朝鮮料理屋へ行ったが、そこの姐ちゃんが典型的な朝鮮美人だとは思えない。だがノッペリとした平安朝の変わった顔をしていた。
同室は、張とボクの三人、あるいはボクと二人で、たまに語言周辺の食堂へ行った。ボクは、書店には行ったのだが、食堂のことは知らなかった。しかし同室は、中国の食べ物をよく知っているようで、名菜は何だとか詳しかった。のちに後輩の今村というのが来たが、彼も食い物に関してはうるさい。
我々は、ビールを飲みながら焼き肉を食べたが、ボクは貧乏性なので、ご飯がないと焼き肉が食えない。同室は、中国の肉には寄生虫がいるから危ないと思っていた。最初に、学校の正門前にある食堂で、同室と「シ刷羊肉」を食べたことがある。こちらは初めてだったので、鍋底を買わなければならないとは知らなかった。それには干貝や煮干しなどが入っている。要するにダシ汁だ。そのダシ汁が炭火で沸騰し、そこへスライスした羊肉や春雨、白菜を入れる。それだけでは食べられない。そこに調料がある。日本でいえば、鍋のポン酢。ゴマダレと臭豆腐を混ぜたものと思う。臭豆腐とは、豆腐に赤糀を繁殖させ、焼酎に漬けて発酵させた豆腐だ。その小鉢に入れた調料に浸して、羊肉を食べるという寸法だ。こっちは何も知らないから、ただ同室のやるようにしていた。同室は
「中国の肉には、寄生虫がいるから、よく火が通ってから食べないと」と言いながら、出てきた羊肉を沸騰したダシ汁にガバガバっと入れる。あっという間に、ダシ汁は冷たくなった。スライス羊肉は、冷凍肉なのだ。冷凍しなければスライスできない。一遍に入れれば、当然にして湯が水になる。ふたたび炭火の熱で、沸騰してきた。
「こうして、よく煮えてから、取り出して食べるのだ」と、同室。
取り出した肉は、1/3ぐらいに縮み、固くなっていて、なかなか噛み切れなかった。
すると店の親父が飛んできた。「お前達、何をしている。そんなメチャクチャな食べ方があるかっ!」
店の親父によると、箸で羊肉を沸騰したダシ汁に入れ、二〜三回ほど振り動かして、赤い肉が白っぽくなったら食べるらしい。
確かに、そうして食べると、柔らかくておいしい羊肉が食べられる。よく煮るとおいしいのは白菜だけだ。粉絲(春雨)でさえ2〜3分ほどダシ汁に浸すだけでよい。
そんな同室と一緒に焼き肉屋へ入った。ボクは、朝鮮族の張が言うとおり、ちょっと焼くと、すぐに肉を取り、タレに浸けて食べてしまう。張も一緒だ。同室は、肉には寄生虫がいて危険だと思っているから、黒く炭にならなければ食べない。しばらくビールを飲んで、たのしく焼き肉をつついていたが、急に同室が声を上げた。
「ちょっと待ったぁ!オレも食べようと思うのに、焼こうと思って網に乗せた肉が、みんな取られてしまう。網を分けよう」
それもそうだということになり、七輪の網を中心から三等分した。
「はいっ。私のは、ここ1/3。あんたのは、ここ1/3。張さんは、ここ1/3ねっ」
これで同室も食べられるようになったが、我々は焼けるのが早いので、すぐに口にできるが、同室は肉が焼けて炭になるまで待っているので、相対的に食べられない。そのうちに我々は満腹になるが、同室だけは食べ続けている。そのうちに炭がなくなってきた。すると張が、炭を頼もうという。ボクが「そんなこと、できるのか?」というと、「できます」と答える。
さっきの姐ちゃんを呼ぶと、張が何やらしゃべっていた。姐ちゃんは納得すると、炭を追加してくれた。料金には含まれない。
張が喋るのは、朝鮮族の言葉、つまり鮮話であり、北朝鮮の言葉と基本的に同じらしい。韓国の言葉は、また違うそうだ。
だから張は、日系韓国人との付き合いもあるので、韓国語、朝鮮語、日本語、いい加減な中国語を喋れるらしい。そして英語も勉強したそうだが、それは園児並のレベルのようだ。
張は、食事が終わると、最後に狗スープを頼んだ。我々は「ゲッ、犬なんか食うの?」という気持ちだった。何となく人食い族のような気分。でも張が、「これが身体が暖まるんですよ」というので、頼んでみた。濃い赤だし味噌汁という感じだったが、あまり気分の良いものではなかった。
実は、この焼き肉屋の食事は、河野さんに「張の保証人」になって貰うことをお願いするため、ここでよいかどうかという下見だった。だから本番では、犬スープの注文は、やめてくれと頼んだ。
中国人が日本へ留学するには、日本での保証人が必要だが、保証人は日本に住んでなければならない。そして年齢や年収とか、色々と条件があるのだ。旦那が日本にいる河野さんが、旦那に保証人を頼んで貰わないと、どうしようもない。ボクは、タイ人の七妹と河野さんを間違えたために、河野さんと面識ができた。それで張のために頼んでやろうとしたのだ。
しかし中国人が、日本の保証人に迷惑をかけるという事件は、日本では多々ある。だからマトモな中国人だと思わなければ、河野さんだって旦那に頼めないだろう。そこで、ここで河野さんを接待し、張が礼儀正しい中国人で、迷惑をかけない人間だと判れば、河野さんも保証人をOKしてくれるだろう。
河野さんは、こころよくOKしてくれた。そして張は、北京で開催された「中国人、日本語弁論大会」で優勝し、日本へ行けることになったが、折り悪く「天安門事件」が起こって、中国人が出国できなくなり、結局は10年後に、彼の奥さんが日本の大学に留学したとき、保証人になったのではないかと思う。ただ張も、中国の石油輸出会社に就職し、秘書として日本へ渡り、日本に来てみて、日本が嫌になったという。中学校から憧れていた日本に、なぜ張が嫌気が差したのか? それも食べ物だった。
「懐石料理を食べたんですよ。ちょびっとずつしか出てこなくて、全部食べたけど、ぜんぜん満腹にならない。食べたあとも腹減ってて、帰りにギョーザの王将でラーメン食べましたよ」という。
たぶん、それが原因だろう。日本で、40万とかの月給で雇いたいという話が、日本人社長からも韓国人社長からも出たが、けっきょくは中国の会社に残った。
この張だが、エンペンの田舎から出てきた男は、社長秘書となって、そののち会社を辞めて独立し、日本人や韓国人相手のキャバレーをやって成功したという。いまは北京空港付近に家を建てているらしい。張の田舎は、見渡す限り人参畑で、本当に何もないような田舎だった。写真でしか見たことがないが。
この焼き肉屋は、なぜか語言の生徒は来なかったが、清華大学の日本人とかが来ていた。男二人、女一人だ。清華大学の日本人は、彼ら三人しかいないという。嘘だと思ったら、どうやら彼らは専門コースで、科学技術を学んでおり、語学クラスではないという。そりゃあそうだろう。技術の進歩した日本から、わざわざ中国の大学へ、科学技術を学びに行く学生など、珍しいに決まっている。あとで河野さんから、知り合いの姐ちゃんが清華大学へ留学するから世話をしてくれと頼まれたとき、清華大学の語学コースには、何と多くの日本人がいるものだと感心した。
北京大学
88年当時は、王府井で日本人を見かけることが、あまりなかった。ボクは、よく331のバスに乗り、王府井の新華書店へ行った。語言の近くにも新華書店があるが、医学書がない。語言の近くには、学園路に教育書店、五道口デパート脇にある露店が建ち並ぶ道の奥に新華書店、その向こうにションベンで水たまりのできたトイレがあり、そして外文書店があるだけで、あとは一坪ほどの小さな書店しかなかった。知識青年の店と看板にある書店で、漫画本やミュージックテープ、小説などを売っていた。
当時知っていた医学書関係の書店は、王府井にある三階+1階の新華書店と、二階建ての人民衛生出版社、和平門から瑠璃廠までにある中国書店しかなかった。
いつものように新華書店に行くと、一階のミュージックテープ売場で、日本人の姐ちゃんたちが騒いでいた。ソニーの空テープは5元だが、ミュージックテープは3元である。誠に不思議な国だ。ただソニーのテープには偽物があり、だんだんと音が消えてゆくという。ボクもソニーのテープを、だいたい3種類ほど持っている。一見するとそっくりだが、貼り付けてある紙がピカピカしていたり、ネジの形状が違っていたりと、微妙なところが違っている。ボクはタバコを吸わないが、同室がセブンスターだと思って買ったタバコが、ナインスターだったりすることがよくある。星の数が2つ多い。このタバコは、星が増えるほどまずいらしい。
書店で日本人に出会うことは珍しい。現在も同じだが。そこで声をかける。変わったところで声をかけるのは、今でも同じ。
「あんたら、どこの大学?」
「私ら北京大学。頭いいから」
それを聞くと、ボクは医学書を買いに三階へ上がった。もしかすると、あんたはと聞き返されたとき、語言ですとは言いづらい。たぶん「おたくは」となったら、「語言学院」、「ああ、世界の動物園と呼ばれているアホの学校ねっ」となるだろう。
前に、中国人のオッサンと会ったとき、「あんたは卒業したら、どの大学へ行く?」と聞かれたことがある。連れは「人大」と答えた。オッサンは「名門だな。すごい」と言って親指を立てた。これは「ファック、ユー」の意味ではない。スゴイという意味だ。そしてボクに「で、あんたは」と聞くので、「中医学院です」と言うと、「まぁ、悪い大学ではないな」と言って、中指を立てた。だから学校名は、言いたくなかった。特に「私ら北京大学。頭いいから」というような連中の前では。何か言われるに決まっている。
頭のいい奴が、何で六人もつるんでなければ、安全な王府井を歩けないんだと、心の中で蔑む。喋れれば、単独行動するだろうが。と、強がりを考えていた。
ボクは三階の医学書売場へ、彼女らはミュージックテープ売場から外へ消えていった。本を買った形跡もない。
のちに日本人は、ほとんど中国の書店へ行かないことを知った。台湾へ行っても、日本人に出くわすことはなかった。彼女らは、ミュージックテープを見に来たのであろう。だいいち中国の本を読める人間など、ほとんどいないようだ。95年に戯劇へ留学したときも、テレビを見る人間は多かったが、本を読む日本人はほとんどいなかった。だからボクがいなかったら、園児並の授業をしている先生も、困ったのではなかろうか?
戯劇にメガネをかけた目玉先生というのがいた。その先生は、よくボクに話しかけてきた。日本人は「金搶魚が好きだろう」という。ボクは「金搶魚」を知らないから、すぐさま教室へ帰って辞書をひいた。「まぐろ」とある。帰ってきて「はい好きです」と答えた。
ところが同級生たちは本を読まないらしく、先生が「自分の娘は、漫画本ばかり読んでいる。だから漫画本を破ってやった」
ボク「かわいそう」
「すると娘は、その本は友達に借りたものだという」
「そりゃあ、あかんやろう」
同い歳の先生が、3歳の子供がいるというので、その娘は小学生かと思っていた。暁梅から「中国人は、漫画など見ない」と聞いていたからだ。大学生は、アニメなら見るらしい。
あとで卒業パーティに行ったとき、20ぐらいの美女が先生のそばにおり、近くの人から、それが先生の娘だと聞かされてビックリした。話から娘は小学生だと思いこんでいたのだ。
『中国可以説不』という本が出たときも、クラスの連中は誰も読んでなかった。地下鉄の駅でも、どこでも至る所にあった。ついには、そっくりな装丁で『中国何以説不』などという、類似品も出た。可と何で、ニンベンが違うだけである。しかし中身が違っていた。さらに『中国為什麼説不』などの本も出て、類似品にご注意くださいと注意書きまで添えられていた。
それだけ反響の大きかった本だが、クラスの連中は誰も読んでいなかった。まあ、中国はリッパになったのだから、アメリカにノーと言えるというような内容の、愛国的というか右翼的な本だった。先生は、それを読んで、中国が外国に戦争を仕掛けるのではないかと非常に心配していた。この本が登場するまでは、中国人は陽気な人々だったのだが、その本の影響で現在のような闘争的人になったのではないかと思う。もちろんセーラームーンが水手月亮だなんて、誰も知らない。だから先生と、ボクだけの会話となり、他の人がオシャベリに加われないことがママあった。クラスメートたちは、ベストセラーはおろか、漫画本も読まないらしい。テレビのニュースだけは見るらしい。こちらはニュースは宣伝番組と思っているから、ドラマしか見ない。
高級班の連中でさえ、ベストセラーを読まないのだから、この北京大学の日本人六人は、ただミュージックテープをあさりに来ただけに違いない。もし頭が良ければ、不便なのに六人も一緒に歩くわけがないと思う。北大の日本人留学生が、どれぐらいのレベルか、あとで知った。
ボクも北京大学を見に行ったことがある。タイ人が、友人を訪ねて行くときに参加したのだ。タイ人は華僑が多いし、ほとんどが上級クラスなので、会話に不自由がない。アメリカの州まで、全部中国語で言えるような連中だ。
暁梅がどんな大学で勉強しているか興味があり、同室と一緒に行ったことがある。土曜日ごとにダンスパーティが開かれ、我々が学校へ行ったときは、二人の女子大生がダンスパーティ券を買っていた。暁梅と違って美人である。
あとで暁梅に聞いたら、北京大学の試験の平均点は97点ぐらいで、自分も家庭教師料が溜まったから、家庭教師を辞めて授業に専念しようと思っていると聞かされた。そしてソ連との外交官になろうとしていること、北大の学生は、ほとんどは図書館にこもって勉強しており、ダンスパーティーに行くような学生は劣等生であることなどを聞かされた。
当然にして、北大の日本人留学生も同じだと思った。しかし北大の学生が、遠い王府井までミュージックテープを買いに来ること自体が、不思議なことだった。
ある日、扉がドンドンと叩かれた。開けてみると、見知らぬ女性が立っている。どなたですか?と聞くと、北京大学の大学院生だという。何の用事ですか?と聞くと、暁梅が来られないので、代わりに来たという。
その女性は「自分の言うことが判るか?」と聞く。同室は、授業にこそ出ないものの、毎日昼からは政法大学の女子大生寮に入り浸ってダベっている。判るに決まっている。だから我々は、「そりゃあ当然、判りまっせ」という。
すると女性は「授業で、先生の喋っていることは判るか?」という。授業が聞き取れなければ、授業にならない。我々は、声を揃えて「判らなければ、授業に出ている意味がない」と言った。
すると女性は、急に怒り始めた。
「あんたら、そんだけ言葉ができるのなら、どうしてこんなところにいる。さっさと自分の大学に行って、専門の勉強をせい!」
これには我々は困ってしまった。同室は、貿易などの勉強をしに来ただけだろう。ボクは中医学院だ。語言にいて王府井新華書店へ通いながら、中医の本を買ってきて、読む練習し、中医学院での授業に備えている。今すぐに経貿大学や中医学院へ行けと言われても、心の準備ができてない。それに暁梅は、妹が中医だから、中医漢語を教わっている。漢方薬など読み方が特殊なので、北大の院生では間違ってしまう。最初は孫穎にも中医漢語を習っていたが、漢方薬や病名で、あまりに間違いが多いから現代中国語の授業をして貰っている。北大の院生に、教えられるわけがない。
正直言って、こんな言葉が出るとは思わなかった。そこで我々は、授業をやめて、この女性にいろいろと質問することにした。
「ボクらが喋れると言われるけど、北大は名門大学だから、我々より中国語が喋れるのではないですか?」
「いや、北大の日本人は、私が授業しているが、こっちが何を言っても判らないし、しゃべる事もできない」という。
王府井で出会った六人組が頭に浮かんだ。「私ら北大!頭いいから」
何が頭いいからだ。アホの集団じゃないか。そういえば店員に、どのミュージックテープが売れ筋かも聞かず、さっさと逃げるように去っていった。
「でも北大は語言と違って、一般の大学だから、何を言っているか判らなければ、中国人学生と一緒に授業を受けて、90点以上の点数を取るなんて、無理ですよ」と、反論する。
「そりゃあ、昔は一緒に授業を受けていたかも知れないが、今はクラスが分かれている」と院生。
「だけども授業内容が聞き取れなければ、専門授業を学ぶことなんかできない。いったい彼らは、何を勉強しているのですか」
「そりゃあ、習字ですよ」
それを聞いて、我々は唖然とした。確かに習字ならば、言葉など必要ないだろう。
我々は、ちょっと前に、北大へ暁梅を尋ねに行ったときのことを思い出した。暁梅は、毎日図書館で勉強しているという。そこで図書館へ行ってみた。語言と違って本が多く、中国人が鬼気迫るといった感じで机にノートを広げ、何やら勉強していたので、我々は場違いなところへ来たと思って、暁梅を捜すのをやめて、早々に退散した。そういえば図書館には、中国人しかいなかった。語言の図書館も、いまはグランド脇に移転して、吹き抜けの大きな建物になっている。昔の語言の図書館は、四階建ての小さな建物だった。ボクも、たまには行ったが、ろくな本がなく、机は中国人が占領して勉強していた。なぜか図書館は、男の学生が少なく、女子学生が多かった。北大も同じだった。当時の中国人の女子学生は上品で、ビックリしたときは「アイヨー」とか、可愛らしい声で悲鳴を上げていた。そして当時の日本人女子学生は、ビックリしたときに「グェッ」とカエルを踏みつぶしたような声を上げていた。95年には、中国の女子学生もビックリしたときに「アヨー」とは叫ばず、広東語で「ワッセ」と叫ぶようになったので、なんや、お祭りで御神輿かついどるのかと腹立たしくなった。時代とともに叫び声も変わる。
小説にある若い女性の絹を裂くような悲鳴とは「グェッ!」なのだ。カエルの歌は、悲鳴の輪唱だったのだ。もうちょっと長引いた驚きは「ゲゲゲゲゲゲッ!」である。
こうした悲鳴一つとってみても、我々が日本姐ちゃんに魅力を感じず、「アヨー」の中国姐ちゃんに走るのは当然ですワナ。もっとも中国人男は、日本人女性が好きなようだけど。
「アヨー!ニイ、シャアスーラ、ウォー」と言われた方が、「グエッ!ゲゲゲゲゲゲェーッ!ビックリした」と言われるよりいい。とにかく昔の中国人女子学生は可愛かった。これが「ワッセ」のイメージに変わったのは、95年に戯劇へ行ったときからだ。
周口店
語言の短期コースは、言葉の学習コースと言うより旅行コースだった。授業が終わると、土曜日ごとにバスで市内見物に連れていってくれる。河野さんに誘われて、何度か劇場見物に行った。何でも、行かない人もいるから、バスも座席も空いているので、誰が乗っても判らないという。どうせ余分の座席があるという。なるほど、集団で行くので、いちいち誰がいるのか数えない。河野さんも喋れるのがいるほうが心強いので、劇場に連れていって貰った。河野さんは3か月の短期留学なので、しばらくすると帰ってしまった。しかし、これによって学校のバスは、誰でも勝手に乗れることを学習した。
授業に出ると、先生が「明日は一系の遠足があります。場所は周口店です」という。
このころ、僕らのクラスは六人に減っていた。男はカルロス、ハリラ、ヘリップ、ルシオ、マリーだ。大勢いた同級生は、アメリカの大金持ちが帰ってしまい、イギリス人は肺結核になって帰ったといい、ロスはオーストラリアに帰ったといい、東欧諸国から来た白人女どもは自分の希望と違うということで他のクラスに移ってしまい、女のマリアも気が狂って帰国したという。ウリシンは中医へ移ってしまった。だから無事に北京中医へたどり着けたのは、ハリラ、ヘリップ、ルシオ、マリーとボクの四人で、カルロスは上海中医学院へ行った。そしてマリーは気が狂ってしまい、本科生はハリラとルシオだけになってしまった。なんでもマリアの気が狂った理由は、ボクに失恋したからだそうだが、こっちは言葉も通じないラテン女の恋心など、知る由もない。
というわけで、我々は男六人、プラス武田のおばちゃんの七人だった。
授業から帰ると、レトロ君に「明日、うちのクラスが周口店へ行くらしい」と伝えた。レトロ君は喜んで「それは行ってみたい」という。
次の日は、朝から周口店だった。うまいぐあいに一系の日本人は乗ってこない。最初はボクも一年生クラスにいたので、一年生の日本人も知っている。男二人、女一人いたのだが、誰も遠足に行かないらしい。そのうち一人は、明治鍼灸大学出身であり、趣味で日本人の女留学生相手に、いつも鍼を打っているという噂なので、遠足など来るわけがない。
彼は身長が高いので、日本人女性が鍼を打ってもらうのに行列しており、えらい人気だという。ボクなどに鍼をしてくれという人間は、張かハリラぐらいなもので、女子留学生には見向きもされない。彼は、語言で満足したのか、ついに中医には来なかった。
一年生の中医日本人がいないから、座席が空いているはずだ。日本人はいないのだが、白人がいっぱい乗っている。隣の科学系は、東洋人の姐ちゃんが一人だけで、あとは黒人ばかりなので、白人がこんなに乗っているわけがない。おおかた一年生の中医クラスだろう。
ワクワクしながら乗っていた。そして先生が乗ってきた。自分の座る席がない。それを見ると
「なんで、こんなに人数が多いのだ。こんなに一系がいるわけがない。一系でないものは降りろ」という。
ところが誰も降りない。レトロ君も知らんぷりしている。そこで武田さんが生け贄になった。
「ちょっと、一時的に降りてくれない。あなたは一系じゃないのだから。何とかするから、ちょっと降りてくれない」という。
我々のクラスの連中が騒ぎ出す。三系であっても、自分のクラスで現代漢語の授業を受けていると、仲間意識が湧くらしい。
結局は、もう一台のバスをチャーターすることになり、無事に武田さんはルシオの隣を確保した。一時的に不安な顔になったが、9カ国語を流暢に喋るルシオの隣に座れて、さっそく不明な言葉で喋りだした。おおかたフランス語でも喋っているのだろう。
周口店は遠かった。北京から南に向かい、建物のまばらな踏切を渡って、ただただ田んぼの中を進む。そして博物館のある山へ着いた。そこでは可愛らしい小学生の集団が遠足に来ていて、記念写真を撮っていた。
博物館で、北京原人の骨を見たり、出土品を見ていたりした。するとレトロ君が「ちょっと山を回ってみましょう」という。
回ってみると、北京原人が住んでいたと見られる洞穴があった。真っ暗になっている。
「浅野さん。私、あそこでしゃがみますから、写真を撮ってください」とレトロ君。
「今度は、交替です」という。
そこで真っ暗闇の中を、その隙間に向かって進むと、いきなりグニャリとしたものを踏んづけた。ウンコだった。
「もしかすると、あそこでウンコしたな」とボク。
「そのウンコは、北京原人のものですよ」とレトロ君。
なるほど、彼にウンコをする時間はなかったはずだ。しかし北京原人のウンコなら化石化しているはず。おおかた、ここに来た中国人が、洞穴の中でウンコして行ったに違いない。レトロ君は、ちょうどウンコを跨いで写真を撮ったのでウンコを踏まなかったのだが、そんな暗いところへ行きたくなかったボクは、そのウンコを踏んずけたに違いなかった。
レトロ君がしゃがんでいる尻の下には、生々しい黄色なウンコがとぐろを巻いているに違いない。
中国の靴は、底が薄ので、ウンコを踏むと大変だった。ボクの写真は、洞窟の裂け目で、ウンコを踏みながらピースしている写真が残っている。
これで帰るのかなと思ったら、こんどは盧溝橋へ行くという。橋を渡っていると、どこからかパカパカと音がした。見ると橋の上を馬が走ってくる。みんな危険だから左右に分かれる。乗っているのは白人だ。あとから中国人が追いかけてくる。
白人は、馬を止めると、馬から降りた。なんでも乗馬をやっているという。その馬は、おそらく記念写真用の馬だ。それに跨って、記念写真を撮るものだ。持ち主も、まさか白人が人混みの中を走らせるとは、思ってもみなかっただろう。ほんとうにメチャクチャしよる。
川岸には、戦車と戦闘機があった。それに乗って記念写真を撮る。そして売店から城壁のようなところへ登った。すると五人のモデルがいて、写真家がいて、モデル相手に写真を撮っている。我々もこちら側からモデルを撮る。
一緒に行った人によると、ボクが写真家より前に出て、写真を撮っていたらしい。
結局、周口店へ行ったときの記念写真は、ほとんどがモデルを撮った写真になったしまった。
孫穎に周口店へ行って来たというと、写真を見せてくれという。ウンコを踏んずけている写真を見せるわけにもゆかないので、そのモデルを撮った写真を見せた。すると孫穎が
「なんで、この女の子達は、こんなに美人なんだ」と聞くので、「彼女らはモデルだ」と答えた。
一系は、この事件によって、遠足で人が増えることを知り、それからは遠足がなくなった。まったく一系は、白人がほとんどいないはずなのに、どうしてウジャウジャ湧いてきたのだろう。それは初めての一系だけの遠足だった。しかし同室は、地下城とか、ほかの遠足にも連れていって貰っていた。
漢字
授業の一環として、中国の歴史を勉強することになった。語言では、病院へ遠足に行くこともあったが、あまり面白くなかった。産婦人科の鍼麻酔と、沙攤の病院へ行った。感想を書けと言われ、それぞれみんなが感想を書く。みんな黒人や白人なので、漢字に慣れていない。そんな中に一人混じっていると、周囲は外人だと思ってしまう。そこで鍼灸に対する批判めいたことを書いたら、みんながホッと感心する。何を驚いているのだと思ったら、「何と綺麗な字だ」と言う。当たり前だ。外人だといっても、漢字を書き慣れている。ルシオのように、下から漢字を書き上げてゆくような素人とは違う。本当に彼らは、好きなところから筆を入れてゆく。そして好きなところから線を繋ぐ。だから形がバラバラだ。
ある時授業で、已と己、巳の違いについてやったことがある。お前ら、みんな字を間違えていると。
それで生徒達は、この三つの文字は、みんな同じだという。先生は、「己は離れていて、巳はくっついている」という。
ルシオが言った。「己と巳が違うことは判った。じゃあ已はどうなんだ。己と同じじゃないか!」という。
「已は少し出ている。己は、出ていない」
「じゃあ、已の下が出て、ほとんど上とくっつきかけて、巳に近ければどうなるんだ!」と聞く。
「それでも少しでも離れていれば已だ」という。
「でも、文字としては、ほとんど巳じゃないか!」とルシオが怒る。
みんなも怒って、「そうだ!そうだ!そんなのインチキだっ!」と騒ぎ出す。
そうすると先生は困って
「そんなこと言うが、チェンイエは、ちゃんと区別を付けている」。そういわれると、みんなが困ってしまう。
ウリシンなど華僑がいなくなったので、クラスでは東洋人がボク一人。
「外国人の浅野が違いを判っているのに、お前らはどうして判らないんだ」と、先生はたたみかける。
つまり、同じ条件で、楊州訛バリバリで、何を喋っているかサッパリ判らなかったチェンイエが区別を付けているのに、お前らのように二年目の奴らが、判らなければアホだという意味だ。
しかし、これは卑怯な論理で、日本人は最初から漢字で読み書きしている。だから外国人といっても香港人のようなものだ。最初から已との区別など判っている。
バス
昔は、語言からバスを使って王府井へ行くことは、大変なことだった。なにしろパスは、自転車にドンドン追い抜かれる。現在より車が少なく、ほとんどバスしか走っておらず、対向車にあうこともなかった。ただ真ん中の折れ曲がるところに荷物を置いておくと、カーブで車外に落ちる可能性があったので、注意しなければならない。語言へ行くバスで、繋ぎの着いてないバスは、郊外へ行く980とかいうバスだけだった。それは成府路で降りると、語言の正門前に着く。
まず王府井から311で北海公園を通り、地安里で降りる。そこから新街口へ行き、331のバスに乗って帰る。バスがのろいので、すごい時間がかかる。のちに地下鉄を利用すると早いことを聞いた。しかし、それにしても積水潭から北太平荘へ行って、331に乗り換えねばならない。375は、西直門から乗り換える。当時は地下鉄の値段が2元だったので、バスに比べたら相当に高い。そのうち3元になって、いまは5元だ。バスの値段は1元、上海では冷房付きが2元。どのみち王府井から地下鉄に乗ろうと思ったら、崇文門か北京駅まで出なければならないから、103か104を使わねばならない。いずれにしても、かなり時間がかかる。4環路ができてから、331も花園路を通らなくなり、よく行っていた朝鮮料理屋も、道路の拡張に伴ってなくなってしまった。アジア運動会のころ、1990年頃から道路を拡張し初め、バスの路線もすっかり変わってしまった。四合院も消え去り、広い庭を備えた高層ビルに変わってしまった。昔は、外の庭で床屋さんなんかがやっていたが、みんな美容院になってしまった。
今は、復興門から王府井、建国門を結ぶ地下鉄が開通しているが、当時は復興門までしか地下鉄が来てなかった。それらしきものは建国門にあったが、「閑人住歩」と看板があり、長いこと工事していた。それこそ「愚公山を移す」という感じ。それから西単まで地下鉄が延び、天安門まで来たと思ったら、すぐに王府井、建国門まで繋がった。しかし西直門から375に乗って語言に行こうと思っても、現在の学園路は大変な混雑で、歩いていった方が早いぐらいだ。だから積水潭から331に乗り、四環路を通って語言へ行った方が早い。それも混むが、語言まで地下鉄が通ってくれれば一番よい。
そういう状況だったから、王府井から自転車と帰りを競争すると、彼らのほうが遥かに早く帰っていた。
当時の王府井百貨大楼は、現在のように一階で食品や電気器具、2階が衣料品やDVDやVCDを売っているわけではなく、水煙草の煙管とか、ワケの分からないものを売っていた。階段だけでエスカレーターもない。ましてや地下街もなかった。上海も同じで、外灘など、ただコンクリートの防波堤が続いていただけだった。
とにかく王府井も、南京路も、六時になると閉店し、南京路では7時でも開いている食料品店は、一つしかなかった。いまでもその店は、大きなビルに取り囲まれながらも生き残っている。
例えば、昔は前門から、万里の長城行きの観光バスが出ていた。十三庫ダム、明の十三陵と通って、万里の長城に向かうが、当時の発車時間は8時だった。それでも夕方には帰ってこれた。94年に同じバスに乗ったときは発車が7時、そして語言の前が一向に進まず、帰ってきたのも夜の7時だった。明るいうちに帰ってこれなかった。とにかく88年当時は、地下鉄の意義があまりなかったが、あとになってマイカーブームとなり、道路が混雑し始めると、どうしても地下鉄が必要になる。だから初めのうちは、地下鉄の価格が高いため席に座れたが、いまでは座れなくなってしまった。茶髪に染めた姐ちゃんが、携帯電話を手に電話している姿は、日本の渋谷を歩いているかと思ってしまう。
中国のバス停は、時刻が書いてない。ひどいときは四重連で、バスが来たことがある。だいたい20〜30分に一本ぐらいの割合でバスが来た。深夜バスは、時刻が書いてある。一度など、バスが早く帰りたいためと思うが、最後のほうで停留所をとばしたことがある。各駅のバスなのに、突然に特急になってしまい、降りようとしてタラップで準備していた人が、そこで大慌てしていた。しかしバスは、その後も停留所をとばし初め、最後の3個をとばして、急に終点になったことがある。こっちとしてはありがたかったが、タラップで降りようとしていた人は、また帰りのバスを待たねばならない。
第二外語へ行ったとき、当時の第二外語は北京の東にあった。周りは、見渡す限りの畑。帰ろうとしたら、バスがエンストした。車掌が、みんな降りて押してくれと言う。みんなが降りて押し始めた。そこでいいというと、みんなが次のバス停で、バスを待つ。料金は返して貰えない。
月初めになると、みんながバスの始発で、定期券を買うために並ぶ。写真を一枚もって並べばよかった。何年も昔の写真を使っている人もある。
今は立派な停留所だが、昔の停留所は、看板が一つ立っているだけだった。それすらないところもある。
また、料金を払っているのに、受け取ろうとしない車掌もいた。運賃が安すぎるので、受け取る気がしないらしい。今のように一元になるとうるさい。昔のように20人乗せて、やっと1元では、やってられないだろう。上海に行ったとき、こっちが外国人だと判ると、自分の給料は幾らだと思う? 60元だと苦情を言ってきた車掌もいる。外国人に苦情を言うほど、車掌の給料は安かった。現在ではワンマンバスもあるので、乗車するときに料金を払わねばならない。バスの支払形式は、地方によって違うようだ。北京では、アジア運動会のころには、各停留所におばちゃんがいて、降りる乗客が切符を持っているかどうか調べたり、それまで我勝ちに乗り込んでいた乗客を整理したりしていた。このおばちゃんたちは、一年ほどでいなくなった。
天安門騒ぎ後のバスは迫力があった。なにしろバスのガラス窓に、銃弾の痕があった。
総じて昔のバスは、給料が安いので、やる気がなかったが、なかには「向雷峰学習」と書き、青年先鋒隊とかタレ幕のかかった、やる気を見せているバスもいた。どこが違うかといえば、バスがキレイに掃除されており、バスの窓には三角旗がたくさん着いていた。ちょっとみると旗の抵抗でガソリンを食いそうだが、屋根のところに紐を張り、赤や青、黄色など原色の三角旗がいっぱいついて、ヒラヒラさせながら走っていた。この旗に、何か意味があるのだろうかと思うのだが、たぶん他のバスとの違いをアピールしたいのだろう。こうしたバスに乗り合わせた車掌は大変だ。そのうちやる気も失せるだろう。
くるみ
語言の道を歩いていると、タイ国人が集まってなにやらしている。みると緑色したゴルフボールのようなものを、棒きれで必死に擦って皮を剥いている。「何をしているのだ」と聞くと、これはクルミで、中身が食べられるという。それは学校で、たくさん植わっている丸い葉っぱをした木だった。そんなものがクルミのハズないと思っていると、中から確かにクルミらしきものが現れた。
クルミは外で、たくさん売っている。タイ人が、食べてみろという。クルミは、炒ったものを売っている。生のクルミなど、食べられるだろうか? タイ人たちは食べられる。おいしいという。食べてみると、生のクルミは、また炒ったクルミとは違った味だった。すると中国人のオッサンが来た。「お前達。何をしている」と聞く。誰も返事しない。おっさんは「これは学校が、金を稼ぐためにクルミを植えているのだ。取った奴は、罰金50元だ」という。それはおかしい。外でもクルミを売っているが、一個のクルミが50元なんて、そんな滅茶苦茶な値段があるわけがない。そこで言い争いをしていると、オッサンが行ってしまった。
それで丸い葉っぱをした、緑色の実が、クルミだと知った。よく見ると、観光地でもクルミが植わっている。何で農場でもないところにクルミが植わっているのか不思議だったが、何も知らない日本人は、そんな物には見向きもしなかった。
それに正面入口から、少し進んだ真ん中の広場には柿木がある。外では柿も売っていた。柿は好きなので買ってくると、孫穎が、そのままでは渋くて食べられないという。中国の柿は、凍らせないと渋くて食べられないという。ボクが、蔕にアルコールを注射すれば、渋みが抜けて食べられるというと、それはアルコールの味で、柿の味ではないという。中国人には、どう説明していいか判らない。かといって、ドライアイスで渋みを抜こうにも、中国ではドライアイスなど売ってない。
結局、柿は、そのまま腐ってしまった。座布団を敷いたような、富裕柿のような四角い柿だった。どうやら中国では、干し柿にするらしい。
クルミは、脳によいという。なぜと聞くと、クルミは、脳味噌に似ているからだという。中国の発想は単純で、動物の肝臓を食べれば、肝臓の薬になるという。だからクルミは脳に似ているから、脳によいという。確かに脳には似ているが、殻を剥かれた、その姿は、かなり萎縮が進んだ脳の姿にしか見えない。脳軟化症の脳なんか食べて、ほんとうに脳にいいの?
クルミを買っても、中国にはクルミ割り人形もない。また尻に差し込んで割る三角もない。中国人は、どうやってクルミを割るのかなと思う。石で叩けば飛び散るし、手で割ると疲れる。
すると中国人は、ドアの蝶番にクルミを挟んで、ドアを閉めるときの力で割るらしい。テコの原理を利用している。中国人って、頭いい。
アッシー君
妹と間違えたイモトだが、いろいろと新しい情報を語言にもたらしてくれる。少年マガジンとか漫画を読んでいるから、エエ歳して、漫画なんか読むんじゃないというと、「遅れてますね。今は情報は、漫画で得るのですよ」という。ボクもドラエモンを中国語で読んどるわ。
最近は、語言で、男がカレーなどを作り、女を招待して食べさせている。これはおかしいではないか?と文句を言う。
ボクも同室も、中国人の姐ちゃんとしか付き合ってないので、日本の姐ちゃんのことは、サッパリ判らない。するとイモトは
「淺野さん。遅れてますね。そんなことでは、結婚できませんよ」という。
いいんだも〜ん。そんな無精な日本人女と結婚するぐらいなら、中国姐ちゃんと結婚するもん、と思いながらも、
「それって、どういうこと」と聞く。
「淺野さん。貢くん知ってます。アッシー君しってます。メッシー君って知ってます」とイモト。
「貢くんは知ってるよ。アッシーも知ってる。メッシーは知らないけど、クッシーなら知ってる」
「クッシーって何ですか?」
「クッシャロ湖の怪獣だよ」
「じゃあアッシーは?」
「芦ノ湖の怪獣。メッシーは知らなかったなぁ?」
「じゃあ貢くんは?」
「どうしてあんたが貢を知っているのか判らないが、中学校の同級生の永島貢だ!」
「違いますよ、淺野さん。まぁ、これを見てください」と、イモトはプレイボーイなる雑誌を取り出す。
それを見ると、アッシイとは、姐ちゃんの足として利用される車を持っている男。貢君とは、いろいろと品物を貢いでくれる男。メッシイは、食事をおごってくれる男と書かれていた。
えっ、世の中、こんな風になっちゃったの? 中国人の姐ちゃんと付きあっといて、よかった。
言葉が不自由で、日本の留学生としか付き合えない彼らが、なんだかかわいそうになってきた。
日本人が、そんな風になったことを証明されたのは、日本に帰るときだった。
そのころ燕京号という船が、天津港から出港することになった。語言の下駄箱に、宣伝のチラシが入っていた。池下の姐ちゃんが、それに乗って帰りたいから、一緒に帰ろうという。そこで一緒に天津へ、切符を買いに行くことになった。池上貴実子なら女優だが、池下では女優並とはゆかない。
彼女は、中国語の発音はペラペラ、ほとんど現地人と変わりない。だいたい男は発音がうまくならない。そして彼女に連れられて、切符を売っているという銀行へ行った。なんだかよく知らないけど、自分で聞き取らなくてよい旅は楽なもんだ。
女の行員と喋っているのに任せて、ボクが少し外を見ていた。すると池下さん、とつぜんボクの手を取って、「ちょっと、この人、いったい何を言っているのよ」と引っ張る。行員の言うことを聞いてみると、そこでは切符を売っておらず、留学生は割引するというのは、日本の留学生のことではなく、中国人で日本へ留学する学生のことだという。
彼女の発音の完璧さから、ちょっと聞き取り能力に劣ることが判ってビックリした。発音が奇麗なことと、聞き取り能力とは、関係がないのだろうか?
どうやら切符は、本部に行かないと売っていないということで、その場所を聞いたが、そのころには昼になっていた。とりあえず銀行前にある露天のうどん屋で麺を食べることにする。するとドンブリ代を5角払えと言う。びっくりした。
北京では、ビールを頼むときに、コップにコップ代を払う。そしてコップを返すと、コップ代を返してくれる。だけどもドンブリ代を払えというのは、初めて聞いた。こんな欠けたキタナイどんぶりなど、盗む奴がいるだろうか? ともかくドンブリがないと麺が食べられないので、ドンブリ代のディポジット料金を払ったが、他の地域ではドンブリ代など払ったことがない。まことに不思議な土地だった。そのあとバスに乗って歩き、一般のマンションのようなところで切符を買ったが、ドアに燕京号のポスターが貼ってあるだけで、本当にこんなところで切符を売っているのかいなと思える部屋だった。木の机が一つだけあり、そこにおっさんが座っていた。
天津駅から帰るとき、池下のお姐は「中国人は、何かと話しかけてきて、うるさくて困る」と、ぼやいていた。そうだそうだと同意したものの、ボクもサンマ並のお喋りなので、つい話しかけてきた中国人と話し込んでしまう。
すると一つ前の座席で、お弁当を食べ始めた。盒飯というやつである。発泡スチロールの箱に、ご飯が入っている。ご飯の上には、中華丼のように麻婆豆腐などがかかっているやつだ。それを食べ終わると、子供がオシッコと騒ぎ始めた。トイレに連れて行くのかと思いきや、オバはんは子供を座席に立たせると、食べ終わった発泡スチロールの空き箱にションベンさせ、子供のションベンの溜まった箱をイキナリ走る汽車の窓から投げ捨てた。窓の外に飛び散るションベン。バアっと広がる。
それを見て池下のお姐が怒り始めた。
「まったく、中国人はロクなことしよらん。窓からションベンが入ってかかったら、タダじゃあおかんぞ」
かかったワケじゃないからいいじゃないかと思いながらも、こっちは進行方向の上座に座っているから、もしションベンが入ってきたとしたら、池下のお姐に全部かかる。まあ、こっちもションベンをトイレに捨てに行くものと思っており、窓からイキナリばらまくと思ってなかったので、驚きはした。
「前に旅行したとき、三人部屋のドミトリーで、オバはんが部屋の中で子供にションベンさせ、そのションベンが私の荷物のほうに流れてきたわっ!あわてて荷物を取ったから、かからんで済んだけど」と、池下のお姐は怒っている。
ゲゲッ、そんなことがあったのか、と思いつつ、女部屋でなくてよかったと思う。ただ、台湾のホモおっさんに抱きつかれ、ボクも旅行では大変な思いをした。「我、喜歓イ尓」とか言われて、しばらく自分の部屋に寄りつけなかった。
こうして無事に切符を買い、北京へ帰って荷物をまとめ、天津港へ向かうことになる。天津港といっても溏沽だ。
翌日、タクシーで池下姐と待ち合わせると、彼女は20歳ぐらいの男の子を連れてきていた。大きな鞄を持っている。彼も船に乗るのかと聞くと、彼は自分の奴隷だという。ただ荷物をタクシーまで運びに来ただけだという。そして三人でタクシーに乗り込むと、その男が
「池下さん。今度来るときは、髪の毛を洗っていると、だんだんと毛の色が抜けてきて金髪になるシャンプーを買ってきてください」と頼んでいる。そして荷物を持って、北京駅まで来た。もうここで奴隷は帰る。なるほど、こうだったのか、日本人は、こうだったのかと再認識する。
汽車に乗って、溏沽駅で降りると、そこで荷物の重さを量られて、荷物の運び賃を取られた。田舎の駅では、荷物の運び賃をとるのだと初めて知った。そしてバスで田舎の港に向かう。天津港ではない。辺鄙な港だ。あとでは友誼商店もホテルもできたが、当時は引き込み線の線路と、朝鮮料理屋があるだけで、辺り一面がススキ野原だった。ちなみにススキは、中国語で芒草(マンツァオ)という。ハルピン人は狗尾巴という。
溏沽からはバスが出ていて、ワンマンカーだった。中国にワンマンカーがあると走らなかったが、のちには上海のバスもワンマンカー化した。すると池下姐がバスの中で
「さっきのアレ、なんて言ってたっけ?」という。
「アレって、あんたの奴隷が言ってたこと?」
「そうそう」
「なんか、頭を洗っていると色の抜けるシャンプーを買ってきてくれと頼んどったような気が」
「そうだった、そうだった」
「でも、そんなもの、本当に必要なのかな?」
「今の男は、おしゃれだけだ。それを頼んどった」と池下のお姐。
我々の感覚では、言葉を覚えて、中国の姐ちゃんに迫ろうとすることばかり考えて、おしゃれをしようなどという考えなど、まったくない。中国では、化粧をする日本女性は少ない。さらでTシャツ程度。
そうか、これがアッシーくんと呼ばれるものだったんだと気づいた。でも、そうするとボクは、池下姐の通訳くんということになる。
まぁ、アッシーよりましだろう。通訳は一回だけ、しかも短い言葉だけだったから。
日本人は美人?
語言に沿った道には、小さなラーメン屋さんがあった。そのラーメン屋も、たまには利用したが、何しろ手延べラーメンなので、太さはバラバラだった。太い麺や、細い麺が入り交じっているから、茹だる硬さはバラバラだ。
それでも麺になっていればよい。下手をすると、麺の両端がバラバラな麺とならず、塊のまま茹でてあるので、表面の一oぐらいは食べられるのだが、中身は粉のままという場合がちょくちょくある。そうした麺は、端の2〜3cmは食べられない。もしかしたら生の麺も食べるという強者もあるかも知れないが。これを経験したければ、ソウメンを広げずに茹でてみるといい。固まったまま、表面だけ食べられる。こうした具合だったので、ボクはラーメンでなく、朝鮮冷麺を温めたものを食べていた。熱麺と呼ぶ。
ソウメンもあった。龍須麺と呼んだ。うどんは山東麺だ。蕎麦もあったようだが、語言近くでは四川麺と呼んでいた。ちょっと蕎麦粉が少なかった。
一般に中国のラーメンは、練って引き延ばして茹で、それを塩水のようなスープに入れて、細切れにした牛肉を入れ、上にネギの代わりにシャンツァイを刻んだものをかけてある。香菜と書くが、日本ではコリアンダーという名前だ。それにラー油というか、粉トウガラシを油で炒めたものをかけたりする。ラー油というより、粉トウガラシの油浸けだ。
ある日、日本人がラーメンを食べたいという。ボクがよく行く朝鮮料理屋の熱麺がよかったのだが、まあラーメンを食べたいというので、ラーメンを食べに連れていった。現在では北太平荘に8番館などという日本ラーメン屋があり、行列ができて食べられなかったり、あちこちに甘いスープの札幌ラーメン屋があるが、当時は崇文門にある新僑飯店の一階でしか、ラーメンやカレーが食べられなかった。それも茶色な麺だったし、客もまばらだった。現在の日本ラーメンが、中国人に受け入れられて行列して食べられないのに比べ、語言から地下鉄に乗って、崇文門の新僑飯店では、ラーメン屋のカウンターはガラガラだった。階段を上り、一階にある1メートルほどの隙間から入った店ではパンも売っており、北京で唯一パサパサでないパンを食べられる店として、よく日本人が買いに来ていた。
その縦に線の入った灰色レンガの建物も、93年頃には壊されて、レンガの見えないコンクリートの建物に変わってしまった。
語言にあるのは、そんな日本ラーメンではない。中国式の練り麺。だから太さがバラバラで、端っこの太さは無数の麺が集まって、直径1pぐらいの束となって茹だっている麺だ。
レトロ君と、語言前のラーメン屋に行った。日本人は一般に香菜が嫌いだ。そこでシャンツァイ不要と言った。すると拉面が一向に出てこない。どうしたのかと思って、ちょっと請求して来るというと、「あのラーメンまだ?」「シャンツァイ不要
口馬?」「シャンツァイ不要」と、また帰ってくる。そのうち(これは変だ)と思って、「どうしてラーメンが出てこないのだ?」と聞くと、店主が「だって、あんたシェンザイ不要と言ったじゃないか!」という。「いや、あれはねぇ、現在不要と言ったんじゃなくて、香菜不要と言ったんだ」とボク。
「なるほど、そうか」と、しばらくしてラーメンが出てきた。今まで、こんな事はなかった。だいたい注文するのは、現在食べたいから注文するのであって、現在不要なら、必要になってから注文する。ボクの発音が悪いにしても、あまりにも推理力のない親父だ。そこでラーメンを食べていると、親父が「日本人は美人なのに、ここの日本人は、ちっとも美人じゃない」という。
そういえば暁梅も、語言に最初に来たとき、語言には日本人がいないと言っていた。それで
「何を言う、あの学生も日本人だし、この学生も日本人だ。到るところ、日本人だらけじゃないか!」という。すると彼女は
「日本人は美人だ。だけど、ここの学生は美人じゃない。だから日本人じゃない」という。
「いったい、お前の言う日本人とは、誰なんだ?」と聞く。
「中野良子とか、栗原小巻とか」
「うう、ううっ」
彼らは、映画やテレビでしか日本人を見てないのだ。しかも知っている日本人は極めて少ない。いまで言えば、スワップと西田俊之ぐらいしかしらない。だから日本の男は、キムタク、ゴロウ、中井、クサナギ、慎吾、そして西田俊之が終わったら、またキムタク、ゴロウと繰り返す。このセットでグルグル一巡し、それ以外の顔をした日本人がいないと思っている。だから彼らは、日本人が攻めて来たぁといえば、スワップのメンバーと西田俊之が横一列に並んで進んできて、それを倒すと、また同じような顔した一列が進んでくると思っているのだ。ようするに金太郎飴のようなものである。どこを切っても同じ顔。現在の中国人は、情報に溢れているから、こうである。しかし、当時の中国人は、現在より、更に情報が少ない。
当時の彼らのイメージでは、女は中野良子と栗原小巻、山口百恵、そして男は高倉健と宇津井健。この五人が横一列に歩いてくるとしたら、それが日本人である。
「だったらボクは?」 「あんたには中国人の血が入っているから、彼らとは顔が違う!」と中国人の同級生がいう。
ホンマかいな! 彼らにいわせれば、日本人は徐福の子孫だから、ボクには中国人の血が流れているという。
そりゃあ、中国人はテレビや映画でしか日本人を見たことがない。だから女優や男優が日本人だと思いこむ。だからボクはハズレ、日本人じゃない。つまり日本人は、美男美女である。なるほど。
やはり、このラーメン屋の親父も、同じ疑問をボクに投げかけてくる。
「前から疑問だったんだが、日本人は美人なのに、どうして、ここの日本人はブスなのだ?」
彼らを納得させるには、これしかない。何せ彼らは、ドラマや映画でしか日本人を見たことがないのだ。
「あんたが見る日本人は、ここの日本人より老けてるだろう」
「うん、そうだ」
「日本の女子学生は、大学を卒業するときに、結婚や就職を有利にするため、みんな美容整形をするんだ」
親父はビックリした。
「つまりあんたが目にしているのは、みんな整形する前の大学生なんだよ。彼女らは、これから整形して、中野良子や栗原小巻になってゆくんだ」
「なるほど」と、親父。
するとレトロ君に、日本語で「いい加減なことを言うんじゃない」と、怒られた。
まあ日本人も、中国の女優さんを見て「中国人は美人だなぁ」と思っていることだろう。選ばれた美人しか、女優になれないのだから。特に中国では。
中医に行ったときも、中国人の学生達に日本人女性を紹介してくれと言われた。3人ほどいたので、ここの学校にもいるじゃないか!と答えると、「あんなんじゃなく、ちゃんとした日本女性を」
「ちゃんとした日本人女性とは、なんなんだ?」と、聞くと、
「栗原小巻や中野良子のように、美人で、男がわがままで、殴っても、がまんづよく耐えて優しくしてくれる人」という。
ぜいたくなこと、いいよる。
「あのねぇ、ちみ。あんたらの映画で、女優がウンコしたり、顔洗ったり、足踏まれて罵ったり、買い物で値切ったりする?」
「いいや、しない」と、小海。
「テレビで見るのはね、みんな女優なの。彼女らは、理想の女を演じているワケよ。だけど、そんな美人で優しい女なんて、どこにもいやしない。だから、せめてドラマや映画の中で、美人さんに演じて貰っているもらっているわけよ」
彼は、ぐっと詰まる。
「彼女らも、元から、あんな顔してたワケじゃない。女優になるためには、選考会で選ばれねばならない。そのためには整形してたほうが有利なワケよ」
フンフン
「あんた、日本の女は殴り返さないというけど、そりゃ素手では殴り返さないと思うけど、殴ればフライパンぐらいで殴り返されるわな」
だんだん沈んでくる。
「あんたは、アッシーとかメッシーとか、クッシーとか、貢くんとか知らんわな」
当然にして、知らんという。ボクが知らんぐらいだから、中国人が知るワケがない。
「日本では、男が足となって車で送ってやり、メシを食わせてやって、名牌品を貢いでやらねばならん。そんなにしても、机の引き出しを開ければ、そこにウンコが!椅子に腰掛ければ、そこにウンコが!という状態だわなっ」
「中医の日本人女は、それに較べたら、だいぶんマシなほうだわな」
「まあ、ええやろ。ボクみたいに中国姐ちゃんがいいというものもあれば、あんたのように日本姐ちゃんがいいというものもある。そうじゃなきゃ、バランスがとれんわな。まあ、それでいいというのなら紹介しよう」
「いらんわ!そんなん」
どうやら、この一件によって、我がクラスの中国人の日本女性好きは、収まってしまった。
このようなボクは、戯劇に行っても、山野というトイレの近い男がいたとき、先生に「先生、トイレへ行って来ます」と手を挙げると、「撒尿去了
ロ馬?」とか挨拶していた。同い歳の先生が、「もうちょっとキレイな言葉を使いなさい」というので、「慢慢拉
ロ巴」とか挨拶していたので、「この日本の男は、まったく」と、思っていたに違いない。慢慢拉屎!
王府井の全聚徳
ボクは、食い物に関心がなかった。だけど、さすがに語言のドブ臭い飯は、食べづらい。そこで正門の床屋を入った所にある食堂へゆくのだが、そこの米飯はマシだった。冷めてはいるが。通りの右側に面した店では、野菜を売っている。
その突き当たりにある、太い二本の柱がある門をくぐり、中に入ると、結構広い食堂だ。真っ白い食堂で、なぜだか日本人はあまり来ない。冬になると虫旁 蟹料理などを売っている。60元もするので食べないのだが、けっこう客が多い。みんな何を注文するかと思えば、焼きそばのような代物だった。
米飯は、上に直径が3oぐらいの石粒が乗っている。そして籾も2〜3粒ある。当時の中国では、ホテルの食堂以外では、米飯を頼むと、たいていこんな風だった。焦って米飯を食べてはならない。焦って食べると、籾を噛んでしまう。小石を噛んでしまうと、さらに倒黴だ。たいがいは小石のほうで割れてくれるが、吐き出した方がよい。こうして一口ごとに籾やら小石を吐き出しながら食べなければならないが、語言のドブ臭い米飯よりマシかもしれない。
そこの焼きそばらしきものは、まあまあで、安かったから昼食時は、けっこう満員だった。みんなを見ていると、焼きそばを注文する。山のように焼きそばらしきものが積み上げられており、注文して切符を買うと、係員が皿に焼きそばを盛ってくれる。どうやら茹でた麺に、濃い醤のようなものをかけて混ぜたものらしい。これなら砂粒や籾が混ざってない。
のちに知り合った中国人に、当時の米飯は、なぜあんなに籾やら小石が混じっていたのか、中国の精米技術は、あんなにひどいのかと聞くと、それは税金を誤魔化すためだという。どうやら農民は、税金として米を国家に納めるが、重量で納めるため、籾やら小石を入れて誤魔化すという。なるほど、のちに中国から輸入した松茸やタラバガニに、釘やら鉛やらが入っていたニュースがあったが、あれはカニや松茸の重量を誤魔化すために入っていたのだと知った。国相手だからよいが、審査の厳しい日本相手では、中国のカニや松茸から鉛や釘が発見されたら、そのあとも入っていることが前提とされて、かなり価格を引き下げられたことだろう。
中国の食事といえば、こんな調子だったので、まず男は痩せた。女は、脂っこい料理が気にならないのか、何でも食べて太る。ただ不潔なものを食べて肝炎を起こす日本人といえば、たいてい女だ。男で肝炎を起こした話は、あまり聞かない。
ボクの同室は、酒のつまみとして安鳥 鶉蛋の瓶詰めを好み、ボクは蒸しアサリの袋詰めか赤貝、味付けカワハギの干したものを食べていた。安鳥 鶉蛋はウズラの玉子だったが、もしかすると字が違うかも知れない。カワハギは干魚片と呼び、一枚入って1.3元、大きいのは魚片王といって3元ちょっとだった。上海に行ったときは、量り売りして安かったので、大袋を60元で買った。これは日本の味付けカワハギと同じ味だった。蒸しアサリの袋詰めは、賞味期限が3ヶ月以内となっていたが、平気で過ぎたものを売っていた。張に「中国では、食品衛生法はないのか?」と聞く。彼は政法大学だ。
「ありますけどねぇ。そんなこと言ってたら、中国では食えないですから」という。なるほど。
90年代になると、こんな状況がなくなったのだが、当時の中国では、こんな食糧事情だった。
同室はキリンビールの缶を買っていた。中国のビールなど、まずくて飲めないという。ボクも、それを信じてキリン缶を買っていたが、あまりにまずい。裏の日付を見ると、2年も前のビールである。3ヶ月もすれば、日本ではビールを回収するらしい。そのあとは、おそらく東南アジアに輸出され、そこで回収されたビールが日本に回ってくるのだろう。腐っているからまずい。それが3元もする。コカコーラと同じ値段。あとでは、キリンがまずいので、朱江ビールに変えた。そっちの方が、なんぼかおいしい。
当時の北京では、主に四種類のビールが飲まれていた。北京ビール、燕京ビール、五星ビール、龍象ビール。北京では四種類だが、ハルビンでは種類が多く、目によいビールだとか、漢方薬入りのビール、禁煙ビールなどもあり、上海では海鴎ビール、鳩ぽっぽビール、強力ビールなど、いずれの都市も十種類以上のビールがあるので、北京のビールは種類が少なかった。
真っ先に、飛び抜けてマズイ龍象ビールがなくなり、次に五星ビール、北京ビールと消えて、いまでは燕京ビールだけになってしまった。それに緑色だったビール瓶も、日本のように茶色な瓶が増えた。93年頃は、ほとんどが緑色の瓶で、茶色な瓶は一ケース24本のうち一本だけしかなかったので、それをビール頭と呼んで、珍重したものだった。いまは茶色い瓶ばかりで、緑の瓶は外国の高級ビールにしか使われない。
そこのキリンビールがなくなると、同室が新鮮なビールが入ってきたと喜んでいたが、そのビールも一年半前のものだった。
グルメ同室は、学校の周囲を食べ歩き、酸辣湯とか、なまこのスープを飲んで「ここの材料は、なんと新鮮なんだ」とか騒いでいた。店主が呼びつけられて、何か文句を言われるのじゃないかと思っていると、えらく誉められたので、店主も悪い気がしなかっただろう。ほんとうに同室は、食べるのに目がなかった。
こういう同室だから、北京ダックを食べに行こうという。ボクは、そんなもの知らないから「そりゃ、なんじゃい」と、答える。
すると嬉しそうに「ペキンダックを知らないのか?北京の有名料理だ。熊の手、北京ダックは、中国の二大料理だ」という。
そして「食べに行こう」という。
のちに後輩の今村も、北京に行くと、必ず北京ダックを食べることを発見した。同室は王府井で、今村は和平門の全聚徳という違いはあるが。
王府井の全聚徳へ行くと、すぐに食べられるかと思いきや、予約だから待てという。そこで同室は、外の銀行窓口のようなところで予約する。そして一時間ほど王府井をブラブラすることにした。
当時の新華書店は、5時閉店。ほとんどの店は、五時で閉まる。だから六時の予約時間まで、何をすることもない。こうやって辺りの黒土剥き出しの路地を歩き回り、やはり黒土の路地を入って全聚徳へ戻る。
火考 鴨を焼くため、最初に注文を取り、その数だけの鴨を殺して、それから客が入れるのだろう。時間が来るまで時計とにらめっこし、全聚徳へ戻る。何が悲しゅうて、たかがアヒルを食べるために、時計を見つめながら佇んでいなければならないのだ。
当時の北京ダックのフルコースセットは40元だった。しかし1元が40円の時代だ。4元あれば夕食が食える時代に、タクシーを使って1600円の北京ダックを食べに来るとは、全く正気の沙汰ではない。このとき「もう二度と北京ダックは食わない」と同室に宣言した。
この時代に全聚徳へ北京ダックを食いに来る人は、普通の中国人ではない。現在のように全聚徳へ現地人が北京ダックを食いに来るようになったのは、93年ぐらいからでないかと思う。
我々の隣のテーブルは、アメリカ華僑だった。
ボクが「アヒルばかりあって、ご飯がないじゃないか」というと、同室が「鴨は、ご飯で食べるんじゃない。ビンで食べるのだ」と答える。「ビンとは、なんなんだ」というと、同室はビンと注文し、これがビンだという。ビンは餅と書くのだが、それは丸い餃子の皮を買ってきて、フライパンで焼いたような代物だった。
「これにジャンをつけて、切ったネギを上に置き、アヒルを乗せて、クルクルッと巻いて食べる」と解説する。その通りに食べたが、ご飯にアヒルと醤をつけて食べた方が、おいしいんじゃないかと思う。とにかく脂身ばかりで、身がない。
「脂身ばかりじゃないか。肉のほうは、どうなっているんだ?」と聞くと、
「本当に何も知らないんだなぁ。北京ダックは、肉を食べないで、脂身だけを食べるんだ。ツウは、餅と醤、ネギだけをつけて食べる」と答える。
「肉を食べないで、皮と皮下脂肪だけを食べるだって!」実に中性脂肪が溜まりやすい、動脈硬化を招きやすい食べ物だ。不健康きわまりない食品。コースで、当時は40元。現在も和平門では40元だが、当然にしてフルコースではない。当時は、アヒルの肝臓とか、スープとか、40元で、アヒル一羽全部の料理が出てきた。二年後に、地方でアヒル一羽を食べたが、十元ぐらいだった。また駅で売っている袋詰めのアヒルも、8元ぐらいだったと思う。だから中国人に聞くと、地元北京人は、全聚徳なんかでアヒルを食べないという。もっと安くて、同じ味の北京ダック屋がたくさんあるという。だから全聚徳を嫌う。待たされた上に、価格が高いからだ。しかし現在の北京では、あちこちで北京ダックを売っているが、当時は北京ダックを売っている店が非常に少なかった。
我々は、必死になって食べていると、隣のテーブルの華僑が話しかけてくる。
「あんたらは、どこの人?」
「我々は、日本人」と、答える。
「あんたらは、言葉は喋れるようだけど、漢字は書けるの?」
日本人が漢字民族であることを、彼らは知らないようだ。彼らは北京に住んでいて、アメリカに渡った華僑だという。
「私らにも子供がいて、言葉は喋れるのだけれど、漢字の読み書きができなくてねぇ」
どうやら彼らは、中国人の子供さえ漢字の読み書きができないのに、外国人が漢字の読み書きをするのが不思議らしい。
ボクも同室も、わりとお喋りのほうなので、こうして華僑との話を楽しんで、腹も膨れたし帰ることにした。あたりは真っ暗、前には王府井入り口でタクシーを捕まえたが、五時だというのに「下班了」と言って、乗車拒否された。いまでも王府井は、交通規制があるのでタクシーを捕まえることが難しい。いまなら新華書店前でもタクシーが捕まるが、タクシーの少ない当時では、北京飯店まで行かねばならない。そのときは103か104に乗って、駅か崇文門まで行き、そこから地下鉄に乗って帰る事など思いつかなかった。ちなみに言葉も当時と変わり、昔は抓出租汽車と呼んでいた。南方では出租汽車を滾開汽車と呼んでいた。現在は香港式に的士だから、タクシーを捕まえることを打的、ダァティと呼ぶ。だからハリーがタクシーを捕まえれば、ダーティハリーだ。前は北京に一元タクシーの走っていたことがある。93年ごろだ。そのときは軽四のライトバンを面包車といい、打面包とか抓面包と呼んだ。それによってタクシー料金が下がったが、ダイハツの軽四の後ろを座席にするのは危険だとなり、禁止になって、天津あたりを走るようになった。これは貨物用の車だったので、自転車や旅行用のトランクを運ぶのに都合がよかった。廃止されたらシャレードがタクシーになり、沙麗と呼ぶようになった。現在はプロパンガスの車が多くなり、トランクに荷物を入れられなくなった。客席と運転席に境ができるようになったのは、92年頃からである。タクシーに乗ったら、運転席が檻で仕切られているので、これは何なんだというと、タクシー強盗を予防するためだという。いつからそうなったのだと聞くと、「今年はナイフで刺されて、運転手が30人殺された。だから仕切ができた」という。のちには透明なプラスチックに変わったが、当初は直径5mmぐらいの鉄線で覆われた檻のなかに運転手がいた。昔は3元ぐらいのタクシーが結構あったが、現在の料金は1.6元や1.8元ぐらいに下がり、タクシーの数も増えたが、渋滞がひどくなった。こうしたことによってタクシー運転手の給料が下がっていったが、当時の運転手は、大学教授より10倍も多い給料を貰っていた。そして我々の世話をする職員は60〜80元ぐらいの給料だったが、運転手は2000元の月給だった。だからタクシーが増えた。
同室は、北京ダックが好きだったが、どうも王府井まで食べに行くのは、遠すぎると感じたらしかった。そこで五道口を歩いていると、薄暗い路地に北京ダックと看板を出している店を見つけた。前にはなかったと思う。いや、あったかも知れないが、薄暗い路地だったので、気が付かなかっただけかも知れない。でも、前には確かになかったような気がする。北京の商店は、当時では新しくできても、最初からキタナイので判らない。同室は、さっそく近寄ると、切符売り場のようなところにいる老人と話する。老人は歯も抜けており、そばで聞いていても、同室と何を喋っているのかサッパリ判らない。
何を喋っていたか聞くと、そこでも北京ダックをやるらしいので、予約したという。ボクが「おじいさんの言葉は、何言っているかサッパリ聞き取れなかった。よく通じたな」と驚くと、「自分も、あまりよく判らなかった」という。どうやら夕方六時からしか空いてないようだ。
こうしてアヒルが焼き上がったころを見計らって、予約した食堂へ食べにいった。アヒルは予約だが、ほかの料理もある。
我々が待っていると、中国人の姐ちゃんが客として入ってきた。しかしメニューを見て、値段が高すぎるので出ていった。
その姐ちゃんを見送っていると、我々の所にアヒルが運ばれてきた。
同室は、それを食べると「これは、いいところを見つけた。これなら王府井へ行かなくとも、北京ダックが食べられる」
値段は、一人40元でなくて、二人で40元ぐらいだった。一口食べると、さっそく同室は店主を呼びつける。
「あんたの所の北京ダックはおいしい。あまり全聚徳のと、そう変わらない」
「ほうそうか。あんたは全聚徳の北京ダックを食べたことがあるのか?」と、店主。
「よく行くけど、あんたも食べに行くのか?」
「いや、食べたことがない」と、店主。そりゃそうだ。バスの運転手らが月給80元だというのに、一人前40元の北京ダックを食べていたら、二回で月給が飛んでしまう。
「だけど、もうちょっと変えれば、全聚徳のようにおいしくなる」と、同室。
「では、あんたが我々に指導してくれないか?」と、店主。
同室は、いいよと答えると、「まず、醤が薄すぎる。水っぽいから、もう少し濃くしろ。それと餅の焼き方が厚すぎる」という。
確かに全聚徳の餅は、日本のスーパーで売っている餃子の皮のように薄く、二枚重ねてアヒルを乗せる。だから柔らかくて曲げやすいが、ここの皮は水餃子の皮みたく厚いので、一枚でアヒルを乗せる。厚いから折れ目が切れる。それに、ここのは醤が水っぽいので、食べていると垂れてくる。
こうして同室は、五道口にあるアヒル屋を、自分好みの味に変え、店主も毎日食べに来てくれる上客を捕まえたことになる。
ボクは行かなかったが、同室はしょっちゅう食べに行っていた。
ある夜、同室が喜んで帰ってきた。いうことには、アヒル屋の親父が「あんたの指導のおかげで、客が増えて、商売が繁盛するようになった」と喜んで、いろいろとサービスしてくれたらしい。
この同室は、どうも人とケンカばかりしているらしかったが、食堂との相性だけはよいようだ。
まず誉めて、相手が喜んだところで注文を出す。もともと良い食堂にしか行かないのだから、そこで少しだけ指導すれば、彼好みの味になるというわけだ。
中国人は、罵りあうことはするが、誉めることはしない。夫婦では、かなり顕著になる。例えば、夫婦や恋人は仇といい、冤家となるが、夫婦間で誉めあうことはない。バカとかロクデナシとか、互いに罵りあうわけだ。ボクなどは、中国人の嫁さんといたときは、犬のフンと罵られ、大和君などは恋人から馬鹿と罵られていた。大和君が
「最近は馮艶が、僕のことを“笨蛋”“笨蛋”と呼ぶんだ。“笨蛋”って、どういう意味?」と聞く。まさか、あんたは馬鹿ぁ、馬鹿ぁって呼ばれてんだよ、とは言えないから、それは…と言って詰まってしまった。すると大和君が、
「もしかすると、僕がカッコイイという意味かな?」という。
「そう。だいたいそんな意味だな」と返事した。彼は喜んで
「そうか。そう思っているのか。そんなに僕はカッコイイのか」と喜んで、馮艶と結婚してしまった。
それぐらい恋人間や夫婦間では、罵りあう。だから中国人を誉めたら、木に登ってしまう。
つまり同室は、アヒル屋の親父を誉め、親父が全聚徳の味を知らないことをいいことに、指導して自分好みの味に変えてしまったというわけだ。
こうして語言に食べるところを見つけ、喜んでいた同室だったが、ヤミで両替した2000元を置き忘れ、あわてて引き返したが消えていたという不幸な目にもあっている。テレビを買うためのお金だった。当時はテレビに税金が100%ぐらいかかったのである。
暁梅の引退
秋が終わる頃、暁梅が見知らぬ人を連れて入ってきた。えらいブスな人だなぁと、感心していたら、暁梅が「自分は、家庭教師のアルバイトで、だいたい金が貯まったから、家庭教師を辞めて勉学に専念したい」という。そして自分の代わりに、姉を連れてきたから、それを家庭教師にしてくれという。それが姉と聞いてビックリした。
このころ同室は王姫霞の宿舎へ入り浸りとなり、深夜にならないと帰ってこなかった。
暁梅が家庭教師を辞めるなどと言い出したのも、同室が相場の3倍の家庭教師料を出すからだと恨んだが、まぁどうしようもない。本人が勉強に専念したいという希望も、ちょっと前から聞いていたし、美女の孫穎もいるから支障がない。暁梅から習わなくても、今は自分で特殊な読み方が判るようになった。だから孫穎が間違った読み方をすると、こちらが訂正するようになっていたのだ。同室は、とっくに暁梅の家庭教師を断っていたし、ボクだけが受けていた。
暁梅は姉を紹介すると、二人は部屋の中で手を繋いで、グルグルと回りだした。しばらくアッケに取られていると、暁梅が「ほら、見て!姉はダンスだってできる」という。
別にダンスの授業を受けているわけじゃないから、ダンスなど出来なくったっていい。それより身長175pを超える二人の巨漢が、中国の塔楼で跳ね回って、床でも落ちた日には、こっちまで巻き添えを食い、落っこちて死んでしまう。なんとかやめさせなきゃ。
「判った、判った。姉を雇うよ。その代わりダンスをすぐに中止してくれ」
そこで姉を雇うことになった。だが同室は、たぶん姉の暁紅を見たことがないだろう。
この姉は、ひどい代物だった。なんでも北京体育大学の学生らしいが、来るときは遅れてくる、帰るときは早く帰る。それで二時間の個人授業が三十分ぐらいになるが、当然のように二時間分の家庭教師料を要求してくる。こっちもたまりかねて言った。
「あのね。家庭教師の約束は二時間だった。なのに三十分しかやらないじゃないか」
すると暁紅は、
「私はねぇ、北京大学から来るんじゃないのよ。体育大学から来るのよ。体育大学は遠いから、どうしたって遅くなる」と答える。
「じゃあ、来るのが遅ければ、遅くまで授業してくれれば?」と返す。
「夜になって、女が一人で帰れば、痴漢とかが出て危険なのよ。だから早く帰らなければいけない」と答える。
アンタを襲った痴漢も怖いだろうと思う。それに暁紅は、陳式太極拳をやっているという。太極拳は、楊式と陳式があるらしいが、楊式は老人のやるユックリとした動き、陳式は実践的な速い動きで攻撃する。もし北京の痴漢が襲ってきたところで、北京の男は170pぐらい。このハルピン女は、筋肉質のうえ175p以上あるのだから、キャーキャー言って殴りつけているうちに、痴漢は血を出して失神するに違いなかった。そりゃあハルピンの男は190pぐらいあるから怖いだろうが、北京のチビ助など恐れるに足りない。
「まあとにかく三十分しか授業が受けられないんじゃあ、三十分の授業料しか払えない」 こうして暁紅を撃退した。
うちの同室とボクは、暁梅を半分ずつ使っていた。日曜日は家庭教師を入れない取り決めになっており、二日を暁梅、二日が孫穎、二日が王姫霞が入っていた。ところが同室は、暁梅をやめて、そのうちに日曜日も王姫霞を入れるようになってしまった。だからボクが孫穎と三日、同室が王姫霞と四日を過ごすようになってしまった。話が違うじゃないかと怒ったが、決めてしまったというので、どうしようもなかった。こうして暁梅は、来なくなってしまった。
身長175の暁梅が来なくても、身長165の孫穎がいれば十分だった。
聖誕節
最初のうちはギクシャクしていた孫穎とボクだったが、3カ月もすると、だいぶん打ち解けてきた。大和君なども「最初は孫穎を紹介して」と言っていたのだが、そのうち馮艶を家庭教師にすると、やはり日本人と付き合わなくなり、そのうち結婚してしまった。しかし大和君は、けっきょく中国語が上手くなれなかった。その理由は、孫穎も王姫霞も、中国語と英語しか喋れなかったのに対し、馮艶は英語だけでなく、日本語も喋れたからだ。それに彼は、日頃は馮艶と一緒にいるのだが、馮艶に対して日本語で話しかけている。まるで赤ん坊に話しかけるように。だからボクが馮艶と中国語で喋っていると大和君が聞き取らないし、ボクが大和君と日本語で喋っていると、馮艶は(二人で、馮艶を陥れる悪い相談をしている)と思うらしい。大和君は、どうやら馮艶とボディランゲージで会話しているらしく、大和君と旅行したとき、面倒くさいので彼に通訳してもらっていると、相手が喋っていることと、全く反対のことを通訳する。それで「ちょっと、アンタの言っていることと、この中国人の言っていることは、全く反対じゃないか!」というと、照れたように「そうか?」と答える。「いったい、どうやって通訳しているのだ」と聞くと、ニコッと笑いながら「聞き取れる単語だけ聞き取って、あとは適当に繋いでゆくの」との返事。「もう解った。通訳しなくていいよ」
こういう男だから、当然にして馮艶と誤解があり、結婚に至ったのだろう。それでも結婚するとき、馮艶が、日本へ連れて行かれて、人身売買されるんじゃないかと心配し、結婚して日本へ行くことを拒否したので、馮艶と言葉の通じるボクに、馮艶を説得してくれるよう助けを求めてきた。当時の中国では、若い娘が外国へ連れていかれ、売春宿で働かされているなどの記事が、さまざまな雑誌に小説形式で書かれていた。だから馮艶が心配するのは、無理もない。
なるほど、彼を見ていると、言葉が通じないことこそ中国姐ちゃんと結婚する秘訣なのだと判る。ボクや同室のように、結婚市役所で「あんたは台湾人か、それともシンガポール人か?」などと聞かれるようでは、言葉は通じても、あまり親切にされない。ましてや中国の棉襖を着て、黒い布鞋を履き、少し日本訛のある中国語を話して、門番に「中国人は入れない」と止められるような外国人では、可愛げがないのだろう。まるで中国テレビに出てくる日本軍のようだ。流ちょうな中国語で話し、喋れる日本語ときたら「バカ」「ミシミシ」「ヒツケエ」「おいしいですね」の三語だけ。「ミシミシ」とは何かと思ったら、「飯、飯」のこと。「ヒツケエ」は、「火を着けろ」という意味らしい。それ以外の言葉で、特に複雑な意志疎通は、すべて流ちょうな中国語で済ませる。それなら「罵的」「拿来飯」「点火」「好吃」と言えばいいのに、これらの単語だけは譲れないらしい。だからボクや同室は、日本鬼子に見えるのだろう。もっとも大和君のことを責められないかも知れない。中国映画を見ていたら、孤児と言っているのに、字幕では「狗児」と書かれていたことがある。確かに孤児は、狗児と発音が似ているが、狗児などという言葉はない。プロの仕事でも、正確に訳されている中国語の字幕は、あまりなかった。
ともあれボクと同室は、張が紹介してくれた美人教師のおかげで、あとで大学へ行き、中国人学生と一緒に授業を受けても、全く支障がないほどになった。これが語言の授業だけならば、とてもじゃないが達成できない。同室は家庭教師にフラれ、シンガポールへ行ってしまった。
ボクも孫穎の「三毛小説」事件があってから、三毛の小説はエッセイ集を除いて全部読んでしまった。それだけじゃなく、街角で売っている「中国姐ちゃんが、誘拐されて売春婦になっている」などの三流雑誌も読むようになった。一度など「五花八門の美人局」だったか「五花八門の手練手管」という本を読んでいたとき、急に孫穎が来て、「この本は、なんだ」と聞く。「街に行ったら、この雑誌を売っていたので、買ってきた」と答えた。すると「こんな変な本、なんで買うんだ」と言うので、「表紙がキレイだから。だけど内容は全く解らない」と答えると、「こんな本、きれいなもんか」という。「表紙に、色々な色が使ってあって、キレイだろう」と答えたが、結構プンプンして、雑誌を持って帰ってしまった。たぶん馮艶も、こうしたたぐいの雑誌を読んで、日本で売春婦させられると思ったのだろう。だけど中国人の姐ちゃんは、その手の雑誌が大好きで、結構読んでいることを知った。のちに旅行へ行ったとき、昆明の民族学院で、そこの服務員が読んでいた雑誌を見ようとしたことがある。貸してくれと言ったら、取られると思って、当然断られた。そこで別の雑誌を買ってきて、「これと交換しないか」と言ったら、交換してくれた。すると、その手の雑誌だった。中国の姐ちゃんたちは、案外スケベである。
こうした孫穎でも、クリスマスになったらダンスパーティがあるからと誘ってくれた。中国人は、本当にダンスが好きだ。外国人管理局に行くと、昼休みにラジカセをかけて踊っている。太極拳など昔の話し。ディスコの曲やジャズダンスなどを、老人が公園でやっている。太極拳などしてるのは、ほんの一握りの老人グループだ。特に、若い姐ちゃんがレオタード着てやる「健美操」などは、どこのDVD屋でも置いてある。
当時は主に社交ダンスだが、中国のステップは、国際的なステップと違うらしい。国際的には3ステップだが、中国は4ステップだ。これはダンス好きの大和君から教わった。どっちにしても出来ないのだから、3でも4でも同じ事。
学校が終わったら孫穎が迎えに来た。孫穎は最初バスで来ていたが、ボクの家庭教師料で、鳩ポッポ印の自転車を買っていた。ボクも自転車を買っていた。そこで暗い学園路を政法大学へと急いだ。中国の自転車は、ライトが付いてない。日本から自転車の発電器とライトを持ってきたが、自転車本体が盗まれるような所で、ライトと発電器を装着する気になれなかった。真っ暗な学園路を通って、政法大学のダンス会場に行くと、どうやら教室がダンス会場だった。中央が円状に高くなっている。みんなが踊っているのを見ていると、孫穎が「私達も踊らない?」という。踊ったことがないというと、じゃあ教えるという。すると舞台から孫穎に声がかかった。孫穎が舞台に上がって踊る。そして降りて戻ってくると、また声がかかる。こうして孫穎は、ボクと舞台の間を往復していた。孫穎は「踊ってやらないと、試験の成績なんかがうるさいから。相手してやるしか、しかたないの」とは言っていたが、結構楽しそうだった。中国では実力でなく、そんなことで成績が決まるのかと感心した。このときはカルチャーショックを受けたが、あとで中医後輩の宋冰が、やはり院生になったとき、指導教授に呼び出された。本人は、食事に呼び出されたのは、成績が悪かったからに違いないと心配していたのだが、どうやら教授は宋冰に食事をおごって欲しかっただけのようだ。中国では公務員が多いので、自分の立場を利用して、いろいろと要求することがあるらしい。パスポートを発行して貰うにも、係官を食事に招待し、食べさせたり呑ませたりしなければ発行してくれない。個人的に親しければ、自分の仕事で便宜を図ってやる。公務員は、日本も中国も変わりがない。呑ませろ、抱かせろ、食べさせろは、たぶん東洋共通の言葉だろう。
こうして孫穎は、一通り踊ってからボクとも踊ったが、こっちは孫穎の足ばかり見ていたので、ぎこちなかった。ダンスと呼べる代物ではない。足を踏まないように、ただ手を繋いで尻を後ろに引き、ダンスというより、手を伸ばした馬跳びの馬という感じだった。
孫穎も、こりゃあかんと思ったらしく、とりあえず、お開きにした。でも、よく考えたら孫穎と同室である他の三人はいなかった。ダンス好きばかりが集まっていたのだろう。
レトロ君の変
どうもレトロ君は孫穎が好みらしかった。レトロ君は、子どもの誕生日だとか、孫穎と一緒に来るよう誘ってくる。
そして、ある日、夜の八時頃、レトロ君が部屋を尋ねてきた。そのころ同室は、昼間っから政法大学の女子寮に入り浸りで、深夜にならなければ帰ってこなかった。
なんか、かなり酔っぱらっている感じで、お酒をもって入ってくると、自分は若い頃、いろんなことをしましたという。変なことを言う。彼は孫穎と同い年だから、たかだか20歳ぐらいだ。なんか孔子も、若いときに色々とやったという。そして『論語』の本をくれると言って置いていった。
そして酒を飲みながら、といっても中国の酒は白酎で、アルコールばかりでなくシンナーも混じっているんじゃないかという代物だ。水割りにすると、水に溶けない成分が細かな粒となって白く濁る。そんなものを呑んでいるので、かなり脳味噌が萎縮してしまったんじゃないかと思う。武田のオバちゃんなどは「見て、渡辺君、手が震えてるよ。あれは絶対アル中よ」などと言っていた。遠慮のないオバさんである。
彼がコップと酒瓶を手にして入ってきたとき、ボクはドラエモンを読んでいた。当時は、夜を読書の時間にしており、ドラエモンかジョーク集を読んでいた。小説など、複雑な本が読めなかったからだ。ドラエモンは機器猫、あるいは小叮口当という名前だった。当然にして新華書店のようなキチンとした店では売ってない。街の露天商で買ってくる。このドラエモンは、のび太が罵られるので、笨蛋とか精神病とか、えげつなくない罵り言葉が覚えられるうえ、別提了などのような話し言葉も覚えられるし、何よりも安く漫画本が買えるので重宝した。しかしドラエモンは漫画で、当時の中国では猫がいたが、裸の猫だった。のちに日本へ帰ったとき、飼い主に、真っ青な「着ぐるみ」を着せられ、白い顔だけ覗かせている猫を見たことがあるが、当時の中国では、着ぐるみを着せられた猫などいなかった。この猫を見たときはビックリした。まず耳がない。たぶん着ぐるみのフードの下に隠れているのだろう。たぶん飼い主は、猫の毛が抜けるために着ぐるみを着せたのか、猫アレルギーのために着ぐるみを着せたのだろう。顔だけ出して、あとは真っ青なフェルトが覆っていた。四つ足だが、これは猫なのかドラエモンなのか、にわかに判断が出来なかった。
ドラエモンの次には、北斗の拳とかシティハンターなども出回るようになった。一冊が30円ぐらいで、厚さも5o程度だから、すごく重宝した。1995年ぐらいまでは、日本の倒版(海賊版)漫画が出回っていたが、子供が漫画ばかり読んで勉強しなくなるということで政府が規制し、現在ではほとんど出回っていない。1988年の頃は、ドラエモンしかなく、しかも名前がマチマチだった。次に「北斗の拳」が出回ったが、名前が違っていて、しかも「アメリカの天才漫画家、ブロンソンが書いた」と解説されていた。のちには日本の漫画で、「北斗之拳」となっていた。ジョーク集は、冗談とはいわない。ジョークは玩笑だが、ジョーク集は幽黙集という。ユーモアの音訳だ。 来客が少ないので、無視するわけにも行かない。「なんですか?」と尋ねると、レトロ君は、勝手に孫穎専用の赤い折り畳み式イスを広げると、ボクの机の隣に座り、
「浅野さん。桜の下には、死体が埋まっています。だから死体の養分を吸って、きれいな花を咲かせるんですよ」と言った。
何かの小説の一節だろう。寒くなってきたので、ボクもビールをやめていた。しかし日本酒は高いし、友誼商店まで行かなきゃ手に入らないしで、最初は焼酎を買っていた。しかしアルコール以外の揮発成分が混じっているので、なかなか飲みづらい。火を着けると、青白い炎が上がるような酒だ。そこで専らワインか桂花酒、まれにサンザシ酒を飲んでいた。中国人に言わせると、女が飲む酒らしい。しかし白酎を飲むと、口中の水分が吸い取られ、粘膜がカサカサになった感じになり、感覚がなくなる。とても飲めたものじゃない。白人も同じようで、同級生に日本酒を出したら、白酎は飲めないと言っていた。日本酒だというと、口を着け、「これはうまい」といった。ちょっと白酎は、シンナー臭くて白人にも飲めないようだ。しかしレトロ君は飲んでいる。
「東北大学ではねぇ、す巻きをやるそうですよ。す巻きって、知ってますか?」
「むしろで巻いて、川に放り込むとか。あれでしょ?」と答えた。
「そう、あれっ。浅野さん、あれ、やりたいなぁ」
このときは、レトロ君がボクを、す巻きにしようという計画を立てているとは、露にも知らなかった。のちにW賢二、もうひとりの西原賢一という男と語らって、渡辺賢は、ボクを布団虫にしてしまうのであった。美人を家庭教師にしていると、嫉妬を買って周囲から反感を買ってしまう。かといってブスな家庭教師では、こちらの勉強意欲が殺がれます。まことに難しいものです。そしてレトロ君は
「浅野さん。孫さんを不幸にしたら、私は許しませんよ」という。
「そんな、孫を不幸にするなんて。あれは家庭教師で、別に結婚するわけではないので」 「それはいけません。彼女を幸せにして上げてください」
なんかワケが解らない。確かに中国人と結婚してもいいかなと思っていたし、実際に後でハルピン人と結婚してしまう。しかし同じ鍼灸を勉強した人ならともかく、法律を勉強している人と一緒になってもメリットがない。しかも典型的なB型性格のボクは、愛嬌のない孫穎と相性が悪い。暁梅のほうが相性がよいぐらいだ。だからとまどってしまった。
「そんなこと言われても……」
「それでは孫さんと結婚して、幸せにしてください」
そういうとレトロ君は、瓶を片手に帰っていった。困ったことになったぞ、と思った。しかし、これでピンときた。レトロ君は、もしかすると孫穎が好きなんじゃないかと。
張の北朝鮮旅行
最近、張が来て、日本円に替えてくださいという。それ、どういうこと?と聞くと、
「おじさんが北朝鮮にいるのですよ。病気で手術しなければいけません。手術するには日本円がいるんですよ」そんな馬鹿な。日本で手術するのに、日本円が必要なら判る。中国で手術するのに、中国元が要るのは判る。どうして北朝鮮で手術するのに、日本円が必要なんだ。そんなアホな話し、乗れないと断った。
しばらく張がいなくなった。そして再びやってきた。
「いゃー、昔ね、私のお爺さんやお婆さん、北朝鮮から吉林の延辺へ、強制的に日本軍が移住させたんですよ。だから元は朝鮮人だったのに、中国人になっちゃったんですよ」。ふーん。そうなのか。張は、北朝鮮から連れてこられたんだ。
「エンペンに移住させられ、そこで農業をさせられました」。なるほど。
「私、本当に日本人に感謝しています」。えっ、それ、どういうこと?祖国を追われたんよ?
「私、この前、おじさんの手術のため、日本円を持って、北朝鮮へ行って来たんですよ」。えっ、あの話し、本当だったの! 張を疑ったこと後悔した。
「行って来ましたよ。そうするとね、ホテルの従業員の子、ガリガリに痩せているんですよ。寒いのに靴下も穿いてないんですよ。それでね、『こんなに寒いのに、靴下も穿かず、どうしたんだ』と聞いたんですよ。そうするとね、『私たちは、首領さまのおかげで、幸せだ』と言うんですよ。食べる物もなくてガリガリに痩せ、靴下もなくて冷たいのに、それでも首領さまのおかげで幸せだなんて言ってんですよっ!おかしいでしょ。もし自分が北朝鮮にいれば、食べる物もなく、靴下もないのに、首領さまのおかげで幸せだなんて言ってなければならないんですよっ!私は、先祖が日本軍によって延辺に移住させられ、本当に幸せでしたよ」という。現在ならば、北朝鮮が食糧不足で大変なことを知っているが、当時の語言学院の北朝鮮人を見ると、若いのは闘争的で、確かに痩せており、いつも金日成バッチを付けて集団行動するというイメージしかなかった。
腹の出た団長らしき中年のおっさんと、天津南海大学へ行った可愛い女の子以外とは、ほとんど口を利いたことがなかったので、北朝鮮がどうなっているのかサッパリ判らなかった。ただ集団になので、日本人に似て不気味だなというイメージしかなかった。
今さら張に、日本円に替えてやると言ったところで、張が北朝鮮から帰ってきた後では、証文の出し遅れ。
語言に唯一いる北朝鮮の女の子は、なかなか可愛い子だが、その子はガリガリに痩せてはいなかった。日本人並に太っていた。だけど北朝鮮は、そんなものなのかなぁ。
今まで、吉林の人達は、日本軍が耕作させるために北朝鮮から連れてきた、などということは知らなかった。しかし張の祖父母は、連れてこられたという。そして吉林の朝鮮族が、強制移住させられたため、日本軍に感謝しているなどという話しは、聞いたことがなかった。祖国を捨てさせられたのに、それでも朝鮮族は日本軍に感謝しているのか!
張は日頃「朝鮮族は、今は韓国、北朝鮮、吉林に分かれて住んでいますが、この三つが一つになることが、朝鮮族の悲願なんですよ」といっていた。
ようするに韓国と北朝鮮、吉林省が独立国になること。たぶんモンゴルも、内蒙古、モンゴル共和国、ロシアに分かれて住んでいるが、朝鮮族と同じ気持ちなのだろう。
95年に戯劇で留学していたときは、韓国人が日本人の次に多かった。でも朝鮮族の姐ちゃんには美人が多いのだが、韓国の姐ちゃんは今一つだった。それに韓国人は化粧が濃い。唇を大きく描く。なんで大きく描くのか聞くと、セクシーだからという。意味不明。
韓国人が来るようになってから、留学生には韓国人と日本人のカップルが増えた。
彼らは中国語で話しをすることもあるが、たいていは韓国姐ちゃんが日本語を話してくれる。発音の簡単な日本語は、韓国人にとって方言を話すようなものらしい。中国語より易しいそうだ。
内モンゴルから来た姐ちゃんも、なかなかの美女だった。朝鮮族と韓国人は、民族が同じはずなのに、どうして韓国人留学生には美人が少ないのか不思議である。
ちなみに中国人の赤ちゃんには、民族が違うので蒙古斑がないと聞いていたが、現実には中国の赤ちゃんにも蒙古斑がある。聞いた話しと現実は、中国人と日本人の洗顔方法の違いのように、全くデタラメだった。
日本人と中国人は性格が違うと思う。日本人はA型性格だが、中国人はB型性格のようだ。