全訳鍼灸医籍選
教科書シリーズ:全訳中医基礎理論、全訳経絡学、腧穴学、全訳鍼灸治療学、全訳鍼法灸法学、全訳鍼灸医籍選。
教科書シリーズ『鍼灸各家学説』は『中国鍼灸各家学説』となって東洋学術出版社から出版されています。これで中国の共通鍼灸教科書は、すべて日本語で読めるようになりました。
-大学中医学教本- 全訳 鍼灸医籍選 翻訳 淺野周
主編 靳瑞 副主編 郭誠傑 編委 張吉/ 徐国仟/ 盛燦若
発行所 (株)たにぐち書店(℡03-3980-5536 Fax03-3590-3630)
定価 4000円A5判 524頁(ISBN4-86129-024-4)
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推薦文
※日本で始めての教科書鍼灸治療学!腧穴学の今村氏が「我々の習った教科書をすべて翻訳しよう」と計画し、たにぐち書店社長の協力を得て、本人は一冊しか翻訳しないものの、一応ほとんどが出版にこぎつけました。
今回の鍼灸治療学は、中国の鍼灸大学(中医薬大学)で教科書とされているものを翻訳したもので、五版教材と呼ばれているものです。教科書シリーズの一貫として翻訳しました。鍼灸専用の本なので、中薬系に進まれた方が目にすることはありませんでした。また英語圏からの留学生が多い、留学生用の教科書を使って勉強された方も目にすることはありませんでした。中国への留学生は、漢字に慣れていない生活環境なので、どうしても識字に問題があります。中国の学生さえ、ときたま読めないことのある本科生の教科書が使えるはずもないので、内容や漢字を大きく減らした教科書を使っています。ですから留学しても外人クラスで学ばれた方は、この教科書を目にすることはありません。本科で中国人学生に混じって勉強する人には、よき参考書となるでしょう。
●本書の特徴
私は四年クラスで肖仁義と机を並べて授業を受けていました。クラスの半分は女子大生で、後の席に座っていた趙岩さんと一緒にデートしましたわなぁ。授業では、内容が難しいので判らず、ただただ読み進めるだけの授業でした。この授業があるからこそ、中国人学生は古典鍼灸が理解でき、中国では古代の鍼灸書が売れるのでしょう。日本ではオリエンタル出版社が原文を販売しているのに関わらず、持っている人がいない。売れないから高い。だから買わない。という悪循環を辿っています。本書は、『素問』や『霊枢』『難経』だけじゃなく、『千金』や『資生経』『問対』『大成』まで入っている優れもの。
古典は何年経ても変わらないので、教科書が新しく変わっても、十分に参考となるでしょう。
●このシリーズを刊行したことの意義
いやあビックリしました。中国の教科書など1985年に刊行されましたから、我々が翻訳する前に、とっくに誰かが翻訳しているもんだと思っていました。
東洋学術から教科書を抜粋してまとめた本があるから、今さら教科書を全訳しても意味がないという元留学生の意見もありましたが、やはり古文に関して訳されたものはないので、違うのではないかと思います。今後は上海科技の教科書を出版してゆきますが、今村氏は崩れた(快楽主義者なので、しんどいこと嫌い)ので、代わりに田久和氏が後任になりました。
しかし、たにぐちの社長は、教科書シリーズを全巻発刊したい意向で、我々が鍼灸関係以外の教科書は翻訳しないというと(中医内科学は何なんだ?)、ひどくガックリしてました。でも餅は餅屋、漢方薬は漢方薬屋ということで、棲み分けが必要です。私も、素霊や難、甲乙や資生、聚英や大成などはともかく、鍼灸の何倍も書籍量のある漢方まで手を出すわけには参りません。中医内科学は、神戸の鍼灸師のお姐ちゃんが谷口書店へ話を持ち込み、私が「それは売れるんじゃあ、あーりませんか」と太鼓判を押した手前、そのお姐ちゃんが中医内科学の翻訳について、まったく音信不通となり、社長に出版ゴーをそそのかした私が責任をとることになりました。それに辨証関係の本でもあるし、鍼灸治療学の副読本として参考になるかなとも思ったからです。
しかし、このような煮え湯を飲まされたので、私は今後、教科書シリーズをやりたいという人をよほどでない限り推薦はしません。残りの中薬学、方剤学、内経講義、傷寒論講義、金匱要略講義、温病学、中医各家学説、中薬鑑定学、中薬炮製学、中薬薬剤学など、漢方薬を勉強している方が翻訳原稿を持ち込めば、たぶん90%ぐらいの確率で出版してもらえると思います。社長も煮え湯を飲まされているので、翻訳したいという話だけで原稿もなしではOKしないでしょう。ちなみに私は『中医内科学』の翻訳を終わりましたが、社長がグズクズしていて版権を東洋学術に取られてしまい、21世紀教材の『中医内科学』の版権を手にしましたが、私は『中医診断学』以外は、漢方薬のことはしたくないと断ったため、小池氏が新世紀『中医診断学』を翻訳しています。また今村が適当な人を選んで、他の漢方薬分野も翻訳してもらうそうです。
目次 第1章 医経選 1.1『内経・霊枢』選 1.1.1九鍼十二原 1.1.2本輸 1.1.3小鍼解 1.1.4邪気蔵府病形 1.1.5根結 1.1.6寿夭剛柔 1.1.7終始 1.1.8四時気 1.1.9寒熱病 1.1.10熱病 1.1.11厥病 1.1.12雑病 1.1.13周痺 1.1.14口問 1.1.15師伝 1.1.16五乱 1.1.17脹論 |
1.1.18逆順肥痩 1.1.19血絡論 1.1.20論痛 1.1.21行鍼 1.1.22邪客 1.1.23官能 1.1.24刺節真邪 1.2『内経・素問』選 1.2.1宝命全形論 1.2.2八正神明論 1.2.3離合真邪論 1.2.4刺熱 1.2.5刺瘧 1.2.6刺腰痛 1.2.7奇病論 1.2.8刺要論 1.2.9刺斉論 1.2.10刺禁論 1.2.11刺志論 1.2.12鍼解 |
1.2.13骨空論 1.2.14水熱穴論 1.2.15繆刺論 1.2.16四時刺逆従論 1.3『難経』選 1.3.1六十二難 1.3.2六十三難 1.3.3六十四難 1.3.4六十五難 1.3.5六十六難 1.3.6六十七難 1.3.7六十八難 1.3.8六十九難 1.3.9七十難 1.3.10七十一難 1.3.11七十二難 1.3.12七十三難 1.3.13七十四難 1.3.14七十五難 1.3.15七十六難 |
1.3.16七十七難 1.3.17七十八難 1.3.18七十九難 1.3.19八十難 1.3.20八十一難 第2章 医論選 2.1『千金要方』選 2.1.1用鍼略例第五 2.1.2灸例第六 2.2『類証活人書』選 2.2.1小序 2.2.2六経病証 2.3『鍼灸資生経』選 2.3.1鍼灸須薬 2.3.2鍼忌 2.3.3審方書 2.3.4点穴 2.3.5論壮数多 2.3.6艾炷大小 |
2.4『鍼灸問対』選 2.4.1巻之上 2.4.2巻之中 2.4.3巻之下 2.5『医門法律・絡脈論』 2.6『鍼灸大成』選 2.6.1諸家得失策 2.6.2頭不可多灸策 2.6.3頭有奇正策 2.6.4鍼有深浅策 2.6.5経絡迎随設為問答 第3章 歌賦選 3.1標幽賦 3.2百症賦 3.3玉龍賦 3.4通玄指要賦 3.5席弘賦 3.6行鍼指要歌 あとがき |
● 本文内容見本 2・4 『鍼灸問対』選 2・4・1 巻之上 (節選) 【主題】 病が気分にあるときと血分にあるときの症状、その取穴法を述べている。 【原文】 或曰:病有在気分者、在血分者、不知鍼家、亦分気与血否? 曰:気分血分之病、鍼家亦所当知。病在気分、遊行不定。病在血分、沈著不移。以積塊言之、腹中或上或下、或有或無者、是気分也。或在両脇、或在心下、或在臍上下左右、一定不移、以漸而長者、是血分也。以病風言之、或左足移於右足、或右手移於左手、移動不常者、気分也。或常在左足、或偏在右手、著而不走者、血分也。凡病莫不皆然。須知在気分者、上有病、下取之。下有病、上取之。在左取右、在右取左。在血分者、随其血之所在、応病取之。苟或血病瀉気、気病瀉血、是謂誅伐無過、咎将誰帰。 【注釈】 ①沈著不移:一ケ所、あるいは数ケ所に固定して動かない。病巣が内部に深く伏しているので、固定して動かないこと。 ②咎将誰帰:「こうした過失は、誰が責任を取るのだろう?」という意味。咎は罪や過失。 【解説】 病が気にあれば遊走して固定せず、形があったりなかったりすることから、気分の病では上の病に下を取り、下の病は上を取り、左の病に右を取り、右の病に左を取る。病が血分にあれば沈着して動かず、その形が徐々に大きくなるのが特徴である。血の所在に基づいて、病巣部を取穴する。これは気病と血病の鍼灸治療に対する配穴処方の原則であり、臨床治療で非常に参考となる。 【訳文】 質問「病が気分にある患者、血分にある患者がいるが、刺鍼も気と血を分けるのか?」 答え「気分と血分の病は、鍼灸師も当然知っている。気分の病は移動して定まらない。血分の病は固定して移動しない。 積塊について言えば、腹中を上や下に移動し、現れたり消えたりすれば気分である。両脇や心下、または臍の上下左右にあり、固定して移動せず、だんだんと大きくなれば血分である。 風の病では、左足から右足へ移ったり、見てから左手へと移り、移動して一定しなければ気分である。いつも左足だったり、右手に片寄っていたりして、着いて移動しなければ血分である。病気は、すべてこうである。気分にあると知れば、上の病を下で取り、下の病を上で取り、左なら右、右なら左を取る。血分にあれば、瘀血の存在に基づいて、病巣部を取る。もし血の病で気を瀉し、気の病で血を瀉すのなら、悪くないものを攻撃することになるが、その失敗は誰の責任だろうか?」 【主題】 形気と病気の辨証治療を述べている。 【原文】 或曰:形気病気、何以別之? 経曰:形気不足、病気有余、是邪勝也、急瀉之。形気有余、病気不足、急補之。形気不足、病気不足、此陰陽倶不足也。不可刺之、刺之則重不足、老者絶滅、壮者不復矣。形気有余、病気有余、此陰陽倶有余也。急瀉其邪、調其虚実。故曰、有余者瀉之、不足者補之、此之謂也。(夫形気者、気謂口鼻中喘息也、形謂皮肉筋骨血脈也。形勝者、為有余。消痩者、為不足。其気者、審口鼻中気、労役如故、為気有余也。若喘息、気喘、気短、或不足以息者、為不足。故曰、形気也、乃人之身形中気血也、当補当瀉、不在於此、只在病潮作 之時、病気精神増添者、是病気有余、乃邪気勝也、急当瀉之。病来潮作之時、精神困窮、語言無力及懶語者、為病気不足、乃真気不足也、急当補之。若病人形気不足、病来潮作之時、病気亦不足、此陰陽倶不足也、禁用鍼、宜補之以甘薬。不已、臍下気海取之)。 【注釈】 ①潮作:時間通りに発作が起きること。 【解説】 補瀉には二つの異なった刺鍼手法があり、状態の虚実を分けて運用する。補とは正気の不足を補うこと、瀉は邪気の有余を瀉すことである。本段では、形気と病気の盛衰に基づいた補瀉原則を論じ、間違った刺鍼では悪い結果となることを述べており、臨床治療の参考となる。これに引用されている経文は『霊枢・根結』だから参照する。 【訳文】 質問「形気の病は、どうやって分けるの?」 『内経』は「形気が不足して、病気が過剰なら、邪が勝っているので急いで瀉す。形気が過剰で、病気が不足していれば、急いで補う。形気が不足し、病気も不足していれば、それは陰陽不足なので刺鍼してはならない。刺鍼すれば不足が重なり、老人は死に、中年でも回復しない。形気が過剰で、病気も過剰ならば、陰陽ともに過剰なので、すぐに邪を瀉し、虚実を調える」という。つまり「過剰ならば瀉し、不足は補う」とは、このことである。(形気であるが、気とは口鼻中の呼吸である。形とは皮肉筋骨血脈である。体格が良ければ過剰であり、痩せていれば不足である。気ならば口鼻中の気を調べ、労働しているようならば気の過剰である。喘息や喘ぎ、息切れ、あるいは微弱呼吸ならば不足である。だから「形気とは、人体の中の気血であるという。補ったり瀉したりは、これのことではなく、病の定期的な発作のとき、病気で精神が増加するものが病気が過剰であり、邪気が勝っているので急いで瀉す。病の定期的な発作で、精神が疲れきり、喋りに力がなかったり喋らないものが病気の不足であり、真気が不足しているので急いで補う。病人の形気が不足しており、病の定期的な発作でも、病気も不足していれば、陰陽ともに不足しているので、鍼を使わず、補薬で補うとよい。それで治らねば、臍下の気海を取って施灸する)。 *労役如故は、肉体労働しているようにハアハアすることと思う。病気とは、人体に侵入して発病させている邪気のことだが、ここでは症状の激しさと捉えている。 【主題】 病因、病位、発病の順序の違いによる治療法を述べている。 【原文】 経曰:刺諸熱者、如以手探湯。刺寒清者、如人不欲行、陰有陽疾者、取之下陵、三里、正往無殆、気下乃止、不下復始也。疾高而内者、取之、陰之陵泉。疾高而外者、取之、陽之陵泉。経曰、病在上者、陽也。病在下者、陰也。痛者、陰也。以手按之不得者、陰也、深刺之。痒者、陽也、浅刺之。病先起陰者、先治其陰、後治其陽。病先起陽者、先治其陽、後治其陰(病在上者、下取之。在下者、上取之。病在頭者、取之足。在腰者、取之膕。病生於頭者、頭重。生於手者、臂重。生於足者、足重。治病者、先刺其病所、従生者也)。 経曰:病始手臂者、先取手陽明太陰、而汗出。病始頭首者、先取項太陽、而汗出。病始足脛者、先取陽明、而汗出。足太陰可汗出、足陽明可汗出、故取陰而汗出甚者、止之於陽。取陽而汗出甚者、止之於陰。 【注釈】 ①手陽明、太陰:手陽明の商陽穴と、手太陰の列缺穴。 ②取項太陽:天柱穴のこと。 【解説】 病変の寒熱、そして病位の陰陽、上下、頭と四肢などに基づいた、それぞれの取穴原則と治療原則を述べている。それは四項目に分けられる。一、寒証では深刺して置鍼し、熱証には浅刺して速抜する。二、陽病は浅刺し、陰病は深刺する。三、発病の順番に基づいて、陽から発病していれば、陽を治療してから陰を治療する。陰から発病すれば、陰を治療してから陽を治療する。四、病位の違いにより、上の病には下を取り、下の病では上を取る。病が頭にあれば足を取り、病が腰にあれば膝窩を取るなど、循経の遠道取穴を原則とする。もし前腕から発病すれば、手の陽明と太陰を取る。頭から発病すれば、足の太陽を取る。足脛から発病すれば、足の陽明と太陰を取る。こうした原則は、現在の臨床治療でも応用されている。この経文は『霊枢・九鍼十二原』と『素問・熱論』に見られるが、原文とは少し異なる。 【訳文】 『内経』は「発熱に刺鍼するときは、手で熱湯を探るように。 冷えに刺すときは、行かせたくない人を引き留めるように。 陰分に陽熱があれば、足三里を取れば、正しく行えて間違いない。熱気が下がったら止めるが、下がらなければ再び始める。 疾病が高いところの内側にあれば陰陵泉を取る。 疾病が高いところの外側にあれば陽陵泉を取る」という。 『内経』は「上の病は陽である。下の病は陰である。痛みは陰である。手で押しても判らなければ陰なので深刺する。痒みは陽なので浅刺する。陰から発病したら、陰を治してから陽を治療する。陽から発病したら、陽を治してから陰を治療する。(病が上 にあれば下を取り、下にあれば上を取り、病が頭にあれば足を取り、腰にあれば膝窩を取る。頭が発病すれば頭が重くなり、手が発病すれば腕が重くなり、足が発病すれば足が重い。病を治すには、発病した場所から刺鍼する)」という。 『内経』は「手の前腕から発病したら、まず手の陽明と太陰を取って発汗させる。頭から発病したら、まず後頚部の太陽を取って発汗させる。足の脛から発病したら、まず足陽明を取って発汗させる。足太陰でも発汗でき、足陽明でも発汗できるので、陰経を取って発汗が激しすぎれば陽経で止め、陽経を取って発汗が激しすぎれば陰経で止める」という。 【主題】 正経自体に発生した病と、五邪による病を記載している。 【原文】 或曰:有正経自病、有五邪所傷、鍼治亦当別乎? 経曰:憂愁思慮、則傷心。形寒飲冷、則傷肺。恚 怒気逆、上而不下、則傷肝。飲食労倦、則傷脾。久坐湿地、強力入水、則傷腎。此正経自病也。盖憂思喜怒、飲食動作之過、而致然也。風喜傷肝、暑喜傷心、飲食労倦喜傷脾(労倦亦自外至)。寒喜傷肺、湿喜傷腎、此五邪所傷也、盖邪由外至、所謂外傷也。凡陰陽蔵府、経絡之気、虚実相等、正也。偏実偏虚、失其正、則為邪矣。由偏実也、故内邪得而生、由偏虚也、故外邪得而入(機按:経言凡病、皆当辨別邪正、内外、虚実、然後施鍼補瀉、庶不致誤)。 【注釈】 ①恚:恨んだり怒ったりすること。 【解説】 病因によって五臓に対する影響が違う。だから鍼灸では、必ず邪正、内外、虚実を分類したのち刺鍼補瀉をする。そうしないと誤治する。経文は『霊枢・邪気臓腑病形』から選んだものなので参照する。 【訳文】 質問「経脈が発病したときと、五邪で傷付いたときは、鍼治療で違いがあるのか?」 『内経』は「憂愁思慮などの感情は、心を傷める。身体の冷えや冷たいものを飲むと、肺を傷める。憎しみや怒りは肝気が上逆し、上がったまま下がらず、肝を傷める。飲食や過労は脾を傷める。長いこと湿地に座っていたり、無理して重荷を担いだり、水に浸かれば腎を傷める。これらは経脈自体の発病である。憂思や喜怒、飲食や動作の間違いで、発病したものである。風は肝を傷付けやすく、暑は心を傷付けやすく、飲食や過労は脾を傷付けやすく(過労は外から来たものでもある)、寒は肺を傷付けやすく、湿は腎を傷付けやすいが、これが五邪に傷付いたもので、この邪は外から入るため外傷と呼ぶ。だいたい陰陽臓腑、経絡の気などの虚実が等しければ正である。実に片寄ったり、虚に片寄ったりして、正を失うと邪である。体内が実に片寄るために内邪が発生し、体内が虚に片寄るために外邪が侵入する」という。(汪機は、『内経』に「病では、邪正、内外、虚実を弁別してから刺鍼補瀉をする。そうすれば全部が誤らない」とあると解説している)。 *正には中央の意味があり、邪には斜めの意味がある。 【主題】 期門穴の作用と部位について述べている。 【原文】 或曰:傷寒、刺期門穴者、何如? 曰:十二経、始於手太陰之雲門、以次而伝、終於足厥陰之期門。期門者、肝之募也。傷寒過経 不解、刺之、使其不再伝也。婦人経脈不調、熱入血室、刺之、以其肝蔵血也。胸満腹脹、脇下肥気、凡是木鬱諸疾、莫不刺之、以其肝主病也。経云、穴直乳下両肋端。又曰、在不容傍一寸五分。古人説得甚明、今人不解用也。 【注釈】 ①過経:『傷寒論・辨太陽病脈証並治』を見よ。傷寒の病が伝変する過程で、ある経脈の証候から別の経脈証候へ転入することを指している。例えば太陽表証は消えたが、今度は少陽経脈の証候が現れたりするものを、太陽病の過経と呼ぶ。 ②熱入血室:病名。『傷寒論』と『金匱要略』から出ている。婦人が月経中に、風寒の外邪を感受し、邪熱が虚に乗じて血室(子宮)へ侵入し、血と相搏(結合)したため現れる病証。『金匱要略』には「婦人が風に中って発熱悪寒し、その時に経水(月経)が来ると、発病してから七~八日で、熱が引いて脈が遅くなり、身体が冷めるが、そのとき胸肋がつかえ、胸にシコリができたような状態になり、譫語(ウワゴト)を言うものは熱入血室である。その時は期門を刺して、その実を取る。ただし頭に汗が出ていて、期門を刺して、その実を瀉すと、タラタラと汗が流れるものは治る」とある。 【解説】 期門は、足厥陰肝経の腧穴であり、肝の募穴であって、十二経脈の最後の穴位である。『傷寒論』では、期門を刺す証には五つあるとしている。期門を刺すことによって病気が治り、他経に伝わらない。ここでは期門穴の部位が、不容穴の傍ら一寸半としており、解剖的な部位と一致していない。それは乳頭の直下にあり、第六肋間が標準である。 【訳文】 質問「傷寒で、期門穴を刺すとは、どうしたこと?」 答え「十二経は、手太陰の雲門から始まり、次々と伝わって、足厥陰の期門に終わる。期門は肝の募穴である。傷寒が経脈症状を過ぎても治らないとき、刺鍼して、それ以上に邪が伝わらなくさせる。婦人の経脈が不調で、熱が子宮へ入ったときも刺すが、肝が血を蓄えるからである。胸が支えて腹が脹り、脇下にシコリがあるのは、木鬱による諸病だから刺鍼するしかない。これは肝が主治する病である。経典に、穴は乳の直下で、両肋骨の端という。また不容の傍ら一寸五分とも言う。古人の説明は非常に明らかであるが、現在の人は使い方が判らない。 *肥気は、脇下のシコリ。肝臓肥大、肝積とか息積とも呼ぶ。 【主題】 按時開穴(子午流注などにより、きまった時刻に刺鍼する法)の鍼法を述べている。 【原文】 或曰:『指微賦』言、養子時刻注穴者、謂逐時於旺気、注蔵府井滎之法也、毎一時辰、相生養子五度、各注井滎兪経合五穴、昼夜十二時、気血行過六十兪穴也。仮令甲日甲戌時、胆統気、出竅陰穴為井、(木気)流至小腸為滎、(火気)過前谷穴、注至胃為兪、(土気)過陥谷穴、并過本原丘墟穴、行至大腸為経、(金気)過陽谿穴、入於膀胱為合、(水気)入委中穴而終。是甲戌時、木火土金水相生、五度一時辰、流注五穴畢也。与七韵中所説、亦相通否? 曰:栄衛昼夜、各五十度周於身、皆有常度、無太過、無不及、此平人也。為邪所中、則或速或遅、莫得而循其常度矣。今何公於七韵中、謂井滎兪経合五穴、毎一穴占一時、如甲日甲戌時、胆出竅陰。丙子時、流於小腸前谷。戊寅時、流於胃合谷、并過本原丘墟。庚辰時、行於大腸陽谿。壬午時、入於膀胱委中、再迂甲申時、注於三焦。六穴帯本原、共十二穴、是一日一夜、気但周於此数穴也、且五蔵五府十経、井滎兪経合、毎一穴占一時、独三焦六穴占一時、包絡五穴占一時、而『賦』乃言甲戌一時、木火土金水相生、五度一時、流注五穴畢、与『韵』中所語、大不相合。『賦』与『韵』、出於一人、何其言之牴牾、若是?不知、不善於措辞耶? 不知『賦』『韵』両不相通耶?『賦』注又言:昼夜十二時、血気行過六十兪穴、考其、鍼刺定時、昼夜周環六十首図、乃知一時辰、相生養子五度之説矣。仮如甲日甲戌時、甲、陽木也。故胆始竅陰木、木生前谷火、火生陥谷土、過丘墟原、土生陽谿金、金生委中水。再遭甲申時、注於三焦関衝、液門、中渚、陽池、支溝、天井六穴。不特甲戌時為然。一日之中、凡遇甲時、皆如甲戌時所注之穴也。又如乙日乙酉時、乙、陰木也。故肝始大敦木、木生少府火、火生太白土、土生経渠金、金生陰陵水、再迂乙未時、注於包絡中衝、労宮、大陵、間使、曲沢五穴。不特乙日乙酉為然。一日之中、凡迂乙時、皆如乙酉時所注之穴也。 所注皆在本日本時本経、注於井穴、己後時辰、不注井穴、己前時辰、如癸日癸亥時、主腎注於井、次至甲子時、胆経所注、一如甲日甲戌時、所注之穴也。次至乙丑時、肝経所注、一如乙日乙酉時、所注穴也。次至丙寅時、小腸所注、一如丙日丙申時、所注之穴也。挙此為例、余可類推、此所謂昼夜、昼夜十二時、気血行過六十兪穴也。但与七韵所説不合、莫若刪去七韵、只存此説、庶免後人心蓄両疑、猶豫而不決也。雖然、二説倶与『素』『難』不合、無用其法、猶辨論之不置者、将使読者不待思索、一覧即解其意矣。 【注釈】 ①牴牾:牴は触れること。牾は逆、従わないこと。牴牾は、意味を拡大して、矛盾が衝突している意味。 【解説】 時間開穴鍼法には、子午流注、霊亀八法、飛騰八法などがある。子午流注は、五輸穴と原穴を組み合わせた日時開穴法である。霊亀八法と飛騰八法は、奇経八脈を組み合わせた日時開穴法である。いずれも正常な人体を気血が運行するときは、時刻通りに盛衰すると考え、経穴の開闔する時間が違うので、開穴する時刻に鍼灸すれば治療効果があるとしている。ここでは子午流注の開穴時間を論じている。各時刻に一つの穴が開き、毎日六穴が開くとする納甲法は捨て、各時間に五穴が開いて昼夜で六十穴開く理論を採用した方がいい。その説が『霊枢』の『五十営篇』と『営衛生会篇』が言う、営衛は昼夜で全身を五十周ほど循行するの理論と一致するようだ。ここでは最初に、営衛が昼夜で五十周するのは健康人で、発病すると速くなったり遅くなったりして乱れると言っている。しかし現在では一般に納甲法が使われているので、軽率に捨て去るのではなく、臨床治療と研究によって、完全なものにしてゆかなければならない。 【訳文】 質問「『指微賦』に“子の時刻に穴位へ注いで養うことを、時を追って気が旺盛になり、臓腑の井滎に注ぐ法である。毎一刻限、相生で子を五回養い、それぞれ井滎兪経合の五穴に注ぎ、昼夜の十二刻で、気血は六十の兪穴を通り過ぎる。もし甲日の甲戌刻ならば、胆の統率した気が、竅陰穴から出て井となり、(木気)から小腸の滎に流れ、(火気)から前谷穴を過ぎて胃の兪穴に注ぎ、(土気)から陥谷穴を過ぎて、一緒に本経の原穴である丘墟穴を過ぎて、大腸の経穴に行き、(金気)から陽谿穴を過ぎて膀胱の合穴に入り、(水気)から委中穴へ入って終わる。これは甲戌刻における木火土金水の相生で、一刻限で五回、五穴に流注して終わる”とある。これは『七韵』で述べている内容と同じなのか?」 答え「栄衛は昼夜で五十回ほど全身を循環する。それぞれ規則性があり、過ぎることもなく、達しないこともないのが健康人である。しかし邪が入れば、循環するスピードが速くなったり遅くなったりするので規則的には行かない。現在では何公が、『七韵』中の井滎兪経合の五穴で、各一穴が一刻限を占める。例えば甲日甲戌刻に胆経の竅陰に出て、丙子刻に小腸経の前谷に流れ、戊寅刻に胃の合谷に流れるとともに本経の原穴の丘墟を過ぎ、庚辰刻に大腸経の陽谿を行き、壬午刻に膀胱の委中へ入り、さらに甲申刻では三焦に迂回して注ぐ。六穴は本経に原穴を持っているので全部で十二穴、これが一日一夜で、気は、この数穴を巡るだけである。しかも五臓五腑の十経は、井滎兪経合で、各一穴が一刻を占め、心包絡の五穴が一刻を占める。そして『歌賦』は甲戌の一刻、木火土金水の相生で、一刻限で五回、五穴に流注して終わるという。これは『七韵』が述べている内容と全く噛み合わない。『歌賦』と『七韵』は同じ人間が作っているのに、どうして内容が一致しないのか? 言葉の置き方が悪いのか? 『歌賦』と『七韵』は、通じ合っていないのか? 『歌賦』の注釈に、昼夜の十二刻で、血気は六十兪穴を通るという。その定時に刺鍼する昼夜循環六十首図を考えてみると、一刻限に相生で子を五回養うという説を知る。仮に甲日の甲戌刻ならば、甲は陽木である。だから胆経の竅陰木から始まり、木は前谷の火を生み、火は陥谷の土を生み、丘墟の原穴を通って、土が陽谿の金を生み、金が委中の水を生む。さらに甲申刻になると、三焦経の関衝、液門、中渚、陽池、支溝、天井の六穴に注ぐ。甲戌刻だけ特殊なのではない。一日中、甲刻であれば、すべて甲戌刻のように穴へ注がれる。また乙日乙酉刻は、乙で陰木である。だから肝経の大敦木から始まり、木は少府の火を生み、火は太白の土を生み、土は経渠の金を生み、金は陰陵泉の水を生んで、さらに乙未の刻になると、心包経の中衝、労宮、大陵、間使、曲沢の五穴に注ぐ。乙日乙酉刻だけが特殊なのではない。一日中、乙刻ならば、すべて乙酉刻のように穴へ注がれる。 本日本刻本経に注がれるのは、井穴に注がれ、己の後の刻限には井穴へ注がれず、己の前の刻限、たとえば癸日癸亥刻は、腎が主で井穴に注がれ、次の甲子刻は胆経に注がれ、まったく甲日甲戌刻に注がれる穴位と同じだ。次の乙丑刻は肝経に注ぐが、やはり乙日乙酉刻に注がれる穴位と同じだ。次の丙寅刻は小腸に注がれ、丙日丙申刻に注がれる穴位と同じだ。これらを例に挙げて、ほかを類推すると、ここで言う昼夜は、昼夜が十二刻であり、気血が六十兪穴を通る。しかし『七韵』の説とは一致しない。『七韵』は削除して、この説だけを残さないと、後世の人の心に疑いが蓄積され、迷って決断できない。しかしながら両説とも『素問』や『難経』とは一致せず、この方法は無用で、弁論する価値もない。読者の考えを待つこともなく、一目見れば意味が判るようにした」。 *ここの子は、子供ではなくネズミ。昔は一日二十四時間を十二支で表しており、一刻が二時間となる。甲と乙は、胆と肝で木となる。 2・4・2 巻之中 (節選) 【主題】 刺鍼手法の神秘化について論じている。 【原文】 或曰:今医用鍼、動輟以袖覆手、暗行指法、謂其法之神秘、弗 軽示人、惟恐有能盗取其法者、不知果何法耶? 曰:金鍼賦十四法、与夫青龍擺尾 等法、可謂已尽之矣、舎此而他、求法之神秘、吾未 之信也。況此等法、証之於経、則有悖 於経、質 之於理、則有違於理、彼以為神、我以為詭。彼以為秘、我以為妄、固可以愚弄世人、実所以見鄙識者、古人有善、惟恐不能及人、今彼吝嗇至此、法雖神秘、殆必神亦不佑、法亦不霊也、奚足尚哉。 【注釈】 ①弗:なかれ。~をしないの意味。 ②青龍擺尾:複式手法の一つ。瀉法で、鍼柄を左右に揺らして鍼孔を広げる刺鍼操作。 ③悖:背く、違反する意味。 ④質:質問すること。 ⑤詭:詐欺、嘘、屁理屈。 【解説】 刺鍼の補瀉手法について述べている。刺鍼では、さまざまに異なった操作ができたが、そうした刺鍼操作が秘密のものとして神秘化され、各人がバラバラで一致した理論がないと言っている。ここでは刺鍼操作を他人に見られることを恐れ、神秘化することを非難している。しかし最近の補瀉手法の研究では、すでに体温の上昇や降下など、効果を証明する資料があるので、今後も研究する価値がある。 【訳文】 質問「現在の医者は、鍼を使うとき、動作を袖で隠し、指使いを見えなくして、その方法を神秘と呼び、軽々しく人に見せず、ただ方法を盗み取られないかと恐れる。果たして何の方法を使っているのか?」 答え「金鍼賦の十四法、そして青龍擺尾などの方法で、すでに尽くされている。これを捨てて、ほかに神秘の方法を求めるとは信じられない。こうした方法は、経典で証明すれば経典に反し、道理を質問すれば道理に背く。彼は神とするが、私はインチキとする。彼が秘伝とするが、私はデタラメとする。これは世の人を愚弄するもので、実際は見識がない。古人は良いものがあると、それが埋もれてしまうことを恐れた。今の彼はケチなだけで、手法は神秘かもしれないが、絶対に神に守られることもなく、手法も効果がない。重んずる価値があるのか?」 【主題】 鍼灸の術者は、よい医療精神を持たなければならないことを論じている。 【原文】 或曰:今医置鍼於穴、略不加意、或談笑或飲酒、半晌之間、又将鍼拈幾拈、令呼幾呼、仍復登筵、以足其欲、然後起鍼、果能愈病否乎。 曰:『経』云「凡刺之真、必先治神」。又云「手動若務、鍼耀而匀、静意視義、観適之変」。又云「如臨深淵、手如握虎、神無営於衆物」。又云「如待所貴、不知日暮」。凡此数説、敬乎怠乎。又云「虚之与実、若得若失、実之与虚、若有若無、謂気来実牢者為得、濡虚者為失、気来実牢濡虚、以随済迎奪、而為得失也」。 又曰「有見如(如読為而)入、有見如出、盖謂入者、以左手按穴、待気已至、乃下鍼、鍼入候其気尽、乃出鍼也」。 又曰「既至也。量寒熱而留疾、寒則留之、熱則疾之、留者持也、疾者速也。凡補者、按之遅留。瀉者、提之疾速也」。 又曰「刺熱厥者、留鍼反為寒。刺寒厥者、留鍼反為熱。刺熱厥者、二刺陰而一刺陽。刺寒厥者、二刺陽而一刺陰」。機按:以上数条、此皆費而隠者也。敬者能之乎、怠者能之乎、古人所以念念在茲、不敢傾刻而怠忽者、惟恐虚実得失、而莫知寒熱疾留而失宜也。因摭而輯之於此、庶使後学、将逞今之弊、而変今之弊、而変今之習也歟。 【注釈】 ①摭:拾い上げる。 【解説】 ここでは『内経』を引用して、刺鍼中は治療に専念し、注意を患者に集中させ、鍼下に気が至る状況や、寒熱の反応状態を観察することを述べている。いい加減に治療する人を批判し、それは患者に対して無責任なことであり、治療効果にも影響し、医療事故を起こすかもしれないと注意を呼びかけている。こうしたことは重要なので、治療家は肝に銘じておかなくてはならない。 【訳文】 質問「現在の医者は、鍼を穴位に置き、ほとんど注意もせずに、談笑したり飲酒し、しばらくすると再び鍼を数回捻鍼し、幾らか息を吐かせ、やはり酒席に戻って欲を満たし、そして抜鍼する。そんなことで病気が治るのか?」 答え「『内経』は“刺鍼の真理は、まず精神を治めよ”、また“手は務めて動かし、鍼は均一に光らせ、静かに鍼を観察し、変化を観察せよ”、さらに“心は深淵に臨むように、手は虎を握っているように、精神をほかのものに向けぬように”、“高貴な人に仕えるように、日が暮れるのも気にせず”という。こうした説を尊重するのか、いい加減にするのか。また『難経』に“虚と実には、得たような感じを起こさせたり、失ったような感じを起こさせたりする。実と虚では、あるような感じがするものと、ないような感じがするものとある。気の来るのが実で堅ければ得ている。柔らかくて虚ならば失っている。気の来るのが実で堅いか、柔らかで虚なのかによって、沿わせて助けたり、迎えて奪ったりするのが得失である”とある。 また“見えたら(如は而と読む)刺入し、見えたら抜鍼する。刺入するとは、左手で穴位を圧し、気が至るまで待ち、それから刺入する。鍼を入れて堅さが緩み、気が尽きたと思ったら抜鍼する”という。 また“気が至ったら、寒熱を測って置鍼するか速抜するか決める。寒ならば留め、熱ならば疾にする。留なら遅く、疾は速い。だいたい補ならば鍼を押し込むとき遅く、瀉では引き上げるのが速い”という。 また“熱厥に刺鍼するには、置鍼して逆に冷やす。寒厥に刺鍼するには、置鍼して逆に熱くする。熱厥に刺鍼するには、二回陰経を刺して一回陽経を刺す。寒厥に刺鍼するには、二回陽経を刺して一回陰経を刺す”」という。汪機は、以上の項目は、みな面倒で隠すものである。敬うものができるものか? 怠るものができるものか? それを古人は気に掛けて、片時でも疎かにしなかった。ひたすら虚実の得失、寒熱による刺鍼速度の違いを知らずに失敗することを恐れた。経典から拾い集めて、ここに編集し、やりたい放題の現在の弊害があるが、後学者が現在の習慣を変えなければ。 *「如は而と読む」は、如くではなくて而の意味。 熱厥は『素問・厥論』にあり、失神して手足が熱く、発熱して尿が赤い。寒厥は失神して手足が冷たいもの。 最後の文句は『霊枢・終始』。 2・4・3 巻之下 (節選) 【主題】 灸法の適応証が述べられている。 【原文】 或曰:病有宜灸者、有不宜灸者、可得聞歟? 曰:大抵不可刺者、宜灸之。一則沈寒痼冷。二則無脈、知陽絶也。三則腹皮急、而陽陥也。舎此三者、余皆不可灸、盖恐致逆也。 『鍼経』云:陥則灸之、天地間無他、惟陰与陽、二気而已。陽在外、在上。陰在内、在下。今言陥下者、陽気下陥、入陰血之中、是陰反居其上、而覆其陽、脈証倶見寒、在外者、則灸之(夫病、有邪気陥下者、有正気陥下者、邪気陥下者、是経虚、気少、邪入、故曰感虚乃陥下也、故諸邪陥下在経者、宜灸之。正気陥下、宜薬昇之、如補中益気之類)。 経曰:北方之人、宜灸焫也。為冬寒大旺、伏陽在内、皆宜灸之、以至理論、則腎主蔵、蔵陽気在内、冬三月、主閉蔵是也。若太過則病、固宜灸焫、此陽明陥入、陰水之中是也。 【注釈】 ①無脈:沈渋で力のない脈象のこと ②腹皮急、而陽陥也:陽虚のため水腫となった病人(腹水で皮膚が引きつっている)。 【解説】 ここには灸の適応証と基本原則が述べられている。灸には経脈を温めて通じさせたり、陽気を引き上げたり、陽を回らせて脱なくしたり、中焦を温めて寒を散らすなどの作用がある。そのため虚寒証に対する効果が鍼より勝り、重視しなければならない。文中に挙げてある灸の適応証は三種類だけで、適応証すべてではない。臨床では、現代の臨床研究の成果を参考にして、灸治療法の作用を十分に発揮する。 【訳文】 質問「病には、灸の適するものと、灸の不適なものがある。それを聞きたい」 答え「だいたい刺鍼できないものには灸が良い。一つめに寒の潜伏した頑固な冷え。二つめに脈がないようで、陽が絶えていると判るもの。三つめに腹の皮が突っ張って腹水となり、脾陽が下陥して水液代謝のできないもの。この三つは灸が適していて刺鍼できないが、他は全て灸ができない。それが逆証になる恐れがあるからだ」。 『霊枢』は「陥下すれば灸する。天地の間に、他にはない。ただ陰と陽の二気だけがある。陽は外で、上にある。陰は内で、下にある。いま陥下と言ったが、それは陽気が下陥して陰血の中へ入ったもので、これでは陰が反対に陽の上にあり、陽を覆ってしまっているので、脈証では熱とともに寒も見える。外にあれば施灸する(病には、邪気が陥下した ものと、正気が陥下したものがある。邪気が陥下したものは、経が虚して正気が少なくなったため邪が入ったもので、虚して邪を感受して陥下したという。つまり邪が経に陥下したものなので灸がよい。正気が陥下したものは、邪がないから薬で陽気を上昇させるとよい。これには補中益気などを使う)」。 『内経』は「北方の人は、灸で燃やすと良い。冬は寒さが旺盛で、陽気が体内に隠れるので、みな灸が良い」という。理論では、腎は貯蔵し、陽気を体内に貯蔵する。冬の三ケ月間は、主に閉じて貯蔵する。もし寒さが過ぎれば発病するが、それには灸で燃やすとよい。これは陽明が、陰水の中に水没しているものである。 【主題】 灸法の補瀉について述べている。 【原文】 或曰:灸有補瀉乎? 『経』曰:以火補者、無吹其火、須自滅也。以火瀉者、疾吹其火、伝其艾、須其火滅也。虞氏曰、灸法不問虚実寒熱、悉令灸之。亦有補瀉乎? 曰、虚者灸之、使火気、以助元気也。実者灸之、使実邪随火気、而発散也。寒者灸之、使其気復温也。熱者灸之、引欝熱之気、外発、火就燥之義也。 【注釈】 ①悉令灸之:すべてに施灸してよい。 【解説】 ここでは灸治療の補瀉について述べているが、内容は『霊枢・背腧』と同じである。 【訳文】 質問「灸に補瀉があるのか?」 『内経』は「火で補うのは、灸の火を吹かず、自然に火が消えるのを待つ。火で瀉すのは、灸の火を吹いて速く燃やし、モグサに火を伝わらせ、火が早く消えるようにする」という。虞氏は「灸法では、虚実寒熱を問わず、すべてに施灸してよい」という。やはり補瀉法があるのか? 「虚への施灸は、火気に元気を助けさせる。実への施灸は、実邪が火気に伴って発散される。寒に対する灸は、陽気を再び温めさせる。熱に対する灸は、欝熱の気を、火気で引き寄せて外に発散させる。火は乾燥の意味である」という。 引用したのは本書19ページ分。『鍼灸問対』を引用したわけは、このホームページに『鍼灸問対』の全文が掲載されているからです。 |
なお、この引用は、出版社の許可を受けていません。勝手に引用しています。本人だから、いいんよう……な~んちゃって。
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