日本鍼灸と中国鍼灸の違い

 日本鍼灸と中国鍼灸の差とは何でしょうか?
 中国鍼灸では辨証治療だが、日本鍼灸は六部定位の脈診に頼っている。
 これは一見正しいようですが、良く考えると六部定位の脈診も辨証治療なのです。
 鍼灸の辨証治療では、一般に八綱辨証を使いますが、辨証といえども色々あって、要は分類して治療することなのです。つまり症状が違う患者であっても、同じ治療する方法と対局をなすものです。例えば歯の痛みだろうが、胃痛だろうが、足の痛みだろうが、すべて痛み止めを使うような一律治療でなく、それぞれ治療法を変えるのが辨証治療です。

 六部定位の脈により治療方法を変えるのですから、日本鍼灸も同じ辨証治療なのです。
 中国では四診合参といって、望診として後世は舌診が加わりました。だから来た患者さんを観察することに加えて、日本では脈、中国では脈と舌を診ることが違いますが、それに基づいて分類治療するので、症状配穴を加えると大差がありません。

 日本では『難経』に基づいて治療しますが、中国は『素難』と言って『素問』が中心になり、『難経』を補助とした治療が中心となります。
 日本でも『素問』に基づいて治療する人がありますが、そうした人は日本にいても、中国鍼灸をしていることになります。

 それでは鍼に関する『難経』の記載を抜粋してみます。
 ★経穴:二難、魚際。○二十八難、風府、中極、気衝、関元、風池、中、玉堂、中。○四十五難、腑会太倉、臓会季脇、筋会陽陵泉、随会絶骨、血会鬲兪、骨会大杼、脈会太淵、気会三焦外一筋直両乳内也。○六十六難、太淵、大陵、太衝、太白、太谿、兌骨、丘墟、衝陽、陽池、京骨、合谷、腕骨。と、経穴に関しては、これだけしか記載されていません。

 ★治療法:三十一難、上焦者、在心下、下鬲、在胃上口、主内而不出。其治在中、玉堂下一寸六分、直両乳間陥者是。中焦者、在胃中、不上不下、主腐熟水穀。其治在臍傍。下焦者、当膀胱上口、主分別清濁、主出而不内、以伝導也。其治在臍下一寸。故名曰三焦、其府在気街。○四十五難、腑会太倉、臓会季脇、筋会陽陵泉、随会絶骨、血会鬲兪、骨会大杼、脈会太淵、気会三焦外一筋直両乳内也。熱病在内者、取其会之気穴也。○六十八難、井主心下満、主身熱、兪主体重節痛、経主喘咳寒熱、合主逆気而泄。○六十九難、虚者補其母、実者瀉其子、当先補之、然後瀉之。不実不虚、以経取之者、是正経自生病、不中他邪也。当自取其経。故言,以経取之。

 ★鍼操作:七十八難、補瀉之法、非必呼吸出内鍼也。知為鍼者、信其左。不知為鍼者、信其右。当刺之時、先以左手,圧按-所鍼兪之処、弾而努之、爪而下之、其気之来、如動脈之状、順鍼而刺之。得気,因推而内之、是謂補。動而伸之、是謂瀉。不得気、乃与男外女内。不得気、是為十死,不治也。○七十九難、経言「迎而奪之、安得無虚。随而済之、安得無実。虚之与実、若得、若失。実之与虚、若有、若無。何謂也。然。迎而奪之者、瀉其子也。随而済之者、補其母也。仮令心病、瀉手心主兪、是謂,迎而奪之者也。補手心心主井、是謂,随而済之者也。所謂,実之与虚者、牢濡之意也。気来-実牢者、為得。
 ○八十難、所謂,有見如入、有見如出者、謂-左手見気来至、乃内鍼、鍼入見気尽、乃出鍼。是謂,有見如入、有見如出也。

 ★経脈:二十三難、二十五難、二十六難、二十七難、二十八難。

 まとめると鍼の内容は少なく、主に脈を語っています。難経は、さまざまなことを解説していますが、全体的には脈の本と言えます。

 これを聖書にしていますが、そのうちで使うのは、何故か六十九難だけ。しかも六十九難の全部でなくて「虚者補其母、実者瀉其子」だけを取り上げています。島根で講演があったときも、この十文字についてのみの講演でした。残りの「当先補之、然後瀉之。不実不虚、以経取之者、是正経自生病、不中他邪也。当自取其経。故言,以経取之」については触れられていませんでした。

 すると色々なことを言う人が出てくるものなのですね。

 a私には気が見える。
 こうしたことをおっしゃる鍼灸師は多いです。気が見えるか見えないかについて、難経は全く触れていません。だから気が見えると主張する人があっても、別に不思議ではありません。
 中国では、清代は唐大烈という人が、『呉医匯講』巻三に「人が気の中にあるのは、魚が水の中にいるようなものである。人に気が見えないのは、魚に水が見えないようなものである」と書いています。これが中国における気の概念です。肺で空気を取り込んで、血液やら何を動かすと考えているので、気は見えないというのが共通の立場です。
 中国鍼灸をやっている人と、日本鍼灸をしている人は、まずこれで対立し、話をしなくなってしまいます。口には出しませんが「狂ったか!書物に見えないから気なのだと定義されているのに」と思って、狂人を相手にしたってと退いてしまいます。

 b私には経絡が見える。
 これをおっしゃる鍼灸師も多いです。経絡が見えるか見えないかも、難経は全く触れていません。
 これは『内経』に「経脈は深部を通っているので見えない。経脈が見えていると思っているのは、実は絡脈である。経脈で見えるのは、ただ足少陰腎経の脈だけ。それは足首で見える。そこは覆い隠すものがないからだ」と述べられています。
 中国鍼灸をしている人は、経脈が見えるというと足首の太谿脈が見えているのだと思います。ところが話をしていると違うので、話が噛み合わなくなってきます。

 c得気が病巣部へ走るのが見える。
 これは十年近く前に、我々の元校長が宴会で言ったセリフです。面白いので色々と質問しましたが、これについても難経は触れていません。『素問・宝命全形論』に「得気したことは見えない。感じることができる」と述べられています。こうした発言を聞いたことは初めてですが、違和感を覚えてしまいます。

 また難経七十八難に「不得気、是為十死,不治也」とあります。ところが「得気させないのですか?」と聞くと、「得気することもあるが、しないこともある」との返事。確かにそうかもしれないけど、難経七十八難に「不得気、是為十死,不治也」とありまっせ。つまり得気しなければ、必ず死ぬ。治らないということです。おっしゃることを言い換えれば「治ることもあるが、死ぬこともある」ということでっせ。
 中国鍼灸してる人なら、得気させることを信条としているはず。ビックリ。

 『内経』に「気至病所」とありますが、中国鍼灸では得気が病巣部に伝わることが最優先の課題になっています。「気が病巣部に伝わりさえすれば、鍼灸配穴などどうでもいい」と言い切る中国の鍼灸家さえもいます。だから必ず患者に「鍼の感じが、どこまで伝わってますか?」と尋ねます。こうして得気を病巣部へと伝えられるよう練習してゆく。中国鍼灸は辨証配穴だと思っている人もありますが、日本鍼灸でも随証配穴を加えれば中国鍼灸と、ほとんど差がなくなる。だから「気至病所」が、中国鍼灸と日本鍼灸の大きな違いと言える。日本鍼灸は、いかにして鍼感を病巣部に到達させるかについて問題にしておらず「病巣部に達することもあれば達しないこともある」という態度なので、「得気が生死を左右する。得気があれば生き、なければ死ぬ」とする中国鍼灸の立場と大きく違う。これは中国が『内経』を重視し、日本は『難経』に基づいて刺鍼しているからだろう。

 私が思うに六十九難の「虚者補其母、実者瀉其子」という十文字より、七十八難の「不得気、是為十死,不治也」の十文字のほうが、よっぽと臨床的に重要と思いますが。

 つまり中国鍼灸と日本鍼灸の違いは、得気を引き起こそうとするかどうかにあります。得気があるから補瀉できると考えるわけで、それがないのに経絡と逆向きや沿わせて刺入したり、母子配穴しても全く無意味と思います。

 これは鍼灸師でなく、患者さんの立場からも言えます。うちのQ&Aにも「某鍼灸院へ行ったら病に痛かった。友人に聞いたら鍼は痛くないと聞きました。あの鍼灸院はインチキでしょうか?」などという質問が寄せられます。それに対して「友人が行ったのは日本鍼灸院、あなたの行ったのは中国鍼灸院。だから痛かったのです」と答えている。患者さんは、それが大きな違いだと感じているからです。中国でも同じです。中国には中国鍼灸しかないから、患者は「鍼は痛い」と言います。「あれは痛みではない。得気だ」というのは鍼灸師ぐらいです。やはり患者は痛いと表現します。そして細かく聞くと「締めつけられるような痛さ」とか表現を変えます。「チクッとした痛さだったら抜きます」と宣言してますが。鍼の得気は、ゴム入り包帯で、きつくグルグル巻きにされたような痛みです。

 もし鍼で分類されたら、北京堂などは間違いなく日本鍼灸でしょう。使用している鍼の多くが日本鍼ですから。重症の場合は中国鍼も使いますが。

 つまり中国鍼灸と日本鍼灸の違いは、日本鍼を使うか中国鍼を使うか、四診合参か六部定位か、治療者がチャイナドレスを着ているかサムエを着ているかではなく、鍼してズシンと奥で響くような痛みがあるかどうかに尽きます。そうした感覚があれば中国鍼、そうした感覚がなければ日本鍼と分類できます。鍼でズシンとした痛みを与える根拠は、難経でいえば七十八難の「不得気、是為十死,不治也」であり、『内経』の「気至病所」にあるのです。そうした感覚が得られなければ、治すことができないと経典は教えています。

 

 中国と日本の続き。

 いままでは『難経』に基づいた違いでした。
次は、理論に基づく違いです。これは不思議です。
 
 日本の流派は、日本経絡学会と呼ばれています。そして六部定位の脈を診て、肘膝関節から下の穴位を取り、刺鍼します。つまり手の六経、足の六経で、12経絡の補寫穴の24穴から選びます。経絡を考えなくとも、その24穴という点、及び脈の位置と強さだけを知っていれば治療が出来ます。その治療法は、五行説に基づいています。

 中国の流派は、学校で鍼灸治療学という学問がありますが、五行説に基づいた治療をしません。たまに取り入れることもありますが、ほとんど使いません。じゃあ、何を使うかですが経絡です。授業中に「心火を腎水が鎮める。どうして鎮まるか説明せよ。五行で尅されるからなどと、馬鹿なことを言っちゃあいかんぞ! 鍼灸治療学だから、きちんと経絡の連絡で説明しろ」と言われたことがあります。つまり中国では、体内の経別を臓どうし、腑どうし、あるいは臓腑の連絡を説明し、治療せねばなりません。つまり点ではなく、その経絡から反応点を取るという方法です。

 だから私が日本の学校で学んだときには、信じられないことですが経絡を教えなかったのですよ。ただ体表のツボに線を引いた図があるだけでした。そして手首の脈を診て、24穴から選んで治療する。これが経絡治療でした。経絡を使わない経絡治療、別名で脈診治療と呼んでいました。

 中国では驚きました。経絡が別れたり、合流したりで、複雑な図形を描いている。
 えっ、なんで? なんで別れたり合流したりしてるの? 近いところから線で繋ぐんじゃないの? こんな複雑なものが経絡なの? 
 それだけじゃあなかったのです。次は、これ、と渡されたのは、なんと経脈が絡穴から逆進してる~っ。これなに、経脈の方向と逆やん。 答え、ハイ、これが絡脈の図。
 こんなの日本じゃあ習わなかった。それが表裏経を繋ぐ経路だという。
 それを覚えたら、また何? 経絡が鎖骨から下へ行っている。 答え、ハイ、これが内臓と繋がる体内の経絡。
 終わった。もう無いだろうと思うと。 ハイ、こんどは経別。陽経と繋がっている。

 日本でした質問:先生、どうして経絡は体表しかないんですか?
 答え:体内に経絡があっても、そんなところに、どうやって鍼を打つのですか? 経穴は体表にあります。だから体内へ鍼を入れない。だから体表の経穴を覚えるのです。
 質問者:判りました。

 中国でした質問:先生、経穴は体表にしかないのに、どうして体内の経脈まで覚えないといけないんですか?
 答え:体内の経絡を覚えないと、どの経穴が何の臓器や器官と連絡しているのか判らないでしょう。体表だけ覚えたら、手足しか治せない。内臓や器官は、どうやって治すのですか?
 質問者:判りました。

 両方とも私の質問。両者は、考え方が全く違う。
 日本のほうは、内臓疾患なら、肺なら肺経を使う。腎なら腎経。わかりやすい。
 中国では、肝なのに腎経を使ったりする。理由は、腎経が腎から肝を上がり、横隔膜を貫いて心へ上がり、舌本の金津玉液に繋がっているとされているからだ。中国では、経脈の通過するところは、その経脈の主治であると考えられている。だから五行でなく、その経脈が、どこを通っているのかを、まず考える。だから中国での辨証治療は、鍼灸臨床では重視されない。

 でも、中国は辨証治療なんじゃあないの? それは知らない人の言葉。実際に中国の経絡学教科書と、我々の習った経穴教科書を比較してみるといい。まず日本では、経絡学の授業がなかった。もっとも、現在の状況は知らないが、とにかく我々の時代は経絡学がなかった。しかし、経絡治療はあった。それは手首の脈により24穴を使った分類治療。つまり六部定位の脈による辨証治療だった。経絡を教えずに、経絡治療をする。
 こっちは経絡を教え、寒熱とか虚実、表裏よりも、まず内臓どうしの経絡連絡を考え、そこを通っている経絡を取るという中国治療。それが鍼治療だという。

 さて困った。経絡治療のほうは、実際には脈診に基づく辨証治療であった。そして辨証治療と言われている中国式のほうは、辨証せずに痛む部分を通る経絡から取穴するという。

 イメージと内容が、まったく逆なので驚いたが、自分の生き方は、中国式の鍼治療だなと選択した。そして、中国の経絡本を紹介することが重要と思った。実は、それまでは中国の経絡学の本が訳されたことが無く、我々の時代は、中国の鍼灸は経絡がない。ただ経穴があるだけだと言われていた。あ~あ、知らないと言うことは恐ろしい。

 北京堂の治療は、脈を取らないの? ハイ、あまり取りません。なぜなら中国式だから。まず、どの器官や臓器に障害があり、そこを通っている経脈あるいは経別、絡脈は何があるのかを思いだし、その経脈を取って治療する。それが教えられ、自分が納得した治療。
 だが、経絡って何?
 日本では体表にしか刺さない。けど、中国では病巣部が表面にあったり、中層にあったり、深部にあったりして(これを天人地の三部と呼びます)、違う深さに刺入するのはなぜ? 
それは『内経』に、五刺、九刺、十二刺など、深さの違う刺入法が記載されているから。
 そう刺法灸法学の教科書に記載されていたのを見て、私は中国に寝返ってしまった。

 それだけで納得せず、経絡とは何か、刺入する深度をどうやって決めるのかを考えたとき、筋肉による神経や血管の圧迫が、痛みや機能障害を引き起こすのではないかと考えた。
 つまり経脈には、多気の経絡と、多血の経絡がある。その違いは何か、気は動く、血は物体。陽と陰。つまり気は神経、血が血管、神経や血管が圧迫されているために、障害が快復しない。それを圧迫して「通じなく」させているのは何か、という疑問に至った。
 ヒントは、天人地の三部に刺入することだった。骨は深部に書かれている。だから骨ではない。そうか、これは筋肉のことだったんだ。鍼で、いろいろな深さにある収縮した筋肉を刺し、それを緩めれば、神経や血管の圧迫が消え、「気血が流れ」て、血液が栄養し、筋肉の酸素不足が解消されて、筋肉の収縮が無くなる。
 背骨から神経が出ているから、背骨の周囲の筋肉を緩めれば、神経の痛みが解消される。それが、督脈、足太陽膀胱経に、多くの五臓兪が配属されている理由だ。
 よし、これからは経絡学の教科書を解剖学から考え、治療方針の指針としよう。

 と、北京堂は、中国で教わった経脈、絡脈、経別、経筋治療を実践すべく決意したのであった。ああ、キューティハニーのような感動的お話。

 と、ここまで読んだしまったあなた。 よう、こんなアホな話し、読みますなぁ。
 脈診を教えてくれた先生、ごめんなさい。北京堂は、敵に寝返りましたでぇ~。まっ、どってことないか。私一人くらい寝返ったって。
 あっ、自分のことばかり話して、中国と日本の鍼の違いを話さなかった。でも、だいたい判ったでしょ。教科書は教科書、授業は授業という、大らかな中国の先生たち、好きだなぁ。別に愛人にしたいという好きではないけど。

 さて、中国に留学して六部定位から中国式に北京堂が転向したというお話しは終わり。

 ここからは日本に帰ってからの話し。
 中国の鍼灸には、漢方薬を併用して鍼を補助とする派閥がある。そして一方には、鍼灸を中心として、ほとんど漢方薬を使わない派閥がある。

 二つの流派が生まれたのは、文化大革命からだった。毛沢東は、自分の言動を否定するような言葉の記載された書物は、迷信であると否定した。しかし、医療としての中国医学は、抗生物質のない貧乏共産党軍にとって、なくてはならない医学だったのである。

 そこで新しい中国医学に、二つの選択があった。一つは、それまでの経験医学から迷信的な物を取り除くことだった。もう一つの方法は、迷信のない考え方で、土台から中国医学を作り直そうというものだった。そうして出来上がった医学が、現在の中国医学と同じ物だったなら、それは本物の医学だったとするものである。

 ところが中国医学は、すでに実用的な医学として使われていた。それを否定して一から作り直そうというのは、不可能なことだったので、中国は古い医学から迷信的な要素を取り除く道を選択した。そして現在の教科書ができあがった。

 しかし、どうやら零から出直そうという中国の試みは、一部の人達によって継続されていたようである。そのために鍼灸が二つの流派に分かれてしまった。

 私は、中国に二つの流派が存在することを知ってはいたのだが、零から作り上げようとする派は、とうに消えてしまったと思い込んでいた。

 漢方薬は『傷寒論』や『金匱要略』の処方を元に、それに薬物を加えたり引いたりして多種の方剤ができあがっていた。それならば鍼灸でも、使われている処方を元に、経穴を加えたり引いたりすれば、多種の処方ができあがるのではないだろうか?
 そう考えた私は、千冊ぐらいある鍼灸書から処方を抜き出して整理し、基本処方を作って同級生に公表し、使ってもらおうと思った。
 ところが処方を集めているうちに、ある年代から病気によって突然に辨証配穴が使われなくなり、まったく新たな治療が誕生して、それ以降は辨証配穴が使われなくなっていることに気が付いた。それが中国で、鍼灸科が設立されたときと時を同じくしている。
 そのうえ中国でも、私と全く同じことをしている人があることを知った。それを彼は『難病の鍼灸治療』と『難病の鍼灸治療』の二冊にまとめていた。当然にして翻訳してからイタダキま~す。これを北京堂の基本処方にし、加減してゆけばよいと考えた。
 後日、後輩の今村氏に「そんなものを一人占めしてはいけない。出版社を紹介するから出版しろ」と言われ、出版したのが『難病の鍼灸治療』と『難病の鍼灸治療』。

 中国の「鍼灸治療学」の授業で、先生から教科書に基づかない鍼灸治療をするように教わったが、それは先生らが各科の専門家だったからだろう。彼らの授業では教科書の辨証配穴ではなく、現在なされている有効な鍼灸治療を授業し、治癒率を問題にしていた。

 現在の中国鍼灸界は、北京堂がやっているような古典を学ぶことも必要だが、それ以上に中西融合を目指し、検査は現代医学で、治療は鍼灸でと分けている。中国の鍼灸界に大きな変動をもたらしたのは、分野は違うけど朱漢章の『小鍼刀療法』だろう。その驚異的な治癒率により、1990年の初頭、全中国では小鍼刀学習班が作られて医師達が学んだだけでなく、鍼灸治療にも大きな影響を与え、零から作り上げる派に力を与えた。現在の小鍼刀療法は微鍼療法として進歩し、さらに多様化している。

 漢方薬が古来の辨証理論から離れられないのに較べ、鍼灸が古来の辨証理論から脱却できたのは、一つには副作用の大きさの違いからだと思う。
 漢方薬は、補瀉や寒熱、表裏を間違えて処方すれば、効果がないばかりか、病気が悪化したり死んだりする。
 しかし鍼灸は、そうした事柄を間違えて処方しても、効果が悪いだけで悪化したりしない。だから様々な挑戦ができるし、古い観念も無視できる。中国医学では、補瀉を間違えると悪化したり、死ぬこともあると言われているが、鍼灸では「補瀉を間違えても治ったりする」と、中国の書籍には記載されている。

 歴史的にみれば、漢方薬と鍼灸は、同じように施されていた。それが『傷寒雑病論』ができて漢方薬が中心となり、外科的な鍼灸は理論面の弱さから地位が低くなり、漢方薬と鍼灸は分かれた。それが新中国が成立し、学校に鍼灸科がなかったから漢方薬理論を学習した。
 まあ当然のことでしょう。中国医学を鍼灸で治療していたら、帰経理論だけで投薬すると患者が死んでしまいますから、危険性の高い漢方薬を理論の主に据えるのは当然と思います。
 そして1985年に鍼灸科が設立された。でも卒業生は、鍼灸に就けない人が多いので、漢方薬理論の『中医基礎理論』『中医診断学』『中医内科学』を勉強するのは当然と思います。

 私が学生時代、日本では「中国の鍼灸は、経絡がなくて、経穴だけがある」と言われてました。鍼灸科の設立前で、鍼灸治療は漢方薬式の辨証配穴をしていた時代ですから、その批判は間違っていません。でも経絡を中心とした鍼灸科の鍼灸は、病気の辨証よりも経絡の走行に基づいて治療しているので、そうした批判は的外れと言えるでしょう。
 鍼灸の基本理論は、寒熱や虚実、表裏の分析ではなく、「どこに症状があるのか?」です。そして、その部分を通る経脈(体内路線や経別、絡脈を含めて)は何かを判定し、その経穴へ刺鍼する。その理論は「経脈は、その通り過ぎる部分を主治する」からです。そして「気が病巣部に達すれば治癒する」というのが、第二の鍼灸理論です。はっきり言えば、この二つしか中国の鍼灸理論はありません。このように、いい加減な理論ですから、漢方薬と違って様々な治療が誕生します。ただ、得気を捉えるため、そして安全に刺鍼するために解剖学が欠かせないものとなります。
 つまり私が中国で受けた鍼灸の授業は、「辨証治療は漢方薬のためのものであり、鍼治療には経絡学、そして筋肉や神経の解剖学が必須である」というように受け取りました。
 もし辨証治療が鍼灸のポイントならば、病気が治らないのは辨証が間違っていたのが原因であり、鍼灸の技術が病気についてゆかないためではないでしょう。それなのに頭鍼を始めとして、多くの辨証に基づかない、解剖学に基づく鍼が誕生するのは何故でしょうか?
 『鍼灸大成』や『鍼灸聚英』、『鍼灸大全』などの書籍を見ても、あまり辨証治療がありません。それは鍼灸が漢方薬の辨証治療と違うことを示していると思います。
 確かに『霊枢・経脈』には「実なら瀉し、虚では補い、熱では散鍼し、冷えでは置鍼、凹んでいれば施灸、盛でも虚でもなければ経を取る」と書かれています。だから実なら瀉でないかと思われるでしょうが、古代の瀉は、瀉血のことであり、しかも何リットルも瀉血したようなので、やはり失血していれば死ぬでしょう。現在の方法は、鍼が細いので瀉はないといってもよいのです。瀉血にしたって雀の涙です。

 そもそも漢方薬と鍼灸は違います。漢方薬では解剖が重視されず、診察が問題になります。鍼灸では診察でなく、発病部分が問題になります。そして漢方では病を臓腑に分けます。ところが鍼灸では、病巣を経絡に分類します。まったく方法論が違います。

 中国の先生方に「経絡とは何か?」と尋ねてみます。「それは古代の血管図である」と明確な答えが返ってきます。この回答は、正しくもあり、間違ってもいます。
 経絡には気血が流れています。確かに経穴は「動脈拍動部に取る」と、昔の鍼灸書に記載がありますが、それは陰経について書かれたものであり、陽経について述べたものではありません。その陰経についての記載を拡大解釈して「すべての経脈は血管である」としたのが、現在の中国の鍼灸先生方です。確かに「気」については記載がないので、陽経についてのコメントは難しいとは思いますが。学生の皆さんも、学校の先生に「経絡とは、いったい何なんですか?」と聞いてみるとよいでしょう。おそらく中国の先生と同じ答えが返ってくることでしょう。私が学生時代は、同じ質問をした同級生がいましたが、ボンハン説だとか、脳にある連絡線だとかの回答で、明確な答えが返ってきませんでしたが。

 こうして私は、鍼灸治療学の授業を受けたおかげで、辨証派から鍼灸派へ、再度の転向を果たしました。つまり迷信を取り去る派から、零から創作しようという派へです。

 陰経は、古代の血管図であった。陽経は何だろう?
 経絡を考えてみますと、陰経と陽経の代表は、督脈と任脈です。それは足太陽膀胱経の絡脈、そして足少陰腎経の絡脈です。つまり足太陽膀胱経と足少陰腎経が、陽経と陰経を代表していると言えます。
 その循行経路を見てみると、足太陽膀胱経は背骨辺りを、足少陰腎経は背骨の裏を通っています。
 ここでは経絡を知った鍼灸学生相手に話しているので、「えっ、足少陰腎経は臍の横五分を循行しているんじゃないの?」というようなド素人を対象にしているのではありません。腹を行く路線は、体表を行く分支に過ぎず、足少陰腎経の本体は、背骨の裏の胸大動脈や腹大動脈にあります。経穴のある腹壁動脈は、足少陰腎経の分支にしか過ぎません。

 つまり足太陽膀胱経は背骨の中がメイン、足少陰腎経は背骨の裏がメインということになりますと、陽経は神経、陰経は血管を表していると考えられ、神経は気で形のないものが伝導し、血管は血で形のあるものが循環する。だから気は動くから陽、血は静かだから陰という陰陽法則にも当てはまります。

 陰経は古代の血管図、陽経は古代の神経図と考えると、現実の人体とは少し外れていますが理解できます。
 「通じれば痛まず、通じなければ痛む」と言います。甬は中空性の筒という意味なので、それが通れば健康で、病になれば痛むと判ります。陰経の血管が通じないのは、動脈硬化を起こしたり、さまざまな原因が考えられますが、陽経の神経が通じないのは、切れたり圧迫されたため通じないしか考えられません。

 鍼灸で最も重要な経絡学は、経脈、絡脈、経別、経筋の四部から成り立っています。十二皮部があるじゃないかと思われるでしょうが、教科書での扱いは、きわめて僅かなものです。経絡学を中心据えた鍼灸は、血管と神経、そして筋肉萎縮との関係を重視し、現代解剖学や現代医学の検査法を活用して、今も急速な発展を遂げています。ほんと、我々などは現代鍼灸についてゆけない。
 そして辨証鍼灸は、出来上がってから固定した魅力のない鍼灸になってしまいました。

 こうして現在は、二つの巨大流派のうち、経絡と現代医学をドッキングさせた鍼灸が主流となり、漢方薬の補助として使う辨証鍼灸は副次的なものとなりつつあります。その大きな推進力となったのが、小鍼刀の朱漢章でした。

 これが私の脈診派→辨証派→中西派と変遷した過程です。こうした転向を続けていると「おまえも中国共産党の弁証的発展に毒されている」と批判を受けそうなので止めます。
 でも同じ先生について鍼灸治療学を習った人は、私のように「治すためなら西洋医学もあり」と考えてる人が多いと思います。現に留学していた後輩も、やはり年に一回は中国へ行って、現代の中国鍼灸臨床の本を買って来ますから。

 では鍼灸の辨証施治ってなんだったんだろう。私が1989年に留学したときには、すでに鍼灸治療学の授業では、あまり辨証配穴などしていなかったし、それ以降に北京中医にいた後輩の今村も、辨証治療など過去のものだと言っていた。だから意見が合ったのだが。 思い返してみると中国では清朝から鍼灸は軽んじられ、民国でも軽んじられた。台湾の状況を聞いてみると、鍼灸は低く見られて、漢方薬が高く見られているという。そうすると漢方薬理論に当て填めた鍼灸配穴が、辨証配穴と呼ばれるものだったのだろう。『鍼灸治療学』の教科書は1982に編集委員が集められ、1983年に作られ、1985年に印刷されている。そして1985年に鍼灸科が設立された。その内容は、漢方薬理論の中薬学を鍼灸に当て填めた辨証配穴だった。
 つまり漢方薬には、まず『傷寒論』や『金匱要略』などのような基本処方があるが、それが『方剤学』である。それを基本処方として、薬種を足したり引いたりするが、それは薬物の性質を考慮しておこなわれる。つまり寒い場所では附子とか姜を多くしようとか、暖かいから麻黄など暖める薬物は少なめようとかいう加減である。それが『中医基礎理論』で勉強する三因制宜である。そのためには各薬物の気味、寒熱や昇降などの性質を知って、それに基づいて、人(熱タイプとか寒タイプとか)、気候、地域によって加減する。それが漢方薬式の辨証治療だ。薬物の性質が書かれているのが『中薬学』である。それには一つ一つの薬種について性質が書かれているので、それによって加減する。
 そして具体的な治療には『中医内科学』を使って処方する。これが漢方薬治療の流れである。
 これを鍼灸治療に当て填めると、まず『方剤学』が必要である。それに相当する教科を言うならば『鍼灸治療学』だろう。それに基本的な鍼灸処方が書かれているからだ。そして『中薬学』に相当する教科は『兪穴学』と思う。主治が書かれているからだ。
 これを使って鍼灸治療するには『中医内科学』が必要なのだが、それに相当する教材は再び『鍼灸治療学』に戻ってしまう。
 つまり『鍼灸治療学』で処方を決め、『穴学』に書かれた経穴の効能を参考にして加減することになる。ここでは『方剤学』か『中医内科学』に相当する教科が一つ落ちている。ここに『経絡学』が関与する余地はない。だから辨証配穴が全盛だった時代には、日本で「中国の鍼灸は、経穴だけで経絡がない」と言われた理由も判る。
 授業を受けているときは、教科書『鍼灸治療学』には辨証治療が記載されているのに、どうして先生は実際に使われている治療ばかりを講義して、教科書を無視しているのだろうと不思議だった。
 帰国してから北京堂のマニュアル書として『急病鍼灸』と『難病鍼灸』の本を翻訳したが、急病は1988年、難病は1991年に印刷されていた。そうした鍼灸治療の本には、教科書に載っていた辨証配穴の影がほとんどない。
 そして『鍼灸大成』や『鍼灸聚英』などの鍼灸書を見ても、漢方薬式の辨証配穴はされておらず、一穴治療が主だったようだ。それに鍼灸歌賦が多くを占めているところを見ると、診察より症状から配穴していたようだ。

 つまり中国鍼灸は、一時期に辨証配穴時代というのがあったようだ。それは文化大革命のころが全盛だったが、当時は清朝の影響で鍼灸が軽んじられ、漢方薬が重んじられていたので、清→民→新中国と漢方薬の辨証治療が主流となった。そこで鍼灸も漢方薬式に辨証配穴とし、経穴を中薬のように効能や性質で分けて、加減するようになった。特に文化大革命後に、それが主流となった。しかし鍼灸をゼロから見直そうとする派が盛り返し、1985年に鍼灸科が新設されて漢方薬から分離したため、『経絡学』の教科書が造られて、経絡を重視した鍼灸治療が主流となった。それでも辨証配穴は生き残っていたのだが、1988年の『難病鍼灸』、そして1991年の『難病鍼灸』の出版により、辨証配穴に比較して格段に効果がある解剖を中心とした鍼灸へと移行した。
 1992年に朱漢章が『小針刀療法』を発表して、鍼に対する解剖の重要性を訴え、各地に小針刀学習班ができて、その驚異的な治癒率を目にすると、一斉に辨証配穴への関心が消え失せた。そして1993年に高維濱が『鍼灸絶招-項鍼治療延髄麻痺』という二元の薄っぺらい本を出すと、それまで頭鍼や頭皮鍼では治療困難とされていた球麻痺や小脳出血が驚異的な治癒率で治り始め、彼は1996年に頭鍼、項鍼、夾脊鍼を組み合わせて治療する『鍼灸三絶』という本を出版し、1999年には『鍼灸六絶』という本を書いている。
 つまり高維濱は十年に三冊出している。中国ではトップクラスだ。
 1992年に『小針刀療法』を書いた朱漢章は、1999年に『鍼刀臨床・診断与治療』という本を書き、その後は微鍼療法として大版の本がカラー写真付きで書かれるようになった。そればかりか治療シーンを見せるVCDまで売られている。
 1988年に『急病鍼灸』、1991年に『難病鍼灸』を書いた張仁は、1997年に『実用独特鍼刺法』を書き、1998年には『急病鍼灸』と『難病鍼灸』を併合して補足した『165種病症最新鍼灸治療』という本を出している。
 瑞は自分の著書がないものの、1998年に頼新生が『三鍼療法』、2000年に彭増福が『三鍼療法』、2003年に袁青が『三鍼問答図解』という写真集を出している。
 瑞、張仁、高維濱、朱漢章は、中国の四天皇と言ってもよい。だから現代中国鍼灸を勉強したければ、この四人の著書を全部揃える必要がある。瑞と張仁は中国で行われている臨床治療をまとめた人、高維濱と朱漢章は新しい刺鍼方法を開発した人と分類できる。高維濱は脳など主に神経系統の専門家、朱漢章は筋肉や骨など主に運動系統の専門家である。
 現代鍼灸は、ほぼこの四人で代表されるが、彼らの鍼治療には漢方式の辨証治療は全く含まれていない。漢方式辨証治療は1989年の天安門騒ぎ以降、パッタリと姿を見せなくなってしまった。本屋へ行っても、ほとんど目に付かない。1980年代までは、ほとんど一色といって良かった辨証治療が、今や過去の治療法となってしまった。現在の中国鍼灸は、分類することには違いないが、辨病というか、筋肉や神経支配、脳の支配分野などを特定して治療することが主流になっている。辨証治療かもしれないが、証の捉え方が漢方薬とは決別したのであろう。
 たぶん私の述べていることに疑いを持っている方が多いであろう。ためしに北京や上海を旅行して、図書城や新華書店へ行ってみるとよい。まず辨証配穴の本など見つからないだろう。だが四天皇の書籍なら、一冊は必ず発見できるはずだ。売れないから書店は置かない。売れれば置くし、また出版される。そうやって治療法も淘汰されてゆく。しかし、では現代中国鍼灸は何なのか? と問われると難しい。分類して治療しているので、辨証治療には違いない。しかし筋肉や神経、脳を分類した治療なので、昔の漢方薬辨証を流用した辨証治療とは、大きく異なっている。

 最後に
 臓腑の陰陽について。
 次に、素朴な疑問です。横隔膜から上は陽、下は陰の臓が配属されていますが、肺は華蓋であり、もっとも上部に位置しています。だから肺と心は陽に属す、これは納得できますが、どうして陽のうち、上にある肺が陰で、下にある心が陽に配属されているのでしょうか?『素問・六節臓象論』には「心者……為陽中之太陽、通于夏気。肺者……陽中之太陰」とあります。と、肺が上にあって、心臓が下にあるのに、どうして上の肺が陰で、下の心が陽なのだ?という疑問が湧きます。
 横隔膜から下は、『霊枢・陰陽繋日月』に「肝為陰中之少陽、脾為陰中之至陰、腎為陰中之太陰」とあります。位置関係は、脾は脾臓でなくて、膵臓を意味していると思われますから、脾、肝、腎の順序で下に位置します。単純に位置関係で考えますと、一番下にある腎の陰が最強、そして脾が脾臓だとしても、肝と脾の位置関係は大差ありません。だから上部に位置する肝が、横隔膜に接しているため「陰中の少陽」とするのは判りますが、どうして次に位置する脾が、陰臓のうちもっとも陰が強いのか?
 この二つの疑問は、学生ならば誰でも不明な疑問です。
 位置の上下に関係なく陰陽が決まっているのであれば、横隔膜から上が陽、下が陰という位置関係がありますが、その内部においては、わりと位置に関係なく陰陽が決まっていると言うことになります。だから別の尺度で、陰陽関係が表されていることになります。
 まず下にある心臓が陽で、肺が陰という問題を考えますと、この両臓は、横隔膜の下に位置する臓器とは明らかに違っています。どう違うかというと、横隔膜の上に位置する臓器は、常に動いているという特徴があります。しかし横隔膜の下にある臓器は、動きません。それを陰陽の法則に当てはめますと、動くのは陽、静かなのは陰だから、心臓も肺も動いているので、横隔膜から上にある臓器は陽だと判ります。そして心臓と肺を較べてみますと、肺は意識的に止めることが出来ますが、心臓は止められません。止めることができる肺と、止まらない心臓を比較しますと、常に動いている肺が陰に属することは明白です。だから同じく横隔膜の上に位置しても、心臓が陽、肺は陰ぽいことが理解できます。それで下にある心臓が、上に位置する肺より陽なのだと理解できます。
 次には、どうして脾が腎より陰が強いのか? これは表裏関係で考えるしかないと思います。横隔膜から上の臓器は、臓器自体を主として考え、横隔膜から下の臓器は、それと正反対の考えをする。すると肝と胆が表裏、脾と胃が表裏、腎と膀胱が表裏の関係にあります。この中で動きがはっきり判るのは、胃ですね。胃は蠕動運動しますから。次には膀胱ですね。排尿して小さくなります。一番動かないのは、おそらく胆嚢でしょう。横隔膜内での位置関係では、陰の大きさが決められないとしたら、横隔膜から上の判断基準として、臓器が動くかどうかで判断するしかありません。しかし、横隔膜から下にある臓器は、外部から動きが判らず、じっとしているとしか考えられません。そうすると表裏の腑によって推測するしかありませんね。
 すぐにグルグル鳴ったり、蠕動運動する胃が、もっとも陽の強い腑と考えられます。次には膀胱、そして動いているのかじっとしているのか判らない胆嚢。ほかには動いているのか止まっているのか判らない小腸、大腸、三焦があります。最後の三つのうち、肛門に繋がる大腸だけが、まあ活動が判る程度といえます。したがって胃>膀胱>胆嚢>大腸>小腸>三焦の順で、動かなくなるものと思われます。『鍼灸学釈難』から、強い陽は、強い陰とペアになり、弱い陽は、貧弱な陰としかペアになれない法則がありますから、陽のもっとも強い胃とペアを組むのが、陰のもっとも強い臓器。膀胱は二番目なので、二番目の陰である臓器とペア。もっとも動かない胆嚢は、もっとも陰が弱い臓器とペアを組むしかないのです。
 で、脾である膵臓は、胃の裏側にあって表裏となるから、陽明とペアになるのが太陰。次に陽が強い腑である膀胱は、二番目に陰の強い臓器とペアになるが、表裏の臓器とは尿管によって繋がっている腎臓。あまり動きの見られない胆嚢は、もっとも陽が貧弱な腑なので、もっとも陰が欠乏している臓器とペアになるが、それが肝胆となる。
 こう考えると、横隔膜の下にある臓器の陰は、表裏となる腑の陽から推測され、それによると脾が至陰、腎が太陰、肝が少陽となるので、普通の陰陽基準で判断すると、脾が太陰、腎が少陰、肝が厥陰に当てはまる。
 ついでに残りの腑を判断すると、大腸はウンコを直接排泄するので、もっとも動きが強いから陽。小腸と三焦を比較すると、全く動きのない三焦より、ときどきゴロゴロと音のする小腸は、たまに動いている感じがする。だから二番目の陽。最後がうごかない三焦。
 これを普通の陰陽基準に当てはめると、大腸が陽明、小腸が太陽、三焦が少陽に当てはまる。それを無理矢理に、横隔膜から上の臓器とペアにすれば、太陰の肺と、陽明の大腸が表裏。少陰の心と、太陽の小腸がペア。そして三焦だけは、あぶれることになります。そこで心包という臓器を作り、陽の一番弱い三焦と組ませることになるから、その臓器は必然的に陰がもっとも弱いことになります。この心包は、いったいどんな臓器でしょう。心を包むとか、心臓を補佐するとありますから、一般的には心嚢ではないかと中国では考えられています。また心嚢のことを、現代中国では心包と呼んでいます。
 ここで心包は、どんな臓器か? ということになりますが、横隔膜の上にある臓器は、動きが判ることを前提にします。そして心を補佐している。
 唯一の手がかりが、『霊枢・経脈』にあります。臓器の所生病には「是主×所生病」とあり、他の臓器の所生病にも「×所生病」と、臓器の名前が書いてあるのですが、心包絡の所生病だけは「是脈所生病」と書かれています。それによると心包とは、動脈を意味していることになります。ですが動きは、心臓>肺>動脈の順序で小さくなるため、もっとも陽が少ないから太陰に相当するはずと思われます。もともとの経脈は、『鍼灸学釈難』によれば、手に二本の脈しかなかった。それは太陰と少陰だったと書かれています。鍼灸の常識では、陰経の経穴は、動脈拍動部にあります。そして橈側には橈骨動脈拍動部があり、尺側にも尺側動脈拍動部があります。しかし手厥陰には動脈拍動部がありません。
 つまり手厥陰は、あとから加えられた経脈であり、無理矢理に付け加えられた経脈と考えられます。だが五臓六腑で、臓が一つ足りない。そこで数を合わせるために心包を持ってきた。それは奇恒の腑である動脈が昇格したもので、動脈は心臓の補佐になります。静脈に弁が付いていることも、心臓と共通点があります。そこで脈を昇格させたというのもマズイから、脈を心包に改めた。しかし『霊枢・経脈』には元の形が残ってしまったために「是主脈所生病」という文章になってしまったと考えられます。それで横隔膜から上にある臓器の尺度では決められない。
 つまり横隔膜から上の臓器を、その動きから肺と心の陰陽を決めた。次に横隔膜から下の臓器だが、動かない臓器を表裏関係から陰陽を決めた。最後に残った腑を心臓と肺に組み合わせたが、三焦が残ってしまった。そこで三焦の少陽とペアにするため、奇恒の腑から一つを選び、厥陰として組み合わせた。奇恒の腑は、脳、髄、骨、脈、胆、子宮だが、胆はペアとなっており、子宮は下半身にあるので使えない。残った四つから動くものを選ぶとすれば、脈しかない。だから脈を選んだのではなかろうか?
 横隔膜の上にある臓器では、一般に表裏関係が曖昧で、肺と大腸、心と小腸などは、表裏といっても直接的な繋がりがない。だが三焦と脈は、たがいに全身の皮下を通っており、横隔膜の上にある臓器の中では、唯一隣接している。
 こうして考えてみると、その位置に関係なく、なぜ各臓腑が、そうした陰陽を割り当てられ、それぞれの陰陽と一致する経脈に当て填められたか推測できる。そして手の陽経が、どうして腑を主治しないか理解できる。これにより最初は、手足の陰陽に基づく経絡だけがあり、そのあとで臓腑を当てはめた。だから手陽明大腸経は、大腸を主治するメインな経脈とならないし、手太陽小腸経も小腸治療のメインとならず、足陽明胃経に上巨虚や下巨虚があり、三焦の下合穴が足太陽膀胱経にある理由も判る。
 中国では、こうした素朴な疑問についても、李鼎の『鍼灸学釈難』のように解説した本がある。しかし日本では、どうしてそうなるのかという本がない。ただ心は少陰で、肺は太陰であると、理由も判らず覚えるだけ。まぁパソコンの原理が判らなくとも、ソフトが使えればよいというようなものだ。
 ただ本に書いてあることだけ丸暗記するだけでなく、なぜそう記載されているかについて討論しても面白いし、進展があると思う。

 日本が、臨床治験の分野で中国を抜いて行くのか、またはこうした理論面で中国を抜いて行くのか、これから先の鍼灸界は、いろいろと楽しみが多い。
 
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